第二話 祖母の死
令和四年十二月二十五日午後二時〇九分、父方の祖母は安らかな眠りについた……。彼女の姉が満百歳で亡くなったのに次いで享年九十七歳の大往生だった。
大正十四年に東京都北区滝野川に生まれて、昭和、平成と令和の世まで生き抜き、子供達や孫達、曾孫にまで恵まれた、いつまでも笑顔を絶やさず周りを照らしていた一輪の白百合の様な存在の、優しいおばあちゃんだった……。
今から二十数年前に祖父に先立たれ暫くの間は元気が無く食べ物も受け付けないほど、体調の優れない日が長く続いた。しかし、周りの人達が祖母のことを何かと気にかけ贈り物をしたり、近場の温泉に連れて行ったり、度々彼女の家を訪ねては話し相手になってあげたりした為、祖母は少しずつ元気を取り戻していった。
しかし、気持ちは元気に慣れても『老い』と『衰え』にはかなわず、私生活の面倒を自分でできなくなっていった……。
私生活の自分の面倒を自分でできないとはどのようなことがあったのか。具体的に挙げれば、まず何度も転んでいつの間にか痣を作ったり骨折したりする。今まで毎日のように拵えていた『茹で卵』の作り方を忘れる。コンロの使い方が分からなくなる。せっかく家族に買ってきてもらった『アイスクリーム』を常温のストッカーに入れてドロドロにし来客に差し出す。消費期限がとっくに過ぎた『古い食べ物』を食べて度々医師の世話になり、本当のことを言わないから『世にもまれなる奇病』の様に処理される(口に出してはいないが医師は裏では食中毒を疑っていた、本人が否定するので違うということにされてしまっていた)。
流石にここまでひどくなると家族や親戚は心配になる……。そこで本人と話し合ったうえで神奈川県茅ヶ崎市内の某老人ホームに祖母を入居させた。
老人ホームに入って暫くは本人のプライドが高いのも災いしてなかなか馴染めず、辛い思いをしたらしい。それでも少しずつ慣れてきたのだろうか。気付けばあれ程描くのを嫌がっていた『絵』を描いたり、驚いたことには車いすに座った状態で盆踊りの練習に加わったりと徐々に祖母の顔の表情がほぐれてきて、物柔らかで優しい、明るい表情に変わっていた……。
それからしばらくして『コロナ戦争』が勃発。世の中は自粛モードに入り、出掛けることを我慢する風潮が広まった。当然の如く、祖母の入居していた老人ホームも一時面会を近親者の限られた人以外中止にした事があった。コロナの為に暫くは私が祖母に面会することが出来ず、どうしているかなと思っていると、叔母が代表を務めて職員の人に話を聞いてくれた。職員の話によれば、祖母はコロナ感染することも無くワクチンを打っても副反応は現れなかったという事で、早く孫達や曾孫に会いたいと寂しがっていたという。
やがてコロナが一応は落ち着いてくると、感染対策を万全にしたうえでの面会の許可が下りた。私がマスク越しに祖母が喜びそうな話を聞かせてあげると(耳が遠いので『筆談』)今まで以上に顔をほころばせて楽しそうに私の話を聞いてくれた。
また、気の向いた時に差し上げたお手紙も喜んでくれていたそうでホームの職員の方々の話では時折その手紙を引き出しから取り出しては何度も読み、嬉しそうな顔をしていたという事である。やはり家族と離れて生活していたので寂しかったのだ……。
それからまたしばらくして忙しさにかまけて面会が無沙汰になってしまう。他の家族や親戚の方々が代わりに面会に行くと『元気だ』という事だったので、私は当然祖母はまだ長生きするだろうと変に確信を持っていた……。
しかしその私の思いは見事に裏切られる事になる……。
しばらくの無沙汰が続き叔母から父を通して祖母の不調の連絡が入った。『風邪』ではなくてもう『寿命』だという事だった。
「弱っておいでです」
「お孫さんたち始め面会のできる方は沢山会ってあげてください」
という職員からの話である。
私は急遽先日家族旅行に出かけた時の写真集や、『日展』を観に行った際に買った絵葉書などを持って、祖母の亡くなる前に三回見舞いに行かせていただいた……。
一回目、まだ意識があり時折疲れて眠ってしまうがお土産の品を見せると頷いてくれた。耳元で話しかけると小さな声で返事をしてくれた。抱き枕の代わりだろうか、ふかふかの縫いぐるみを抱いてベッドに横たわっていた。
お一人様制限時間二十分という事もあり、あまり長居も出来ない。そろそろかな、と思ったところで私は祖母に帰る旨を伝える……。別れ際に自然な流れで手を振ってみると疲れて眠いはずの祖母がベッドの上からにこりと笑って左腕を持ち上げ手を振り替えしてくれた……。
この時はまだ少しだけ元気だった……。
二回目のお見舞い。まだ意識はある。だけれどもこの間の元気は余りなかった。疲れている様だ。面会の間、彼女はほとんど眠ってしまっていた。それでも耳元に話しかけてみたのだが、顔を背けてしまった……。余りしつこくするのも可哀想と思い、部屋から出る時に
「帰るね、またね」
と挨拶したらわざわざこちらを向いて弱々しくではあるが、手を振ってくれた。
恐らくこれが意識がはっきりしていた時の最後の別れの挨拶だったかもしれない……。
三回目の最後の見舞い……。
祖母は肩ではぁはぁ息をしていた。意識が朦朧としているようだ。駄目元で話しかけてみる。
「おばあちゃん」
私はマスクをこっそり外し彼女に顔が見えるようにした。すると誰なのかわかるのであろうか、
「……あ……あぁ」
言いたいことはわかる。私は時間が来るまでそこにいた。
翌日、ホームから連絡があった。父と弟と叔母、それから二番目の従兄弟が代表として祖母の最期を見届けに行った……。
コロナ感染対策の都合もあり親族全員で最期のお別れをするわけにはいかなかった。私も昨日までの間にお別れのお見舞いに三度行ったのでその日ばかりは行かれなかった……。
老人ホームの職員の方の話によると今日が山ですからとのこと……。
辛島 〇〇〇(祖母の名前)
令和四年十二月二十五日午後二時〇九分、
老人ホーム某において、
『老衰』の為、死去。
(享年九十七歳)
帰宅した家族の話によると、祖母は徐々に呼吸が浅くなり息を引き取る直前に一瞬だけ苦しそうな顔をして口の端から微量の唾液が零れ落ち、後は静かに眠りについた、とのこと。
特に変わった不可解なこともなく安らかな最期だったという事だ。
やがてその日の夕方四時を回った頃。祖母は黒い車に乗せられて念願の帰宅を果たした。大方晴れていた青空からは天が私の気持ちを汲んでくれたのか『天気雨』が降ってきた……。
仏間に運ばれて西枕に寝かされた祖母の頭部にそっと両手で触れた時、祖母の身体はまだ、温かかった……。
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