第8話 女王様とかませ犬

side九十九紗耶ツクモサヤ


 零士くんと真壁くんが先生に連れられていく背中を見送りながら、私はごくりと喉を鳴らした。


 ……やっぱり、いい戦闘力ですね。戦果秋保。


 中学時代の喧嘩のデータと、事前の聞き込みから割り出した戦力評価は、女子標準値を100とした場合、320以上。


 喧嘩経験豊富、体幹強度高、打撃・組みの両方に適性あり。

 九十九高校の新入生の中でも、戦闘力は筆頭と言ってもいい。


 ただ、頭の方は予想よりも低い。


 男性に拳を振り上げるなどあり得ない


 すぐに私は介入するつもりだった。


 動き出した筋肉の質、体重移動、重心の軌道。


 ……けれど。


 朝比奈零士くんは、私より一瞬早く動いた。


 拳を躱し、振り抜かれる前の腕を、優しく包むみたいに絡め取り、足払いと体捌きだけで、彼女の攻撃を無力化し、そのまま一切怪我をさせずに地面へと沈めた。


 時間にして、一秒にも満たない。


 速すぎて、戦果秋保の実力値が測れない。


 いいえ、零士くんの強さだけが、くっきりと浮かび上がった瞬間だった。


 あれを、初対面の男子が、躊躇なく、しかし丁寧に行うなんてありえない動きだった。


 じいちゃんの軍人仕込み。……そう自称していたけれど、あれは本物の「戦闘技術」、彼が英雄になりたいと言っていたけど、もしかしたら私でも……。


 だけど、彼が男であることに変わりはない。


 彼が好きに生きるために、ここから先は、私の仕事になる。


「……それじゃ、行きましょうか。戦果秋保さん」


 地面に手をついて息を整えている彼女の前に、しゃがみ込む。


 目はまだ闘志でぎらぎらしていて、鼻息も荒い。


 それでも、零士くんを追いかけようと体を起こした。


「動かないで」


 私は、その手首につまむ程度の力で触れた。


 ほんの指二本分。だけど、その動きだけで、秋保の肩と肘と膝の重心を完全に止める。


「っ……!?」


 目を見開き、信じられないという顔をする。


「立てなくなりますよ。それでも動きます?」

「……チッ」


 歯噛みする音を確認してから、私はようやく指を離した。


 私の腕力であれば、彼女の体を壊すことはたやすい。


 彼女と私の間にはそれほどの戦闘力の差がある。


「場所を移しましょう。ここは人目が多いですからね」


 校門脇の、関係者用控え室。


 まだ誰も使っていない談話室に、私は戦果秋保を連れ込んだ。


 彼女は、椅子にどかっと腰を下ろし、組んだ腕の上で顎を突き出している。


 完全に不良の姿勢だ。けれど、その目の奥にはわずかな警戒も混じっていた。いい感覚だ。九十九高校で生き残るには、舐められない強さも必要だ。


 私の向かいに立ち、軽く息をつく。


「さて。戦果秋保さん」

「……なんだよ、生徒会の九十九先輩」


 睨みつける視線。その圧力を、正面から受け止めて、ゆっくりと告げる。


「まずは確認から行きますね。あなたは、貴重な男性に暴力を振るおうとしました」


 きっぱりと言い切る。秋保の眉がピクリと跳ねた。


「は? 今のを暴力って言うなら、あいつだって──」

「手を上げようとした時点で、暴力になります。特に男性に対しては重罪です」


 私語り口はあくまで穏やかに。けれど、言葉の端に、冷たい刃を差し込む。


 容赦をするつもりはない。


「……すでに退学処分を言い渡しても良いレベルなのは理解していますか?」

「なっ……?!」


 さすがの秋保も、目を剥いた。


「ちょ、ちょっと待てよ! 私が退学したら、晴信は誰が守るんだよ!」


 そこで出てくるのが、その名前か。予想通りすぎて、少し笑いそうになった。


 真壁晴信、貴重な男子の一人。中性的外見、高い人気を持つ守られ体質の男の子。九十九学園に通う男子のことは調べている。


 例外は、朝比奈零士だけだった。彼の情報だけはどれだけ調べてもわからなかった。だけど、今回の騒動で、戦闘力においては、私に匹敵する。


 真壁晴信の周囲に群がる女子の中でも、戦果秋保は特に危険視されていた。


 守るという名目で、他の女子を叩き潰すタイプ。その過剰防衛は、校則ギリギリのラインで何度も報告が上がってきている。


「あなたがいなくても、真壁くんの安全は守られます」


 私は静かに告げた。すでに戦果秋保と、真壁晴信は引き離すことが決まっていた。


「誰が守っていうんだ?!」

「そんなの、決まっているでしょう? 我が校では、男子の安全を守るために守護生ガーディアンとして男子一人に対し、二人、もしくは三人まで守護をつけます」

「……守護生?」


 初めて聞く単語、という顔だ。まぁ、外部生にはまだオリエンテーション前だし、無理もない。だけど、男子が安全に登校してもらうため。快適に学園をもらうためにいろいろな配慮をしているのだ。


「同学年、同じクラスの中から、成績、男子への態度、戦闘力、精神安定度を含めて総合的に判断して選ばれます。選ばれた守護生は、公的にその男子を守る義務と権利が与えられるんですよ」


 秋保の目の色が変わる。


 守る義務と、守る権利。


 彼女が一番欲しがっているものだ。


「……じゃあ、私は?」


 わずかな期待が漏れた。


 それを、容赦なく切り捨てる。


「ちなみにあなたは──選ばれていません」

「…………は?」


 空気が、一瞬で冷えた。彼女の両手が、ぎゅっと拳を握りしめる。


「ちょ、待てよ。なんでだよ。私の戦闘力は──」

「高いですよ。ですが、素行の悪さが目立ちますからね。自分でもわかっているでしょう? 中学のときの停学処分二回。女子への暴力沙汰五件以上。教師への口論……数えるのが面倒です」

「そ、それは……晴信を守るためで……!」

「動機がどうであれ、やったことは変わりません」


 きっぱりと言い切る。秋保は、歯を食いしばったまま黙り込んだ。


 彼女の守る行為は決して褒められるやり方ではなかった。


「だから、最初から制裁候補ではありました」


 その言葉に、びくりと肩が揺れる。


 視線を逸らせないように、私は一歩だけ前へ出た。彼女の間合いの中に、こちらから踏み込む。戦える者にとって、「距離」というのは直感的に理解しているはずだ。


 その距離を、恐れず詰めてくる相手には、本能的な嫌悪と畏怖が生まれる。


「ですが」


 そこで、少しだけ声を和らげる。


「我が校に入学できるだけの学力。そして、あなたの戦闘力は、捨てるには惜しいのも事実です」

「……じゃ、じゃあ……」


 秋保の喉が、ごくりと動く。


 期待と、不安と、悔しさが入り混じった目。


 間合いに入って攻撃したとしても、反撃される恐怖が彼女を縛りつける。


「そこで、です」


 私は、彼女の前に片手を差し出した。


「私が直々に再教育をさせていただきます」

「……再教育?」

「ええ。戦果秋保という武器を、暴発する爆弾のまま放置しておくつもりはありません」


 それは、生徒会長としての判断であり、一人の女としてのワガママでもある。


 零士くんは自ら危険に飛び込んでしまう考えの持ち主だ。だからこそ近くに、使える戦力は多い方がいい。けれど、暴走するなら、私が制御できる範囲にいなければ意味がない。


「ただし」


 差し出していた手を、すっと彼女の頬の横に移動させる。


 指先が、皮膚に触れるか触れないかの距離。


 そのまま、ほんの少しだけ力を込める。


 メリ、と空気の中で何かが軋むような感覚。


 座っていた戦果秋保の全身の筋肉が、一瞬で凍りついて、壁まで吹き飛んでいく。


「っ……!」

「あなたは、私の大切な人を傷つけようとしました」


 壁に激突して倒れる彼女に近づいて、耳元で囁くように告げる。


「優しくはしません」


 ここが、彼女にとっての地獄の入り口だと、きちんと理解させるために。


 指先を離すと、戦果秋保はその場で大きく息を吐いた。


 汗が、こめかみを伝っている。


「な、なにしたんだよ……今……」

「少し、筋肉の流れを止めただけです」


 本当に、それだけだ。だが、使い方を知らない者には、ただの理解不能な恐怖として刻み込まれる。


「安心して。あなたを潰すつもりはありません」


 にっこりと笑ってみせる。だけど、零士くんを傷つけたことは私にとって絶対に許せることではありません。


「ただ、九十九高校という場所で生きるためのルールと男子を守るということがどういうことなのか。きっちり叩き込ませてもらいます」

「守る……?」


 その言葉に、戦果秋保が反応する。


 彼女は「守る」という言葉に、誰よりも執着しているようですね。


 真壁晴信のために、拳を振り続けてきた少女。


 彼女は正しい守り方を知らなかった。


「ええ。あなたのやってきたことは守るじゃない。独占です」


 その差を、骨の髄まで理解させる必要がある。


「……チッ」


 舌打ちしながらも、戦果秋保は視線を逸らさなかった。


 いい目だ。折れてはいない。やっぱり、戦力としては欲しいのよね。


 零士くんを狙う女たち。


 ギャル校の連中。

 街のマフィア。

 ずる賢い大人たち。


 この街は、男を巡る戦場だ。


 その最前線に立てるだけの力を持つ女を、簡単に捨てるわけにはいかない。


「さあ、どうします? 退学を受けて、真壁くんの側から消えるか」


 ゆっくりと、問いかける。


「それとも、私の下で、もう一度立ち上がるか」


 秋保は、拳を握りしめたまま、ゆっくりとうつむいた。


 長い前髪の影で、表情は見えない。


 だけど、唇がかすかに動くのは見えた。


「……っざけんなよ……」


 くぐもった声。


 そして、顔を上げたとき。戦果秋保の瞳は、まだ折れていなかった。


「退学なんか、されてたまるか。晴信も……あの勘違い野郎も……私が守ってやるよ!」


 ギリ、と奥歯を鳴らす。その言葉に、私は小さく微笑んだ。


「上出来です。では、決まりですね。戦果秋保さん」


 右手を差し出す。彼女は、一瞬だけためらってから、その手を乱暴に掴んだ。


「……よろしくお願いします、鬼の生徒会、九十九先輩」

「ええ。こちらこそ、まだ狂犬にもなれない、かませ犬さん」


 指先に力を込めて、握手を返す。

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