第五十三話 アタシからの条件
背中に感じる重みは確かだが、美鈴はまだ目を覚まさない。
呼吸は安定しているものの、その体はひどく静かだった。
崩れた壁の向こうから、その会話は大通路まで筒抜けになっていた。
──
その言葉が、茜の胸の奥に引っかかる。
茜がメイドになったのは二年前だ。
初めて出会った頃から、美鈴は感情を表に出さない人だと思っていた。
冷静で、淡々としていて、必要以上に踏み込まない。
だが、「傀儡」という言葉を耳にしてから、妙に腑に落ちる気もする。
それに、阿巳蛇が言ってた。
最近の人形はすごいね──という発言。
「だとしたら、結構ショックだな……」
思わず、独り言がこぼれた。
もしかすると、自分も──そんな考えが浮かびかけて、茜はすぐに首を振る。
「……なんてな」
背中越しに伝わる美鈴の体温。
そして確かな重み。
──私の中では、ずっと美鈴だ。
そう言い聞かせるように、歩みを進める。
やがて、阿巳蛇に教えられていた通りの緑色の扉が見えてきた。
扉には小さなプレートが掛けられている。
〈医療室1〉
茜はドアノブに手をかけ、扉を開いた。
その瞬間、複数の匂いが一気に鼻腔を満たした。
薬品、消毒液、血、そして──どこか生々しい、異質な匂い。
まただ。
大通路にいる間は、"匂い"は全く感じなかった。
それが、扉を隔てただけで、ここまで鮮明になる。
六十二階の時もそうだった。
阿巳蛇が屍々子ごと壁を壊してから、かすかに香っていた
──蛇ノ目ん中だと、感知系の能力が制限されてんのか?
だが、そんな考察は後回しだ。
今はまず、美鈴を休ませなければならない。
部屋に数歩踏み入れたところで、前方から白衣を着た研究員の女が歩み寄ってきた。
彼女は茜の前で立ち止まり、軽く一礼をする。
「茜様ですね。
阿巳蛇様から、お取次ぎは伺っております。
こちらへ……ご案内いたします」
そう言って、女は茜の左手側へ歩き出した。
茜は黙ってその後ろに続く。
医療室の内部は想像以上に広かった。
カーテンで区切られた区画が幾重にも並び、その奥にベッドが配置されている。
歩く途中、呻き声や咳払いが断続的に聞こえてきた。
どれも低く、どこか押し殺された音だ。
扉から一分ほど進んだところで、女は立ち止まり、カーテンの閉じられていない一画を示した。
「こちらのベッドをご利用くださいませ」
「……ありがとうございます」
茜は一礼し、そのスペースへ足を踏み入れた。
女はそれを確認すると、再び頭を下げ、カーテンを閉めてその場を離れていく。
静寂が戻った。
「美鈴……待たせたな」
そう呟きながら、茜は美鈴をベッドへと仰向けに寝かせた。
ベッドの脇には、モニター付きの医療機器が設置されている。
画面には見慣れない波形や数値が淡く流れ、そこから伸びる複数のコードがある──という事しか認識してない。
専門的なことは分からないから。
ただ、ひと目見て、相当に高度な装置なのだろうということだけは伝わってくる。
茜は美鈴の下に敷かれていた布団を整え、その上から静かに掛け直した。
それからベッド脇の椅子に腰を下ろし、眠る美鈴の顔を見つめる。
呼吸は安定している。
胸が上下するたび、わずかに安堵が胸に広がった。
──よかった。
そう思った、その数分後。
足音がカーテンの外から近づいてくる。
硬質な床を踏む、落ち着いた歩調。
そして、その音がすぐ近くで止まった。
「
聞き覚えのない名。
それに、男の声だった。
人違いだろう。
そう判断し、茜は返事をせずそのまま美鈴から視線を離さなかった。
しばらくすれば、立ち去るはず──。
だが。
───シャッ。
突然、カーテンが開く音がした。
「……はぁ」
思わず、小さくため息が漏れる。
返事もしていないのに、ずいぶんと無遠慮な人物だ。
「あのさぁ──」
そう言いながら顔を上げ、茜は息を呑んだ。
立っていたのは──
その姿は、あまりにも整いすぎていた。
顔に傷ひとつなく、着ているスーツにも汚れや破れは一切ない。
数時間前、屍々子や美鈴と共に戦った男とは思えないほど、綺麗な状態だった。
確かに倒した。
だが、生死までは確認していない。
それにしても──。
ここまで痕跡が残っていないのは、あまりにも不自然だった。
茜の頭の中で、疑念が渦を巻く。
その沈黙を破るように、美門が口を開いた。
彼は困ったように微笑み、顔の前で軽く両手を合わせる。
「あ、すみません。場所を間違えました」
どこか、わざとらしい。
──コイツ、私と美鈴のこと覚えてないのか?
それとも──初めましてのフリをしているのか。
茜は内心を押し隠し、仕事のときと同じ笑顔を作った。
「いえ、こちらこそ。
私どもが返答をしておりませんでしたので……大変失礼いたしました」
そう言って立ち上がり、丁寧に一礼する。
すると美門は、一度だけ美鈴へ視線を向け、それから茜へと視線を戻した。
「お二人とも、とてもお綺麗なお顔立ちですね。
それに、"ここ"でメイドさんにお会いできるとは思っていませんでした」
穏やかな口調。
だが、言葉の選び方が妙に引っかかる。
「とても、素晴らしいお仕事をされているんでしょうね」
探り──そう思った。
茜は表情を崩さない。
「とんでもございません。
私どもは、ただのメイドでございます。
そのようなお言葉を頂くほどの者ではありません」
一拍置き、頭を下げる。
「ですが、お褒めにあずかり、恐れ入ります」
──阿巳蛇から私らのこと、コイツに情報が回ってねぇのか?
美門はにこりと微笑んだ。
「すみません。お邪魔してしまって」
そう言い残すと、彼は再びカーテンを引き、静かにその場を去っていった。
茜は、閉じ切ったカーテンをしばらく見つめたまま、動けずにいた。
赤いネクタイに、白蛇のイラスト──。
ふと、籠女の言葉が脳裏をよぎる。
だが、今しがた目の前にいた美門の首元には、はっきりと青いネクタイが結ばれていた。
勘違い、という可能性もある。
籠女が言っていた"チャラ男"の顔を、実際に自分や屍々子が見たわけではない。
ただそれでも、同じ顔をした男が、もう一人いるとしても──。
青いネクタイの美門が、無傷なのはどう考えてもおかしい。
そして、もう一つ引っかかる事がある。
美門は、"ここ"にメイドがいたことに、一度も不思議な顔をしていない。
根拠はない。
だが嫌な予感がする。
──とりあえず、籠女たちを待つ。
最上階部屋へ向かった屍々子と籠女は、後で医療室に来る予定だ。
その時に、この違和感を共有すればいい。
茜は椅子に腰を下ろし、再び美鈴の寝顔に視線を落とした。
その時。
───シャッ。
再び、カーテンが開いた音がした。
♦︎
蛇ノ目タワー・六十六階──最上階部屋。
「はい、これ。お二人さん」
───コロン。
阿巳蛇の手から、卓の上に転がされた物。
透明な袋に包まれた一口サイズの飴玉のようなものだった。
「それ、食べといて」
屍々子と籠女の前に、それぞれ転がってくる。
二人は無言で顔を見合わせ──次に、揃って阿巳蛇をジトっと見る。
その視線を受け、阿巳蛇は何かを察したように苦笑する。
「あー……それ、毒じゃないよ?
言い終わる前に、向かいの席に座っていた無兎が、指を突き出して被せる。
「──おい、そこの二人!
阿巳蛇さんがくれたものだぞ! 毒なわけないだろ!!」
屍々子が即座に返した。
「だから余計危ねぇだろ」
「なにぃ!? 失礼だろ!!」
無兎の声に対し、屍々子は何も言わず、顔をくしゃりと歪めて変顔で煽る。
無兎は思わず声を張り上げた。
「んなッ……なんだその顔……!」
隣で見ていた籠女も、無言のまま同じように変顔で無兎を煽る。
「おい!!」
そのやり取りに、阿巳蛇がビシッと無兎を指差した。
「はい無兎。静かにする!」
強めの一言に、無兎は二人を睨みつけた後、渋々返事をした。
「……はい」
ふと、隣に座る
それは、無兎が気持ちを荒らした時、いつも変わらず向けられる合図。
言葉よりも先に差し出される、小さな励ましだった。
───こつん。
無兎は不満を隠しきれない表情のまま、拳を合わせた。
♦︎
「──で、
せやから、因喰をそこらへんの怪異に渡しとったわけか……」
籠女は低く息を吐き、続ける。
「ほんで、それが……最終的には「
阿巳蛇は視線を落としたまま、小さく息をついた。
「……そう」
肯定は、短かった。
「最初は、金を欲しがる怪異を集めてた。
「因子調律核」として、
侵色のことは……教えずに」
その言葉に、籠女の表情がはっきりと強張った。
因喰がこの怪異界に現れたのは、約二年前。
公に出回ることはなく、裏の取引でのみ流通していた危険な代物。
籠女がその存在を知ったのは、ミズトから教えられてからだった。
それがあれば、目を覚まさない父を目覚めさせられる。
そう言われた。
だから籠女は、この二年間、因喰を追い続けてきた。
侵色に染まった怪異を探し出し──殺し続けてきた。
屍々子は、阿巳蛇の言葉を聞きながら、思い返す。
──廃神社でアタシを殺した男も……。
報酬と引き換えに、因喰を実験的に使用していた怪異──。
それから、阿巳蛇はその後の経緯も、包み隠さず語った。
侵色が起こるタイミングをあらかじめ見計らい、
「ノルマ」として無兎、鏑、緋叉欺、美門の四人を、骸区の東西南北へ配置する。
侵色した怪異が、それを克服できるかどうかを見極めるために、戦いを仕掛ける。
無理矢理に妖力を使わせ、侵色を誘発し──。
克服できなければ、殺す。
それが、「式日」に向けた準備だった。
だが、その計画は──ミズトが大きく動いたことで、歪み始めた。
ここまで阿巳蛇が屍々子と籠女に語ったのは、
二人が阿巳蛇の"提案"を受け入れる条件として、因喰に関するすべてを明かすと約束していたからだ。
その条件を提示したのは──屍々子だった。
──式日へ、迫っていく──
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