第5話:弟子の献身
仕事部屋には、紙の塔が建設されていた。 俺がこの15年で積み上げてきた、ボツ原稿、手書きのプロット、赤字だらけの初校ゲラ。 デジタル化を拒み、物理的な質量として残してきた「苦悩の地層」だ。
「すごい……。壮観ですね、先生」
牧野悠人が、埃っぽい部屋の中で目を輝かせている。 彼の手には、最新式のハンディスキャナが握られていた。
「本当にいいのか? 牧野。こんなゴミの山、整理したところで金にはならんぞ」
俺はパイプ椅子に座り、充電中の電子タバコを指で弾いた。 佐伯との決裂以降、俺のメンタルは擦り切れたハードディスクのように異音を立てていた。 そんな俺に、この弟子だけは優しかった。
『先生の全作品をデジタルアーカイブ化しましょう。後世に残すべきです』
そう提案してきたのは彼だ。
「ゴミだなんて! 宝の山ですよ」
牧野は一枚の黄ばんだ原稿用紙を手に取り、うっとりとした表情で読み上げる。
「『悲しみは、水溶性ではない。アルコールで割っても溶け残る
「……10年前の没原稿だ。若書きで恥ずかしいがな」
「そこがいいんです! 洗練されていない、生の
牧野の言葉は、渇いた俺のプライドに染み渡る。 佐伯は俺を「効率の悪いバグ」だと言った。 松島は俺を「コスト」だと切り捨てた。 だが、こいつだけは俺の「非効率」を愛してくれている。
「そうか、わかるか。……やはり、人間には人間にしか伝わらない熱量があるんだな」
俺は満足げに頷き、電子タバコを口にする。 久々に味がする気がした。
「はい。その熱量こそが、今もっとも希少なリソースですから」
牧野は手際よくスキャナを走らせる。 ジジッ、ジジッ、ジジッ。 機械的な駆動音が、リズミカルに部屋に響く。 その音は、俺の過去が吸い取られていく音のようにも聞こえたが、俺はそれを「保存」だと信じた。
「先生、こっちの走り書きのメモもスキャンしていいですか?」
「ああ、構わんよ。ただの買い物リストの裏に書いたアイデアだが」
「それです! その生活感、ノイズ、文脈の欠落。すべてが欲しいんです」
牧野の作業スピードは異常だった。
「修正しなくていいのか?」
「『誤変換』もまた、
牧野はニッコリと笑った。 その笑顔は、あまりにも純粋で、そしてどこか無機質だった。
数時間後。 部屋の床を埋め尽くしていた紙の塔は消え失せ、すべてが牧野の持参した2TBの外付け
「終わりました、先生」
牧野はSSDを大切そうに撫でる。
「これで、先生は『永遠』になりました」
「大袈裟だな。だが、ありがとう。これで少しは部屋も片付いた」
「いいえ、お礼を言うのは僕の方です。これだけの『教師あり学習データ』……あ、いえ、これだけの文学的遺産を託していただいて」
「ん? 今なんて言った?」
俺は眉をひそめた。 一瞬、聞き慣れない単語が混じった気がした。
「いえ、何でもありません。『教師のように仰ぐべきデータ』と言ったんです」
牧野はスキャナを片付け、鞄を持った。
「では、今日はこれで失礼します。……ああ、楽しみだなあ。これを読み込ませるのが」
「読み込ませる? 読む、じゃなくてか?」
「ええ、僕の脳に、です。熟読しますよ、一晩中」
牧野は深々と一礼し、部屋を出て行った。 ドアが閉まる音。
俺はきれいさっぱり片付いた床を見下ろした。 広くなったはずの部屋が、なぜかひどく寒々しい。 まるで、家具をすべて持ち去られた後の空き家のようだ。
俺は自身の胸に手を当てる。 そこにあったはずの、重苦しい「過去」や「執着」が消えている。 身軽になった。 だが、それは解放ではない。 俺の
PCの通知音が鳴る。 牧野からのお礼のメールだ。
『先生、貴重なデータをありがとうございました。最高のモデルが育ちそうです』
モデル? 俺は首を傾げ、電子タバコを充電器に突き刺した。 4分間の待ち時間。 いつもなら思考を巡らせるその時間に、俺の脳裏には一つの疑念が黒いインクのように広がっていった。
あいつは、俺の作品を「読んで」などいない。 ただ、「
俺はまだ知らない。 俺の魂を削って書いた言葉たちが、数日後、俺自身を殺すための凶器として、ネットの海に放流されることを。
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