第19首 王子レオンは、首の帳簿を睨む
朝の礼拝堂は、まだ息を潜めていた。
長椅子は半分も埋まっていない。
昨夜焚かれた香の白い煙だけが、天井近くで細く揺れている。
王子レオンは、その真ん中をまっすぐ歩いた。
背後からついてくる足音はひとつ。
処刑人見習いのカイだ。
「……ほんとに、正面から行く気ですか、殿下」
小声の問いかけに、レオンは短くうなずいた。
「正面から以外に、首の数え方を変える方法を、俺は知らない」
首筋に触れる。
そこには昨夜刻まれたばかりの、細い線が一本。
カチリ――と鳴った瞬間を思い出すたび、喉の奥がひりついた。
(夢や噂じゃない。俺の首も、もう“数えられる首”のひとつだ)
ならば。
(数えている側の顔を、目を逸らさず見届けるべきだ)
◇
礼拝が終わると同時に、レオンは祭壇の横へと進み出た。
「神官長セヴランはどこだ」
突然の王子の声に、人々が一斉に振り向く。
ざわめきの中から、白い祭服が一歩前へ出た。
「ここにおります、殿下」
神官長セヴランは、昨夜よりも少しだけ老けて見えた。
首元の襟を、やけにきっちりと締めている。
「少々、話がある。……人払いを」
レオンの一言で、礼拝堂は慌ただしく空になっていった。
残ったのは、レオンとカイ、そしてセヴランと数人の若い神官だけ。
分厚い扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
◇
小部屋に案内されると、レオンはいきなり切り出した。
「“首ノ記録”を見せろ」
若い神官たちが顔を見合わせる。
セヴランは、わずかに眉を上げただけだった。
「殿下。あれは教会の内部文書にございます。王命といえど――」
「王命なら、あとで父上から証文を取ってこよう」
レオンは遮るように言った。
「今必要なのは、紙ではなく、首だ」
カイが横で、ひそかに「うわ」と息を飲む。
セヴランは数秒、レオンの首筋をじっと見つめた。
衣の隙間から線は見えないはずなのに、その位置を正確に知っているかのように。
「……昨夜、線を授かったばかりの方の言葉とは思えませぬな」
「だからだ」
レオンは一歩、机に近づいた。
「俺の首が、誰かの祈りで軽くなったり重くなったりしているなら――
どう数えているのか、知らずにいられない」
一瞬の沈黙ののち、セヴランは小さく息を吐いた。
「……よろしい。ですが、殿下」
細い指が机をとんとんと叩く。
「“数え方”を知るということは、“自分がどの棚に入れられているか”を知るということ。
後戻りはできませんぞ」
「最初から戻るつもりはない」
レオンの答えに、セヴランはわずかに口角を上げた。
「――それでは、こちらへ」
◇
祈願札の部屋は、魔術師の塔よりも静かだった。
壁一面に並ぶ棚。
小箱と札。
薄暗がりの中で、名前の文字だけが白く浮かぶ。
カイは、一歩足を踏み入れた瞬間、喉を鳴らした。
「……うわ。ここ、ぜんぶ、首ってことですよね」
「祈りだ」
セヴランが訂正する。
「その結果として、首が置き換えられるだけのこと」
「たいした言い方だな」
レオンは皮肉を返す。
「“我が家の首をお守りください”――
その裏に『代わりに誰の首が落ちても構わない』って意味がくっついてるのを、
ここではどう書く?」
セヴランは答えなかった。
代わりに、右の棚の箱をひとつ開ける。
中には、金縁の厚紙が折りたたまれて何枚も入っていた。
「ここが“守る首”の棚。上段ほど、重い祈りです」
次に、左の棚の箱を開ける。
安っぽい紙。にじんだインク。
「こちらが“代わりに落ちる首”の棚」
「じゃあ、ミナの首はどこだ」
レオンの声が、少しだけ低くなる。
昨夜、泣きながら笑っていた少女の顔が浮かんだ。
「処刑祭、だいすき」と言った、あの子の首。
セヴランは、棚のどちらにも手を伸ばさなかった。
「……ミナと申しましたか。あの子の祈り札は、この部屋にはございません」
「どういう意味だ」
「“どちらにも入れなかった祈り”というものも、世の中には存在するということです」
レオンは一瞬、言葉を失った。
カイが横で、こそっとレオンの袖を引く。
「殿下。つまり、ミナちゃんの首は、まだどっちにも数えられてないってことじゃ……?」
「“まだ”だ」
セヴランが静かに付け加える。
「線は、見えた。殿下もご存じの通り。
そして線は、嘘をつきません」
その視線が、レオンの首筋とカイの首筋を順番になぞる。
「線が薄いうちは、“数えない”という選択もできる。だが――」
セヴランは、部屋の隅に置かれた小さな引き出しを指さした。
引き出しの中には、一本の帳面。
ページには短い線が並び、そのいくつかに丸印がついている。
「線そのものは、どこかに刻まれる。
たとえここで祈りを棚に入れなくとも」
レオンは、帳面のページをめくった。
短い線のひとつに、自分の名がある。
『レオン・アシュベル』
もうひとつの線には、侍女の名。
『ミリア・ノエル』
さらにその下の方に、小さな文字で『ミナ』と書かれた線があった。
印は、まだ何もついていない。
「……ここに名前がある時点で、もう“見られている首”ってことか」
「ええ」
セヴランは、肩をすくめた。
「見てしまった首も。見られてしまった首も。
どちらもいずれ、“数えられる首”になる」
カイが、思わず首をすくめる。
「じゃあ、俺もいつかここに……」
「お前の線は、まだ薄い」
レオンは自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「ミナと同じだ。なら、選べる」
「何を、でございますか」
セヴランの問いに、レオンは顔を上げた。
「俺たちが、“どの棚をひっくり返すか”をだ」
◇
「殿下。棚をひっくり返す、とは」
セヴランの声には、初めて露骨な警戒が混じっていた。
「簡単な話です」
レオンは、右の棚の箱をひとつ指さした。
「“守る首”の棚から、ひとつ札を抜く。
その分、“代わりに落ちる首”の棚を軽くする」
カイが目を丸くする。
「え、それって――貴族の首を、ミナちゃんの代わりに……?」
「そんな単純なものではありません」
セヴランが間に入った。
「この棚の重さは、寄進と血筋と、神への長年の奉仕で――」
「お前は、昨日こう言ったはずだ」
レオンは遮るように言った。
「“守られる首がひとつ増えれば、どこかで代わりの首がひとつ重くなる”」
言葉を返され、セヴランは口をつぐむ。
「なら、俺は逆を実験する」
レオンは、まだ開けられていない箱に手を伸ばした。
「守られる首をひとつ減らせば、
どこかで代わりの首がひとつ軽くなるのかどうか」
その指先を、セヴランが掴んだ。
「おやめください、殿下。
それはもう、ただの“祈りの調整”では済まぬことになります」
「最初から、そのつもりだ」
レオンは、静かに手を振りほどいた。
「祈りの言葉で首を選ぶのは、もうやめたい」
セヴランの目が、わずかに揺れた。
その揺れをレオンは見逃さない。
「……神官長。お前は、首を数えてきた。何年も。何千もの首を」
レオンは、帳面を示した。
「そのお前の首にも、線が入っていることくらい、俺には想像がつく」
セヴランの肩が、びくりと震えた。
襟の隙間から、赤黒い線がほんの少し覗く。
「殿下は、何もかもご存じなのですな」
「全部は知らない。だから、教えろ」
レオンは一歩近づいた。
「この国で、一番先に数えられるべき首は、誰の首だ」
◇
部屋の空気が重くなる。
若い神官たちは、息をするのも忘れたように立ち尽くしていた。
セヴランは、ゆっくりと目を閉じる。
「……答えを言う役目は、本来、私のような者に与えられておりません」
「だが、今は“線首”として問うている」
レオンは自分の首筋を叩く。
「数えられる側の首が、数える側の首に質問している。
答えるかどうかは――お前の祈り次第だ」
長い沈黙の末に、セヴランは笑った。
乾いた、しかしどこか解放されたような笑いだった。
「……殿下。
棚をひっくり返すという発想は、実に王族らしい暴挙にして、じつに若い」
そして、ゆっくりと頭を垂れた。
「よろしい。私の首ごと、この祈りの天秤にお乗せしましょう」
セヴランは帳面を開き、自分の名が記された線の上に、そっと指を置いた。
「まず最初に数えられるべきは――
“誰の首も選びたくなかった首”でしょうな」
その指先が、わずかに震える。
「私のような、祈りで逃げ続けた臆病な神官の首から」
レオンはその言葉を、まっすぐ受け止めた。
「じゃあ、そこから始めよう」
彼はカイの方を振り向く。
「カイ。証人になってくれ」
「え、え? 俺、そんな大役――」
「お前は処刑人見習いだろう」
レオンは笑う。
「いつか、誰かの首を落とすその時のために、ちゃんと見ておけ。
首が“選ばれる瞬間”を」
カイはごくりと唾を飲み込み、それでもうなずいた。
「……わかりました、殿下」
◇
小さな部屋の中で、祈りと首が静かに並び直されようとしていた。
棚の右と左。
“守る首”と“代わりに落ちる首”。
その真ん中に、新しい線が一本、ゆっくりと引かれようとしている。
王子レオンの首。
処刑人見習いカイの首。
そして、祈りを選ぶはずだった神官長セヴランの首。
――カチリ。
どこかでまた乾いた音が鳴った。
誰の首に線が増えたのか。
それを確かめるために、レオンはさらに一歩、棚へと踏み込んだ。
(首を選ぶ祈りは、今日で終わらせる)
(これから選ぶのは――俺たちの側だ)
そう心の中で呟きながら。
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