第20首 首姫は、祈りの棚を笑う



 棚の前の空気は、薄い刃のように冷たかった。


 右と左。

 守る首。

 代わりに落ちる首。


 その間に立つだけで、喉の奥が乾いていく。


 王子レオンは、箱の蓋に指を置いた。


 セヴランは何も言わない。

 言えないのかもしれない。


「……殿下」


 カイが、わずかに声を震わせた。


「本当に、やるんですか」


「やる」


 返事は短い。


「“祈りで首を選ぶ”って仕組みは、いちど触らないと壊せない」


 レオンの指先が、箱の蓋を押し上げた。


     ◇


 箱の中には、金縁の厚紙が整然と詰まっていた。


 貴族の名。

 商人の名。

 軍の要職。

 そして、王家に近い血筋。


 文字が、妙に美しい。

 祈願書というより、証券の束に見えた。


「上段ほど、重い祈り」


 セヴランが、ささやくように言う。


「上段ほど、守られる首」


「なら」


 レオンは、最上段の束に手を伸ばした。


「一番“重い首”から、軽くしてみる」


 カイの顔色が変わる。


「ちょ、待ってください殿下!

 重い首って、つまり――」


「そうだ」


 レオンは紙を一枚抜き取った。


 貴族名の横に、小さく書かれた肩書。


『処刑祭執行評議会 主席 グラディオ公』


 あの男だ。

 処刑祭の広場で、最も大きな拍手を打つ首。


 民の歓声を“祝福”と呼び、

 罪人の叫びを“祈り”と呼ぶ首。


「……殿下、それは」


 若い神官が息を呑む。


 セヴランの指が、硬く組まれた。


「殿下。

 それを右から抜けば、この箱は――」


「軽くなる」


「そして」


 セヴランは、息を吐く。


「軽くなった分だけ、どこかが重くなる」


 レオンは笑わなかった。


「その“どこか”を、俺が見届ける」


     ◇


 レオンは、抜き取った祈願書を左の棚の箱へ移した。


 守る首から。

 代わりに落ちる首へ。


 ただそれだけ。


 紙は燃えない。

 血も流れない。


 なのに。


 部屋が、わずかに揺れた。


 蝋燭の炎が、一斉に細くなった。


「……え?」


 カイが、声を漏らす。


 棚の上の札が、かすかに鳴った。


 札ではない。


 それは――


 首の名が書かれた札の裏を通って、

 **“何かが数え直される音”**だった。


 ――カチリ。


「……嘘だろ」


 カイが首筋を押さえる。


 レオンも、息を止めた。


 “カチリ”は遠い音のはずだった。

 礼拝堂のどこか。

 王都のどこか。


 なのに今、音はここにある。


 祈り札の部屋の中で。


 棚そのものが、数を持っている。


「殿下」


 セヴランの声が低く震える。


「すぐに戻してください」


「なぜ」


「これは“祈りの調整”ではない」


 神官長は、歯を食いしばった。


「“首姫の領域”に触れてしまった」


     ◇


 そのとき。


 棚の奥。

 右でも左でもない場所。


 影だけが深い隙間から、

 かすかな笑い声がした。


 子どものように軽く。

 女のように甘く。


 けれど、喉の奥を撫でるのは氷だった。


「……だれだ」


 カイが声を絞り出す。


 笑い声は答えない。


 代わりに、棚の隙間に、

 白い羽が一枚、ひらりと落ちた。


 レオンの眉が動く。


「首姫」


 名を口にした瞬間。


 ――カチリ。


 今度は、レオンの首の中で鳴った。


 耳ではない。

 骨でもない。


 首の奥の、見えない場所。


 “線”が、たった今、太くなった。


「……っ」


 レオンは膝をつきかけた。


 セヴランが反射的に支えようとする。

 だがレオンは手を払った。


「大丈夫だ」


 息を整えて立つ。


「これが“後戻りできない”ってことなら、なおさらだ」


     ◇


 帳簿が置かれた引き出しが、独りでに滑り出した。


 誰も触れていない。


 帳面のページが、風もないのにめくられていく。


 短い線。

 短い線。

 短い線。


 そして、あるページで止まった。


 そこには三つの名。


『レオン・アシュベル』

『カイ』

『セヴラン・イルド』


 その三本の線の上に、

 新しい記号が浮くように滲んだ。


 △でも○でも×でもない。


 見たことのない印。


 まるで――


 刃の形だった。


「……何だ、これは」


 若い神官が声を失う。


 セヴランが、唇を白くした。


「殿下」


 神官長は、かすれた声で言った。


「その印は、古い伝承の……」


「伝承?」


「ええ」


 セヴランは視線を伏せる。


「“棚を壊す首”の印」


 カイが喉を鳴らした。


「そんなの……あるんですか」


「歴史上、二度だけ」


 セヴランは、静かに答えた。


「ただし、記録は残っていません。

 残せる首が、残らなかったからです」


     ◇


 レオンは、帳簿を閉じなかった。


 むしろ、指でその刃印をなぞった。


「なら、三度目は俺たちが記録する」


 カイの両足が、わずかに震える。


「殿下、俺は――」


「怖いか」


 レオンは問いかけた。


 カイは一瞬、目をそらして、

 そして正直に頷いた。


「……はい。

 でも、ミナちゃんの首が“贄”になるのも、

 姫の首がまた笑うのも、

 もっと怖い」


 その言葉に、レオンは少しだけ口角を上げた。


「それでいい」


     ◇


 セヴランが、棚の中央の封印箱に手を伸ばした。


 教会の鍵。

 王家の鍵。


 両方が必要な箱。


「神官長」


 レオンの声が鋭くなる。


「何をする」


「確認です」


 セヴランの声は静かだった。


「殿下が今、棚の重さを動かした。

 つまり――」


 彼の指が、箱の蓋に触れる。


「王家の重さも、今夜動く」


 カイが息を呑む。


「王家って……父王も?」


「可能性は高い」


 セヴランは淡々と言った。


「祈りの天秤は、自分の都合がいい方へは傾きません」


 その瞬間。


 ――カチリ。


 今度の音は、礼拝堂の外から響いた。


 遠い鐘のように。

 近い骨のように。


 そして。


 部屋の扉の向こうから、

 駆け込む足音がした。


「神官長様!」


 若い神官が、蒼白な顔で叫ぶ。


「王城から緊急の使いです!」


 封筒を差し出す手が震えていた。


 セヴランが封を切る。


 たった一行。


『グラディオ公、今朝の祈りの直後に線首化。

 王城にて“首の順番”を口走り、失神。』


 カイが息を止めた。


 レオンは、ゆっくりと目を閉じる。


 自分がやったことの“答え”が、

 思ったより速く届いた。


「……殿下」


 セヴランが言う。


「これが、始まりです」


「ああ」


 レオンは、はっきり頷いた。


「始めよう」


 彼は、左の棚の箱を閉じ、

 右の棚の箱を閉じ、

 最後に、真ん中の隙間へ手を伸ばす。


 そこに落ちていた白い羽を拾い上げた。


「首姫」


 名を呼ぶ。


「お前が笑うなら、俺は壊す」


 返事はない。


 ただ、羽の先が赤く滲んだ。


 血のように。


 インクのように。


 そして帳簿の中で、

 三本の“刃印”が、

 ほんの少しだけ濃くなった。


     ◇


 祈願札の部屋を出たとき、

 礼拝堂の空気はもう“朝”ではなかった。


 人々が、何かに気づき始めている。


 首の安全を祈っていた者が、

 祈りの文句を忘れた顔をしている。


 広場の方角で、ざわめきが生まれていた。


「殿下」


 カイが、レオンの隣で言った。


「俺、今日から……」


「うん」


「処刑人になる練習、じゃなくて。

 “首の数え方を壊す練習”をします」


 レオンは、小さく笑った。


「それが、俺たちの処刑だ」


 その足元で。


 誰も見ていない石畳の上に、

 薄い赤い線が一本だけ伸びていく。


 王城へ向かって。


 教会へ向かって。


 そして――


 処刑祭の断頭台へ向かって。


 ――カチリ。


 今日、三度目の音が鳴った。


 もう、祈りの棚は静かではない。


 首の帳簿は、戦場になった。

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