第18.5首 神官は、首の祈りを選ぶ
礼拝堂の夜は、いつもより静かだった。
昼間は人で溢れていた長椅子も、今は空っぽだ。
誰もいないのに、さっきまでの祈りの言葉だけが、まだ空気の中を漂っている。
「我らが家と財と首の安全をお守りください」
神官長セヴランは、ひとり祭壇の前に立ち、その文句を口の中で繰り返した。
「……首の安全、ね」
言いながら、喉の奥で笑いがこぼれる。
安全を祈えば、首が助かると本気で信じている声。
手を合わせるその指先に、小さな震えが走っていたのを、彼はちゃんと見ていた。
(みんな、同じ祈りを捧げるくせに)
祭壇の横の扉を開ける。
少し狭い部屋。
壁一面に棚が並び、そのひとつひとつに小箱が収められている。
箱の蓋には、細い札が差し込まれていた。
札には、首が一つずつ、名前で縫いとめられている。
貴族の名。
商人の名。
兵士の名。
そして、ごくまれに、貧民の名。
セヴランは、祭壇の蝋燭を一本持ってきて、棚の前に置いた。
「さて、と」
袖から鍵束を取り出し、最上段の箱を開ける。
中には、折りたたまれた紙が何枚も入っていた。
金の縁取りがされた厚紙。香油の匂い。
それは、貴族たちから捧げられた祈願書だ。
『我が家の首の安全を』
『我が息子レオン・○○をお守りください』
『我が血筋が絶えることなきよう』
どの文も、似たようなことを書いている。
セヴランは慣れた手つきで、それらを二つの束に分けていく。
一つは、「守る首」の祈り。
もう一つは、「捧げる首」の祈り。
紙には何も書き足さない。
ただ、入れる箱を変えるだけだ。
右の棚の箱には、「守る首」。
左の棚の箱には、「捧げる首」。
蓋の裏には、小さな印が刻んである。
右には、守護の紋。
左には、ひっくり返った同じ紋。
(表の祈りは、どちらも同じ“安全の祈り”。違うのは──)
「誰の首が、代わりに落ちるかだけだ」
小さく、独り言を漏らす。
祈りは、この国では「決済書」と同じだ。
誰の首を守るために、誰の首を差し出すか。
それを決める役目が、教会と神官に与えられている。
そう教えられて育った。
そう信じて、今も職務を続けている。
◇
下段の箱を開く。
今度は、薄くて安い紙だ。
インクもかすれていて、文字がところどころ滲んでいる。
『今年こそ、夫の首が落とされませんように』
『息子が兵役から無事に帰れますように』
『どうか、処刑祭で選ばれるのが、あの人たちの首でありますように』
最後の一文を見て、セヴランは口元を歪めた。
「正直で、よろしい」
貧民街の祈りは、飾り気がない。
誰かの首が落ちることは、もう前提として受け入れている。
自分たちの首じゃなければ、それでいい。
貴族も、商人も、兵士も、国王でさえも、本音はきっと同じだ。
ただ、貧民には、祈りを右の棚へ送るだけの金がない。
「……さあ、どこに入れてやろうか」
紙を一枚つまみ、蝋燭の火にかざす。
インクの文字が透ける。
紙の向こうに、震える手と、祈りを捧げた者の顔が浮かんでくる気がした。
セヴランは、ほんのわずかに目を閉じた。
「今年は、処刑祭が騒がしい」
『首姫』の噂。
『線の入った首』が勝手に数えられていくという話。
王都のあちこちで、「カチリ」という音がしているという報告書。
(余計な数え方をする者が、現れた)
教会が決める「首の数」が、狂わされていく予感。
だから、彼は慎重に紙を選ぶ。
右の棚へ送れば、「守られる首」。
左の棚へ送れば、「代わりに落ちる首」。
祈りの重さと、教会への寄進と、王都の治安と──
すべてを天秤にかけて、最後に彼がストンとどちらかに落とす。
その一瞬のために、神官は首を磨かれている。
◇
そのときだった。
――カチリ。
耳の奥で、乾いた音がした。
歯車が噛み合うような、高くて軽い音。
セヴランは手を止めた。
首筋が、ぞくりと冷える。
この音を聞いたことがある。
礼拝堂で線を授けた罪人の首筋のそばで。
処刑祭の朝、王族の首に触れたときに。
(……また、線が増えたか)
棚の一番下。
小さな引き出しを開ける。
そこには、一本の帳面が入っている。
ページには短い線がびっしりと並んでいた。
一本が一つの首。
それは、教会が握る「首の帳簿」だ。
線のいくつかには、丸印がついている。
線首。首に線が入った者たち。
セヴランは、新しいページを開き、小さく線を一本引いた。
今の「カチリ」で、誰かの首に線が入った。
誰なのかは、すぐにはわからない。
けれど、この帳面には記しておかなくてはならない。
「……数えそこなうわけにはいかないからな」
そのとき、扉が叩かれた。
「神官長様、夜分に失礼いたします」
若い神官が、恐縮した声で頭を下げる。
「どうした」
「王城からの使いが。至急とのことです」
差し出された封筒には、王家の紋章。
セヴランは眉をひそめて、それを受け取った。
封を切ると、簡潔な文が目に飛び込んでくる。
『王子レオン・アシュベル殿下、線首となる。
礼拝堂にて公式の首線儀を受け、現在、首姫と接触中』
短い一文の中に、情報が詰まりすぎていた。
(……なんだと)
レオン。王子。
昼間、礼拝堂で父王の隣に座っていた、青白い首。
「首の安全」の祈りに、露骨な嫌悪の色を浮かべていた青年。
あの首に、線が入った。
しかも、首姫と接触している。
紙を握る指に、知らず力がこもる。
「神官長様?」
若い神官が不安そうに顔を覗き込む。
「……構わん。下がって祈りを続けよ」
セヴランは、努めて穏やかに答えた。
青年が去るのを待って、深く息を吐く。
(王子が、線首……)
帳面を開く。
新しい線の端に、小さく文字を書く。
『レオン・アシュベル』
筆先が、紙をひっかいた。
それだけで、背筋に冷たい汗が流れる。
王子が線首になるなど、本来あってはならない。
線首は、教会が選んだ「捧げ首」と「守る首」の間を走る、細い綱だ。
その綱の上を歩かせるのは、罪人や貧民や、運のない兵士の役目であるべきだった。
(……この国で一番重い首が、その綱の上に乗ってしまった)
祈りの天秤が、音もなく傾くのがわかった。
◇
セヴランは、棚の中央にある、封印された箱に手を伸ばした。
他の箱とは違い、二重に鍵がかかっている。
ひとつは教会の鍵。
もうひとつは、王家の鍵。
彼は教会側の鍵だけを持っている。
鍵を差し込み、蓋を開ける。
中には、たった三枚だけ紙が入っていた。
一枚目には、昔の王の名。
二枚目には、先代の神官長の名。
三枚目には、まだ何も書かれていない。
それぞれの紙には、同じ文句が印刷されている。
『我が首をもって、この国の首を守らせたまえ』
「首を守る祈り」の、唯一の例外。
自分の首そのものを、国のための捧げ物にする祈り。
セヴランの喉が、ごくりと鳴った。
(もし、王子がこの祈りを選んだら──)
彼は想像する。
王子レオンの首が落ちる。
その代わりに、この国の数えられる首が、しばらくのあいだ減る。
首姫の噛み合う歯車は、静かになるかもしれない。
教会も、王家も、少しだけ呼吸が楽になるだろう。
(……だが)
紙から目を離し、棚の祈願書の山を見る。
「我が家の首の安全を」
「我が弟をお守りください」
「私ではない誰かの首を」
どの祈りも、同じ方向を向いている。
誰か一人の首が、すべてを救うという話を、人は好きだ。
英雄譚。殉教譚。
首を落とされる誰かを称えながら、自分の首を撫でる物語。
セヴラン自身も、きっとその物語が嫌いではない。
だからこそ、彼は、すごくゆっくりと箱を閉じた。
紙には、何も書き足さない。
第三の紙は、まだ白紙のままだ。
「王子に、この祈りを渡すわけにはいかん」
声に出してみる。
誰に聞かせるでもない言葉。
「そんなことをすれば、我々は“祈りを選ぶ者”ではなく、
“首を選ぶ者”になってしまう」
今も十分そうだろう、と頭の片隅で冷笑がしたが、
それでも彼はそう言わずにはいられなかった。
◇
棚の前に戻る。
さっき途中で止めた貧民の祈願書を手に取る。
『どうか、処刑祭で選ばれるのが、
あの人たちの首でありますように』
インクが滲み、ところどころ読めない。
セヴランは、こちらの方が、正直な祈りだと思った。
王子の首を守る祈りも。
貴族の首を守る祈りも。
すべての裏には、この言葉が隠れている。
(ならば、私は……)
紙を折り畳み、しばらく指先で挟む。
右の箱か。左の箱か。
王子の首に線が入った今、どちらに入れても、きっと何かが変わる。
結局、セヴランは紙を、右でも左でもない場所に差し込んだ。
棚の、真ん中。小さな隙間。
そこには、札も印もない。
教会の帳簿にも、王家の記録にも残らない場所。
「……誰の首も守れない祈り、というのがあってもいいだろう」
自嘲気味に笑う。
その瞬間。
――カチリ。
さっきより、ずっと近くで音がした。
セヴランは、反射的に首筋を押さえる。
皮膚の上に、細い何かが触れた気がした。
部屋の隅に置かれた古い鏡を覗き込む。
皺の増えた顔。疲れた目。
その下にある首筋に──
細い、赤黒い線が一本、横に走っていた。
「……ああ」
短い吐息が洩れる。
自分の首にも、線が入った。
誰かに授けられたのではない。
今の「選ばなかった」という選択そのものが、
首姫の物語に拾われたのだと、セヴランには直感でわかった。
(見てしまった首は、いつか必ず数えられる)
礼拝堂で昔教えた言葉が、自分の喉を締めつける。
彼はゆっくりと帳面を開き、自分で一本線を足した。
その横に、名前を書く。
『セヴラン・イルド』
筆先が震えた。
祈りを選ぶはずだった神官は、いつのまにか、
自分の首ごと、祈りの天秤に乗っている。
◇
蝋燭の火が小さくなっていく。
礼拝堂の外では、遠くから夜警の足音が聞こえる。
その合間に、どこかでまた、小さな“カチリ”が鳴った。
王城の塔の上で。
死体置き場の洞窟で。
処刑祭を夢見る子どもの枕元で。
そして、祈り札の部屋の片隅で。
神官長セヴランは、首筋の線を指でなぞりながら、そっと目を閉じた。
(さて……王子レオン。
あなたは自分の首で、どんな祈りを選ぶつもりなのか)
その問いは、まだ祈りにもならない。
だが、確かに一つの首として、帳面の中に刻まれていた。
──こうして、“教会の首システム”の中心にいる神官の首もまた、
レオンたちが向き合うべき「数えられる首」の一つとして、
物語の中に転がり込んだのだった。
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