幕間 神官は、首の祈りを選ぶ

 礼拝堂の夜は、いつも白かった。


 白い壁、白い祭服、白い蝋燭。

 血の色だけが似合わない場所。


 ──少なくとも、表向きは。


     ◇


「では、本日の“首の祈り”を」


 奥の小部屋で、神官長セヴランは静かに言った。


 分厚い帳面が一冊。

 表紙には、金文字でこう刻まれている。


『首ノ記録 第二巻』


 若い神官たちは、机を囲んで立っていた。

 誰も座ろうとしない。この帳面の前で椅子に腰掛ける者はいない、という暗黙の決まりがあった。


 セヴランは骨ばった指で紙をめくる。


 細い線が、びっしりと並んでいる。

 一本一本に、小さな文字。


 名、身分、祈りの言葉。


「本日の“線首”の報告数、七」


 セヴランが読み上げる。


「礼拝堂で線を授かった者、三。

 処刑前の罪人、二。

 夢の中で“首を呼ばれた”者、二」


「夢の報告が、最近多うございますね」


 若い神官の一人が眉をひそめた。


「首姫の噂を、面白半分で囁く者が増えたせいだ」


 セヴランは淡々と言う。


「首の噂は首の影を呼ぶ。影は線を引きたがる。

 線が増えれば、“落ちる首”も増える」


 それは、この国では誰もが知っているはずの理屈だった。


 だから人々は祈る。


 ──どうか、落ちるのは私の首ではありませんように。


     ◇


「さて」


 セヴランは帳面の別のページを開いた。


 そこには、名前の横に小さな印がついている行がいくつかあった。


 ○、△、×。


「王命により、“守られる首”を三つ。

 “贄として捧げられる首”を二つ。

 “流れに任せる首”を、残り」


 若い神官たちは、無言で頷いた。


 祈りは公平ではない。

 王家と教会が、こっそりと重さを配分している。


 セヴランは指でなぞる。


「印の意味は、復習しておこう」


 ○──処刑台で落とされる“贄の首”。

 △──病や事故、寿命など、神の気まぐれに任せる“流れの首”。

 ×──王家と教会の庇護を受け、「まだ落とさぬ」と決められた特別な首。


 昔、この印を勝手に入れ替えた王女がいたことを、セヴランは思い出す。

 白百合姫リリエラ。

 あの日から、帳面の一行一行は、彼にとって告解のような重さを持つようになった。


「“守られる首”──王子レオン、侍女ミリア、宰相の首」


 ×印のついた行に、白い粉が振りまかれる。

 祭壇の炎で燃やした聖書の残り、聖灰だ。


「“贄の首”──処刑待ちの盗賊頭、反逆を企てた兵士」


 ○印の行には、赤い蝋が落とされる。

 それは、明日の説教でささげられる“血の祈り”の候補だった。


「……最後に、“流れの首”」


 ページのいちばん下。

 まだ印のついていない行があった。


 ミナ、と書いてある。


 名前の下に、小さく一文。


『処刑祭の夢を見る。首の順番を聞く。線、極めて薄い。』


「この子どもは、まだ決めきれませんな」


 一人の若い神官が言った。


「首姫の噂に影響された、一時の夢かもしれませぬ」


「だが、線は見えたのだろう?」


 セヴランが目を細める。


 報告書には、礼拝堂付きの修道女の署名があった。

 ミリアという名。


 彼女は、“線首”を見る目を持っている。


「ええ、たしかに……。


 ですが、殿下が明日、直接お話をお聞きになると。

 『街の子どもたちの首を、軽々しく“贄”扱いするな』と、先ほども仰せで」


 若い神官は、言葉を濁した。


 セヴランは、しばらく沈黙した。


 誰も、息をする音さえ立てなかった。


(王子の首にも線が刻まれた)


 全員、そのことを知っている。

 礼拝堂で最初の線を授けたのは、他ならぬセヴラン自身だ。


 王子の首は、もう“見てしまった首”だ。

 処刑台の光景から目を逸らせなくなった首。


(その首が、“守る側”に回ろうとしている)


 祈りの配分が、少しずつ狂い始めている。


「……よろしい」


 セヴランは、帳面を閉じなかった。


 小さく息を吐き、ペンを取る。


 ミナの名前の横に、ゆっくりと印を描く。


 ×。


 若い神官たちが目を見開いた。


「これは……?」


「“まだ落とさぬ首”の印だ」


 セヴランは静かに答えた。


「王子レオンの願いを、ひとつだけ叶えてやろう。

 ただし──」


 ペン先が、紙を軽く叩く。


「守られる首がひとつ増えれば、どこかで代わりの首がひとつ、重くなる」


 部屋の空気が、ひやりと冷たくなった。


 それが、この国の祈りの仕組みだ。


 セヴランは新しいページをめくる。


 まだ何も書かれていない紙。

 ただ、隅に赤い線が一本だけ引かれていた。


 誰の首でもない線。

 これから、誰かの首になる線。


「明日の礼拝で、“首の安全”を祈ろう」


 セヴランは、明日の祈りの言葉を思い浮かべる。


「王子も、侍女も、街の子も。皆、同じ言葉を口にするはずだ」


 ──どうか、落ちるのは私の首ではありませんように。


 その祈りのどこかで、まだ名前のついていない赤い線が、静かに濃くなっていくことを誰も知らないまま。

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