第9話 お忍びデート(買い出し)

 ズゴッ、ズゾ……。

 湿気を帯びた浴室から、品のない断末魔が響いた。

 何度もポンプを押し込んでいるようだが、ノズルから吐き出されるのは虚しい空気の音だけだ。

「……レンジ、出ない」

 磨りガラスの向こうから、不満げな声が濡れた空気と共に漏れ出してくる。

 脱衣所の床に座り込み、スマホで今月の収支計算をしていた指を止めた。

「……嘘だろ。あれ、お前が来る前日に詰め替えたばっかりだぞ」

「だって、泡立たないんだもん。……キシキシするの、やだ」

 浴室のドアがわずかに開き、隙間から濡れた銀髪と、白い肩が覗く。逆さに振られているボトルからは、一滴の雫すら落ちてこない。完全なる枯渇。

 同居生活、四日目。

 我が家の備蓄は、S級探索者という名のブラックホールによって食い尽くされていた。シャンプー、リンス、ボディソープ。本来なら独身男性が二ヶ月は持たせる量を、この魔女はたった数日で消費したのだ。長い髪を洗うのにどれだけ使うのか見当もつかないが、燃費が悪すぎる。

 冷蔵庫の卵も、牛乳も、俺の精神安定剤であるプリンも、昨夜の時点で消滅している。

「……買い出しか」

 重たい溜息を吐き出す。

 通販で済ませようとも考えたが、配送業者にこの「同居人」を見られるリスクは避けたい。かといって一人で留守番させるのは、核弾頭を居間に放置して出かけるようなものだ。俺がいないと「ノイズ」で発狂しかねないし、かといって俺だけで行けば、帰宅した頃には寂しさで部屋が半壊している可能性がある。

 詰んでいる。選択肢は一つしかない。

「……おい、着替えろ。出るぞ」

「え? ……デート?」

 ドアが勢いよく開く。

 湯気を纏った全裸の少女が、目を輝かせて仁王立ちしていた。肢体を伝う水滴が、蛍光灯の光を弾いて艶めかしく光る。

「服を着ろ、服を! あとデートじゃない、資材調達だ!」

 慌ててバスタオルを投げつける。

 視覚的な刺激が強すぎる。これ以上、俺の残存理性を試さないでほしい。

「……どう? 変?」

 玄関の姿見の前。

 アリサがくるりと回り、スカートの裾を翻す。

 貸し与えた着古しのグレーのパーカーは、サイズが合っていないため、袖から指先が少し出るだけの「萌え袖」状態になっている。下は近所の古着屋で適当に見繕ってきたロングスカート。仕上げに黒縁の伊達メガネと、深めに被ったキャップ。

 完璧な「休日のお忍びスタイル」だ。

 煌びやかなドレスアーマー姿の「災厄の魔女」とは似ても似つかない、どこにでもいる文学少女風の出で立ち。だが、隠しきれていなかった。

「……素材が良すぎるな」

 頭を抱える。

 安物のパーカーを着ても、それが逆に「あえて着崩した最先端ファッション」に見えてしまう。ボサボサ気味にまとめた銀髪も、伊達メガネの奥で輝く深紅の瞳も、隠そうとすればするほど異質さと美貌が際立ってしまうのだ。道端の石ころの中に、研磨されたダイヤモンドを混ぜたような違和感。

「えー。可愛い?」

「……目立つ、と言ってるんだ」

「ふふ。レンジの匂い、する」

 本人は警告など意に介さず、パーカーの襟元に鼻を埋めてスゥハァと深呼吸をしている。俺の残り香をまとうことが、彼女にとっては最強のプロテクターなのだろう。

「いいか、絶対にフードを取るなよ。あと、俺から離れるな」

「うん。……離れない」

 ギュッ、とパーカーの袖口を掴まれる。

 華奢な指先が、布越しに二の腕へと食い込んだ。その力強さと、見上げくる瞳の熱っぽさに、胃のあたりが重くなる。

 これから向かうのは、ダンジョンのある「職場」ではない。数百万人が行き交う欲望と喧騒の街、新宿。そこでこのS級爆弾を制御しきれるのか。

「……行くぞ」

 錆びついたドアノブを回す。

 外の熱気が狭い玄関へと流れ込んできた。平和な引きこもり生活の終了と、トラブルの予感に満ちたミッションの開始だ。

 新宿駅、東口。

 地上へ出た瞬間、音の壁に殴られた。

 車のクラクション、大型ビジョンから流れるCM、呼び込みの怒号、そして無数の足音。地面が微動しているのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な人間の質量。

「……っ」

 隣で息を呑む気配がした。パーカーの袖を掴む指に、痛いほどの力がこもる。

「……うるさい」

 キャップのツバの下、唇が微かに震えていた。

 無理もない。彼女にとって、世界は常にノイズに満ちた拷問部屋だったのだ。俺の《論理復元》で遮断しているとはいえ、視覚的な情報量と、大気が孕む「人間の熱気」までは完全にカットできない。

「大丈夫か」

 短く問いかけ、さりげなく身体を寄せる。壁になるように。雑踏という名の濁流から、彼女という小石を守るように。

「……うん。レンジがいれば、平気」

 身体を縮め、俺の腕にへばりつくようにして歩調を合わせてくる。

 すれ違う人々が、ギョッとした顔でこちらを見た。冴えないくたびれた男と、それに密着するモデル級の美少女。どう見ても不釣り合いだ。援助交際か、あるいは何かの罰ゲームか。好奇と軽蔑の視線が突き刺さる。

 だが、他人の評価など知ったことではない。

 今の優先順位は、この不安定なシステムを暴走させずに、目的のオブジェクト――シャンプーと食材――を回収し、速やかに帰還すること。それだけだ。

「まずはドラッグストアだ。日用品を揃える」

「うん」

「そのあと、スーパーで食材を買う。何か食いたいものはあるか」

「……プリン」

「却下だ。お前は昨日三個食った」

「むぅ……ケチ」

 ささやかな攻防を繰り広げながら、アルタ前の人混みをかき分ける。

 平和だ。少なくとも今のところは、彼女が「災厄の魔女」であることに気づいている人間はいない。だが、神様というのは社畜に安息を与えることを徹底して嫌うらしい。

 歌舞伎町方面へ続く路地へ差し掛かった、その時だった。

「――おい、そこの」

 粘着質な声が背中に張り付いた。

 無視して歩を進めようとするが、目の前に影が立ちふさがる。

「無視すんなよ。……なぁ、おっさん」

 派手な金髪に、ジャラジャラとしたシルバーアクセサリー。腰には探索者であることを誇示するための、あざといデザインの剣を下げている。

「そのネーチャン、嫌がってんじゃねえの?」

 典型的なナンパか、あるいは正義感の暴走か。男の視線は俺ではなく、フードを目深に被ったアリサの胸元と太腿を、値踏みするように舐め回していた。

「……チッ」

 舌打ちが漏れる。一番、面倒なオブジェクトに遭遇してしまった。

「……離せよ。その子が怖がってるのが見えねえのか?」

 男が一歩、距離を詰めてくる。金属の触れ合う音が、路地の湿った空気に不快な波紋を広げた。金髪の男は、あからさまに俺を見下している。

 くたびれた安物の服、死んだ魚のような目、覇気のない猫背。対する自分は、最新流行のストリートファッションに身を包み、腰には「B級ライセンス」のタグが輝くチャームをぶら下げている。捕食者が被捕食者を見る目。典型的な、力を持て余した探索者の奢りだ。

「……怖がってるわけじゃない。体調が優れないだけだ」

 努めて冷静に、事務的に返す。

 今ここで騒ぎになれば野次馬が集まる。そうなればアリサの正体がバレるリスクが跳ね上がる。穏便に、かつ迅速に「処理」しなければならない。

「あぁ? 言い訳してんじゃねえよ」

 男が苛立ちを隠そうともせず、俺の胸ぐらに手を伸ばしてきた。同時に、背後のアリサが喉を鳴らし、さらに深く背中へ潜り込む。

「ほら見ろ! 怯えてんじゃねえか!」

 鬼の首を取ったように叫ぶ男。違う。彼女はあんたの声のデカさと、安っぽいコロンの臭いに怯えているんだ。だが、正義感という名のドーパミンに酔った脳みそに、そんな繊細な事情は届かない。

「俺は日下部レオ。B級探索者だ。……おいオッサン、怪我したくなかったらその子を置いて消えな」

 親指で自身の胸を指し、ニヤリと笑う。

 日下部レオ。聞き覚えがある。確か、最近メディア露出が増えている若手有望株だ。実力はそこそこだが、自己顕示欲と承認欲求が服を着て歩いているような男だと、人事課のブラックリスト予備軍に入っていたはずだ。

「……日下部さん、ですね」

「おうよ。名前くらいは聞いたことあんだろ?」

「ええ。先月のダンジョン内器物損壊件数、ワースト3位の」

「あ?」

「15階層のセーフティエリアで『俺の必殺技を見てろ』と照明設備を破壊し、修理費請求を踏み倒そうとした件、まだ経理部で係争中でしたね」

 脳内のデータベースから情報を引き出し、スラスラと読み上げる。男の顔から余裕の笑みが消えた。

「な、なんでそれを……てめぇ、何者だ」

「ただの通りすがりですよ。……ですが」

 懐から、愛用のスマートフォンを取り出す。画面をタップし、ある「アプリ」を起動して見せつけた。

 一般人には公開されていない、公社職員専用の管理ツール『D-Monitor』。画面には、目の前の男――日下部レオの登録ID、現在のライセンスステータス、そして過去の違反履歴が赤字で表示されている。

「貴方のライセンス番号、B-4092。……現在、累積違反ポイントが『停止』一歩手前ですね」

「は、はぁ!?」

「ここで一般人への威圧、および暴行未遂が加算されれば……どうなると思います?」

 淡々と、事実だけを突きつける。脅しではない。「通告」だ。

 探索者にとってライセンスは命の次に重い。それが停止されればダンジョンへの入構は禁じられ、ただの無職へと転落する。

「て、てめぇ……公社の人間か……ッ!?」

 レオの顔色が、怒りから焦りへと変わる。だが引っ込みがつかないのだろう、腰の剣の柄に手が伸びた。

「だ、だからなんだよ! 俺はB級だぞ! 一般人とは違う特権が――」

「探索者特措法、第12条」

 遮るように、条文を詠唱する。魔法の呪文よりも冷徹で、絶対的な現代の呪いだ。

「『探索者が正当な理由なく、ダンジョン外において武器を使用、または威嚇行為を行った場合、即時のライセンス剥奪および刑事罰の対象とする』」

 一歩、踏み出す。

 身長は彼の方が高い。体格も彼の方がいい。だが、今の俺が纏っているのは物理的な腕力ではない。「組織」と「法」という、現代社会最強の鎧だ。

「抜きますか? その剣。……抜いた瞬間、貴方の探索者人生は『ゲームオーバー』ですが」

「う、ぐ……ッ」

 剣を握る手がわななき、止まる。脂汗が額を伝うのが見えた。

 暴力で解決できる世界なら、彼は強者だっただろう。だがここは新宿の路上。ルールブックが違う。

「……チッ、クソが……!」

 舌打ちと共に、手が剣から離れる。賢明な判断だ。あと数センチ抜いていたら、俺はこのボタン――「緊急通報」――を押していただろう。

「……覚えてろよ、事務屋風情が」

 捨て台詞を吐き、レオは踵を返した。去り際、未練がましく俺の背後の少女を一瞥する。その視線に、アリサがビクリと身を縮めた。

「……大丈夫だ」

 背中に回していた手を、ポンポンと軽く叩く。男の背中が人混みへと消えていくのを見届けてから、ふぅ、と小さく息を吐いた。

「……疲れる」

 肩の力が抜ける。

 戦闘などしていない。ただ喋っていただけだ。それなのに、魔物と対峙した時のような疲労感がどっと押し寄せてくる。やはり、人間というモンスターが一番厄介だ。

「……レンジ」

 パーカーの袖を引かれる。見下ろすと、伊達メガネの奥の瞳が、潤んだままこちらを見上げていた。

「……すごかった」

「何がだ。ただの口喧嘩だろ」

「ううん。……魔法も使ってないのに、あんな強そうな人が、逃げてった」

 声には純粋な驚きと、熱っぽい尊敬の色が混じっていた。

 彼女の世界にはこれまで「力」しか存在しなかったのだろう。より強い魔力、より速い魔法、より大きな破壊。それが全てを解決すると教え込まれてきた。だからこそ、「言葉」と「理屈」だけで相手を無力化した今のやり取りが、未知の魔法のように映ったのかもしれない。

「……あれは強くなんかない。社会の仕組みを利用しただけの、卑怯な大人のやり口だ」

 自嘲気味に笑う。魔法で敵を消し炭にする方が、よっぽど英雄的で分かりやすい。俺がやったのは、ただの虎の威を借る狐だ。

「……でも」

 アリサは首を振り、腕に頬を押し付けてきた。パーカー越しに、体温と心音が伝わってくる。

「……守ってくれた。……レンジの背中、大きかった」

 ボソリと呟かれた言葉が、胸の奥をくすぐる。

 S級探索者に「背中が大きい」なんて言われる日が来るとは。俺の背中は、長年のデスクワークと猫背で縮こまっているはずなんだが。

「……買い出し、続けるぞ。早くしないと日が暮れる」

 照れ隠しに早口で告げ、歩き出す。腕に絡みついた重みが、先ほどよりも少しだけ増している気がした。それは恐怖によるしがみつきではなく、信頼による「預け」の重さだった。

「うん。……行こう、管理官さん」

 雑踏の中、彼女だけには聞こえる声で。

 ほんの少しだけ楽しそうに、魔女が笑った。

 ドラッグストアでの買い物は、戦争だった。

「これ、いい匂い!」「こっちは色が可愛い!」と片っ端からカゴに放り込もうとするアリサを制止し、成分表示と値段を吟味して棚に戻す作業。シャンプー、リンス、ボディソープ。それに歯ブラシと、スキンケア用品。レジに並ぶカゴの中身は、どう見ても「同棲カップル」のそれだった。

 店員の若い女性が、俺と、腕にしがみつくパーカー姿の美少女を交互に見て、少しだけ頬を染めた気がした。やめてくれ。俺はただの保護者だ。……いや、飼育員か。

 両手にずっしりと重いレジ袋を提げ、スーパーへ向かう。

 夕方の新宿は、さらに人が増えていた。ネオンが灯り始め、街が夜の顔へと化粧を変えていく時間帯。

「……レンジ、あれ」

 信号待ちの交差点で、アリサが不意に足を止めた。

 視線の先にあるのは、駅ビルの壁面に設置された巨大な街頭ビジョン。

『――速報です。行方不明となっているS級探索者、星見アリサさんの捜索は難航しており……』

 画面には、ゴシック調の戦闘服に身を包み、冷徹な表情でカメラを見据える「災厄の魔女」の写真が大写しになっていた。

『所属事務所およびダンジョン公社は、依然としてノーコメントを貫いており、ファンからは心配の声が――』

 アナウンサーの声が、雑踏にかき消されそうになりながらも響く。周囲の人々が足を止めて画面を見上げている。「マジかよ、まだ見つかってねえのか」「死んだんじゃね?」「いや、暴走して幽閉されてるって噂だぜ」。無責任な憶測。好奇心に満ちた囁き。

 俺の隣にいる、このパーカー姿の少女こそが、その当人だとも知らずに。

「…………」

 アリサが無言で俯く。握りしめた袖が小刻みに震えていた。

 画面の中の「完璧な偶像」と、今ここにいる「欠落した少女」。その乖離に、彼女自身が押しつぶされそうになっている。

「……行くぞ」

 短く告げ、空いている方の手でパーカーのフードをさらに深く被せた。視界を遮るように。世間の雑音をシャットアウトするように。

「……うん」

 小さな声。俺の背後に隠れるようにして、歩き出した。

 だが、その時。不意に風が吹き抜け、フードがふわりと持ち上がった。

「――あ」

 タイミング悪く、信号が変わる。向こう側から歩いてきた集団の一人が、アリサの顔を覗き込んだ。

「え、今の……」

「まさか」

「おい、あの子……似てね?」

 ざわめきが波紋のように広がる。

 まずい。反射的にアリサの肩を抱き寄せ、顔を胸元に埋めさせた。

「見間違いだろ」

「いや、でも銀髪だったぞ」

「本物か!?」

 スマホを取り出そうとする手がいくつも見える。現代の新宿において、カメラのレンズは銃口よりも数が多い。そして、その拡散力は魔法よりもタチが悪い。

「……走るぞ」

「え?」

「いいから、走れ!」

 問答無用で手首を掴む。レジ袋がガサガサと音を立てるのも構わず、俺たちは夕暮れの新宿を駆け出した。

「ちょ、待てよ!」

「動画撮れ!」

 背後から追いかけてくる足音と、シャッター音。パパラッチか、それともただの野次馬か。どちらにせよ、捕まれば平穏な生活は終了だ。

「はぁ、はぁ……ッ!」

 アリサの荒い息遣いが聞こえる。体力はあるはずだが、精神的な動揺で足がもつれている。

 俺は彼女の手を強く引き、路地裏へと飛び込んだ。ビルの隙間。ゴミ箱と室外機の迷路。土地勘だけはある。公社の施設管理部として、新宿中の「裏道」は把握済みだ。

「こっちだ!」

 薄暗い通用口を抜け、雑居ビルの階段を駆け上がる。屋上へ続く非常扉を蹴り開けると、視界が一気に開けた。

 夕焼け。

 燃えるようなオレンジ色が、コンクリートのジャングルを染め上げている。眼下には、ミニチュアのような車列と、無数の光の粒。騒音は遠く、風の音だけが鼓膜に残る。

「……はぁ、はぁ……」

 非常扉にもたれかかり、二人して息を切らす。レジ袋からはネギが飛び出し、シャンプーのボトルがカチャカチャと音を立てた。あまりに締まらない逃走劇。

「……撒いたか」

 下を確認するが、追ってくる気配はない。ズルズルとその場へ座り込んだ。心臓が痛い。運動不足の中年ボディには、このスプリントは過酷すぎる。

「……ふ、あはは」

 不意に、笑い声が聞こえた。

 見ると、アリサが膝に手をつき、肩を揺らしている。

「な、なんだよ」

「……あははっ! レンジ、顔、必死すぎ!」

 顔を上げた彼女は、涙が出るほど笑っていた。

 パーカーは乱れ、髪はボサボサ。S級探索者の面影など微塵もない。だがその笑顔は、あの街頭ビジョンの中で作っていた「完璧な微笑み」よりも、ずっと生き生きとしていて、ずっと眩しかった。

「……お前のせいだろ。誰のせいで走ったと思ってる」

「ごめんなさい。……でも、なんか、楽しかった」

「楽しくてたまるか」

 悪態をつきながらも、つられて少しだけ口元が緩む。夕焼けに照らされた彼女の横顔が、やけに綺麗に見えたせいかもしれない。

「……ねえ、レンジ」

 笑いが収まると、彼女は手すりに寄りかかり、眼下の街を見下ろした。風が銀色の髪をさらっていく。

「私、あそこにいたんだね」

 指差す先には、先ほどの街頭ビジョンが小さく見える。「星見アリサ」は、あの中にいる。

「……でも、私はここにいる」

 自分の胸に手を当て、確かめるように呟いた。

「不思議。……あっちの私が本当なのか、こっちの私が本当なのか。……分かんなくなっちゃった」

「……どっちも本当だろ」

 レジ袋から、潰れかけた缶コーヒー(自分用)を取り出し、プルタブを開ける。プシュ、という音が夕暮れの空に溶けた。

「あっちのお前は、みんなが求める偶像。こっちのお前は、俺の部屋でプリンを勝手に食う居候」

「……言い方」

「だが、今、俺の隣で笑ってるのは、こっちのお前だ」

 一口飲み、苦い液体を喉に流し込む。

「俺が管理してるのは、『災厄の魔女』じゃない。……ただの、世話の焼ける女の子だ」

「…………」

 アリサは目を丸くしてこちらを見つめ、それから夕焼けよりも赤く頬を染め、恥ずかしそうに俯いた。

「……管理官のくせに。……生意気」

「事実だ」

「……うん。……事実、かも」

 そっと近づいてきて、隣に座り込む。肩が触れ合う距離。甘い花の香りと、俺の安っぽいコーヒーの匂いが風の中で混ざり合った。

「……ありがとう、レンジ」

「……何がだ」

「私を見つけてくれて。……連れ出してくれて」

 肩に頭を乗せてくる。その重みは、やはり心地よくて。

 これからの苦労を考えると頭が痛いが、まあ、たまにはこんな夕暮れも悪くないか。そう思えてしまう自分に、小さく溜息をついた。

「……帰るぞ。晩飯、作らなきゃならん」

「あ、今日はハンバーグがいい!」

「……材料、買ってないぞ」

「えーっ! じゃあ魔法でひき肉を召喚――」

「やめろ。スーパーに戻るぞ」

「やった!」

 立ち上がり、手を差し伸べる。

 彼女はその手をしっかりと握り返し、満面の笑みで立ち上がった。新宿の空に、一番星が光り始めていた。

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