第8話 壊滅的家事スキル
平和とは、かくも脆い硝子細工だ。
公社の勤怠管理システム上に奇跡的に発生した「二連休」という名のボーナスステージ。泥のように眠る権利を行使し、昼過ぎまで布団という聖域に引きこもる――そんな完璧な作戦計画は、午前八時三十分、轟音と共に修正を余儀なくされた。
ドォォン!!
鼓膜を揺らす衝撃音に、跳ね起きる。
枕元の目覚まし時計を無意識に払い落とし、身構えた。敵襲か。タルタロス社の刺客か。それともまたダンジョンの底が抜けて、寝室が魔界と直結したのか。脳内で瞬時に戦闘シミュレーションを展開するが、肌を刺す空気が違う。
焦げ臭い。
硫黄やオゾンではない。もっと生活感のある、タンパク質が炭化し、テフロン加工が断末魔を上げているような、絶望的な焦燥感を含んだ臭気。
「……台所?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
寝癖のついた頭を乱暴にかきむしり、煎餅布団を蹴り飛ばして廊下へ出た瞬間、熱風が顔を撫でた。六畳一間のアパートには不釣り合いな熱量。まるで真夏の砂漠か、
「きゃあッ! あ、あれ!? 火が、止まらない!?」
聞き覚えのある、そして今一番聞きたくない悲鳴。
狭い廊下を三歩で踏み破り、台所の入り口で足を止める。
そこは既に調理場ではなかった。あえて形容するなら、小型の焼却炉だ。
「あ、レンジ! おはよう! あのね、朝ごはんを――」
煤だらけの顔で振り返ったS級探索者が、満面の笑みでトングを掲げている。
その手元、コンロの上には、真っ赤に熱せられたフライパン――いや、もはやフライパンとしての形状を留めていない赤熱した鉄塊があり、その上で「何か」だった黒い塊が黒煙を噴き上げていた。
五徳の下から噴き出すのは、青いガス火ではない。紅蓮の炎が渦を巻き、換気扇のフィルターを舐め尽くさんとばかりに逆巻いている。
「火力が弱かったから、ちょっと『ブースト』したの! でも、なんか調整が難しくて……」
「馬鹿野郎!!」
怒鳴ると同時に、炎の渦へ飛び込む。
前髪がチリチリと焦げる音がした。だがここで怯めばアパートが全焼する。敷金礼金どころか、損害賠償で俺の人生が詰む。
「下がってろ!」
呆然とするアリサの襟首を掴んで後ろへ放り投げる。目前には暴走する魔法の炎。物理的な消火器など意味を成さない。これは現象だ。彼女の無意識が「焼く」という概念を過剰に具現化した、エネルギーの奔流。
「……
右手をかざす。熱量に網膜が焼かれる寸前、親指と中指を擦り合わせた。
パチン。
乾いた音が轟音を切り裂く。
瞬間、世界から赤色が消えた。
逆巻いていた紅蓮の炎が嘘のように掻き消え、後にはドロドロに溶けたフライパンと、完全に炭化した「元・食材」の残骸、そして黒煙を吐き出し続ける瀕死の換気扇だけが残される。
「げほっ、ごほっ……!」
窓を全開にし、換気扇を最強に回す。淀んだ空気が外へ吸い出されていくのを見届け、その場へへたり込んだ。心臓が早鐘を打っている。ダンジョンの深層でボスモンスターと対峙した時よりも、寿命が縮んだ心地がした。
「……殺す気か」
「ご、ごめんなさい……」
部屋の隅、流しの横で小さくなっている「災厄の魔女」を睨みつける。
ジャージ姿のアリサは、煤で鼻の頭を黒くし、涙目でうつむいていた。手にはまだ、黒焦げになったフライパン返しが握られている。
「……説明しろ。何をした」
「……あ、あのね。レンジ、いつもお仕事大変そうだから……私、何かお礼がしたくて」
「それでお礼に放火か」
「ちがうもん! 目玉焼き! 目玉焼き焼こうとしたの!」
彼女が指差した先。赤熱した鉄塊の上にへばりついている、黒い円盤状の物体X。言われてみれば、確かに卵のような気配を感じなくもないが、今のそれは間違いなく産業廃棄物だ。
「……レシピは見たのか」
「見たよ! 『強火でサッと焼く』って書いてあったから!」
「お前の『強火』は、製鉄所の溶鉱炉レベルなんだよ……」
重たい息を吐く。頭が痛い。
彼女のスペックを甘く見ていた。戦闘においては最強無敵の魔女だが、日常生活においては生まれたての子鹿よりも危なっかしい。まさかコンロのツマミを回す代わりに、ファイアボールを直射するとは。
「……フライパン、死んだな」
「……弁償、します。……魔法石、売れば、フライパン工場ごと買えるし……」
「そういう問題じゃない」
立ち上がり、惨状を確認する。コンロ周りは煤だらけだが、幸いにも火災には至っていない。俺の初動が遅れていれば、今頃このアパートは地図から消えていただろう。
黒い円盤を箸でつつくと、カチンと硬質な音がした。
「……食べる?」
「歯が折れるわ」
捨てようと手を伸ばしかけ、ふと止まる。
アリサが、捨てられた子犬のような目でこちらを見ていた。両手を後ろで組み、モジモジと身体を揺らしている。
失敗したことは分かっている。怒られるのも覚悟している。それでも、彼女なりに早起きして、慣れないキッチンに立ったその事実だけは、無下にするには少しばかり健気すぎた。
「……はぁ」
今日二度目の溜息。焼死体のこびりついたフライパンを流しに置き、棚から新しい予備のフライパンを取り出す。
「どけ。俺がやる」
「えっ、でも……」
「お前に二度とキッチンは触らせん。座って見てろ」
冷蔵庫から卵とベーコン、食パンを取り出し、手際よくフライパンを熱して油を引く。
ジュウッ。
小気味良い音が静かな朝に響いた。
「わぁ……」
アリサが目を輝かせて覗き込んでくる。ただ卵を割って落としただけだ。それなのに、まるで至高の召喚魔法でも目撃したかのように、彼女は感嘆の声を漏らしている。
「……魔法は使うなよ。絶対だぞ」
「うん。……すごい、白身が白くなった」
「当たり前だ。タンパク質の熱変性だ」
ベーコンの脂が跳ね、香ばしい匂いが漂い始める。さっきまでの焦げ臭い殺伐とした空気が、一気に「休日の朝」へと書き換わっていく。
トースターがチン、と鳴った。
「皿、出せ」
「はいっ!」
敬礼し、慌てて食器棚へ走るアリサ。ガチャガチャと危なっかしい音を立てながら、白い平皿を二枚持ってくる。その顔は、先ほどまでの沈痛な面持ちから一転、期待に満ちた子供のそれに戻っていた。
「……ほら、座れ」
ちゃぶ台の上に、朝食が並ぶ。
こんがり焼けたトースト。カリカリのベーコン。そして、半熟の目玉焼き。
どこにでもある、なんの変哲もないメニュー。だが、今の彼女にとっては、どんな宝石よりも輝いて見えているらしい。
「……いただきます」
小さな声で呟き、恐る恐る目玉焼きの黄身にナイフを入れる。
とろり。黄金色の液体が流れ出し、白い皿を濡らした。
「ん……ッ!」
一口食べた瞬間。
彼女の赤い瞳が、限界まで見開かれた。
フォークを持ったままフリーズする。口をもごもごと動かし、喉を鳴らして飲み込むと、信じられないものを見る目で俺を凝視した。
「……なにこれ」
「何って、目玉焼きだが」
「うそ。こんなの、私が知ってる卵じゃない」
大袈裟な。
スーパーで特売だった一パック百九十八円の卵だ。黄金の鶏が産んだわけでも、マナを含有した魔獣の卵でもない。だが、アリサは震える手で自身の頬を抑え、恍惚としたため息を漏らしている。
「お店の味がする……」
「お前の舌はどうなってるんだ。高級フレンチの朝食でも食ったことないのか?」
「……ない」
即答だった。
彼女は二口目のトーストを齧りながら、独り言のようにボソボソと続ける。
「食事は基本、ゼリー飲料かサプリメント。ダンジョンに潜ってる時は
フォークを動かす手が止まらない。
カリカリに焼けたベーコンの脂を、半熟の黄身に絡め、トーストに乗せて頬張る。リスのように頬を膨らませ、夢中で咀嚼するその姿には、S級探索者の威厳も、深紅の破壊者の面影もない。
ただの、腹を空かせた育ち盛りの子供だ。
ふと、彼女のスキルに関するレポートを思い出す。
ユニークスキル《
理論上、今の彼女に食事によるカロリー摂取は必要ないはずだ。水さえあれば、マナの循環だけで生体機能を維持できる。食べる必要がないからこそ、これまではゼリー飲料のような効率重視の燃料しか与えられてこなかったのだろう。
だが、今の彼女を見れば分かる。
彼女が飢えていたのは、カロリーじゃない。「温かい食事」という、人間としての充足感だ。
舌で味わい、喉を通る熱を感じ、腹が満たされる幸福感。それを摂取することで、彼女は自分が「兵器」ではなく「人間」であることを確認しているのかもしれない。
「……そりゃあ、栄養失調にもなるわけだ」
呆れを通り越して、胸の奥がチクリと痛む。
日本最強の探索者。巨万の富を稼ぎ出す英雄。だがその実態は、人間らしい生活すら許されず、ただ戦うためだけに調整された生体兵器のようなものだったのか。
俺の作った、手抜きもいいところの朝食。焦げ目をつけただけの食パンと、焼いただけの卵。そんな粗末な食事を、まるでミシュランの三ツ星料理か何かのように、目を細めて味わっている。
「……ん、おいひい……」
幸せそうに破顔する。
その笑顔を見て、俺は自身の口角が勝手に緩もうとするのを、慌ててコーヒーで流し込んだ。
毒されている。
餌付けされているのは、どっちだ。
「……おかわり、あるぞ」
「ほんと!?」
「パンならな。焼いてやるから待ってろ」
席を立ち、トースターへ向かう。
背後から「レンジ、すごい! 魔法使いみたい!」という、称賛なのか馬鹿にされているのか分からない歓声が聞こえた。魔法使いはお前だろ、と言い返そうとして止める。
今の彼女に必要なのは、世界を焼き尽くす魔法ではなく、冷えた胃袋を温めるカロリーなのだろうから。
◇
「……ふぅ、満足」
二枚目のトーストと、俺の分まで奪い取ったベーコンを平らげ、アリサは満足げに腹をさすった。
皿の上はピカピカだ。パン屑ひとつ残っていない。作り甲斐があると言えば聞こえはいいが、見ていて心配になる食欲だった。
「食ったら片付けだ。……と言いたいところだが、お前は触るな」
「えー。私、洗うくらいできるよ?」
「お前が洗剤を持つと、泡が暴走して部屋中が水没しそうだ」
「……むぅ」
否定できないのか、唇を尖らせて黙り込む。
俺は空になった皿を重ね、立ち上がろうとした。
その時だ。
「……あ」
視線が、彼女の口元で止まる。
半熟の黄身の名残。鮮やかな黄色の雫が、白磁のように白い彼女の唇の端に、ちょこんと付着していた。本人は気づいていない。満足げにふふん、と鼻を鳴らしている。
「……おい」
指摘しようとして、言葉を飲み込む。
口で言っても、今の彼女はきっと自分で拭こうとして袖口を汚すか、あるいは舌で舐め取ろうとして大惨事になる未来が見えた。学習しない生き物だ、本当に。
思考するよりも先に、身体が動いていた。
社畜として染み付いた「
黙って手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
「え……?」
アリサが目を丸くして固まる。
逃げる隙は与えない。親指の腹が、彼女の口角を滑った。
ぬるりとした黄身の感触と共に、驚くほど柔らかく、熱を持った唇の弾力が指先に伝わる。
「……んッ」
吐息が漏れた。
指先が触れた箇所から、電気のような痺れが走る。ほんの一瞬。だが、永遠のように長く感じられる接触。無造作に汚れを拭い取り、指を離した。
「……付いてたぞ、黄身」
ティッシュで指先を拭きながら、努めて事務的に告げる。
あくまで、汚れたオブジェクトを清掃しただけだ。深い意味はない。心臓が不自然なリズムで跳ねているのは、きっと食後のコーヒーのカフェインが強すぎたせいだ。
「…………」
反応がない。
怒ったか? 流石にデリカシーがなさすぎたか。
恐る恐る視線を戻すと、アリサは茹で上がったタコのように顔を真っ赤にしていた。
「……あ、う……」
口元を両手で覆い、俺と、俺の指とを交互に見ている。赤い瞳が潤み、とろんと熱を帯びて揺れていた。
「……拭いて、くれたの?」
「……汚れてたからな。服につくとシミになる」
「……レンジが、私の口、触った」
「事実確認をするな」
彼女は口元を抑えたまま、モジモジと身をよじった。
そして、指の隙間から、とろけるような甘い上目遣いを向けてくる。
「……もっかい」
「は?」
「もう一回、やって。……反対側も、汚れてるかも」
嘘をつけ。反対側は綺麗そのものだ。
だが、彼女は期待に満ちた顔で、自ら顔を突き出してくる。口をすぼめ、目を閉じて、「ほら」と待機姿勢。
「……調子に乗るな」
冷徹に彼女の額をデコピンで弾いた。
「あ痛っ!?」
「片付けが終わったら、コーヒー淹れ直すぞ。……今度は爆発させるなよ」
「うぅ……管理官のいじわる……」
涙目で額をさする彼女を放置し、俺は逃げるように流し台へ向かった。
背中で感じる視線が熱い。皿を洗う冷たい水で、指先に残った熱と感触を洗い流そうとするが、どうにもうまくいきそうになかった。
これぞまさに、泥沼。
平穏な休日は、まだ始まったばかりだ。
蛇口を捻ると、水の流れる音がピタリと止んだ。
最後に残った泡をスポンジから絞り出し、水切りカゴへ放り込む。
換気扇はまだ、瀕死の呼吸音を上げながら回っているが、部屋に充満していた焦げ臭さは幾分マシになっていた。代わりに漂っているのは、安っぽい台所洗剤の柑橘系の匂いと、食後のコーヒーの湯気。
日常だ。
世界最強の魔女が同居しているという異常事態を除けば、これ以上ないほど平凡で、平和な休日の朝の風景。
「……ふぅ」
タオルで手の水気を拭う。
冷たい水に晒された指先が、少し赤くなっていた。
結局、後片付けまで全て俺がやった。彼女に任せれば、皿の一枚や二枚、いやシンクごと粉砕しかねないというリスク管理の結果だ。決して、彼女のしょんぼりした背中に絆されたわけではない。断じて違う。
「……レンジ」
背中に、柔らかな重みがのしかかった。
気配を消して忍び寄っていたらしい。腰に回された細い腕が、エプロン越しに腹部を締め上げる。
背骨に押し付けられる体温。そして、微かに震える吐息が、シャツの生地を通して伝わってくる。
「……なんだ。まだ食い足りないのか」
「ううん。……お腹いっぱい」
「なら離れろ。作業の邪魔だ」
「……やだ」
拒絶の言葉とは裏腹に、彼女は頬を俺の背中にぐりぐりと押し付けてきた。
猫がマーキングをするような仕草。先ほどまでの、壊滅的な料理スキルの持ち主と同一人物とは思えないほど、その抱擁は巧みで、逃げ場がない。
「……美味しかった」
背中の向こうで、くぐもった声がする。
「お店のご飯より、高級なゼリーより……レンジのご飯が、一番美味しかった」
「……ただの目玉焼きだ。舌がおかしいんじゃないか」
「おかしくないもん。……あたたかくて、優しくて、レンジの味がした」
意味深な表現はやめてほしい。
だが、その声色に含まれる響きは、お世辞や甘えだけではない、本能的な充足感に満ちていた。
彼女にとって「食事」とは、これまでは単なる栄養補給のプロセスでしかなかったのだろう。誰かが自分のために手間をかけ、火を使い、温かいまま提供する。そんな当たり前の行為が、このS級探索者にとっては未知の「魔法」だったのかもしれない。
「……また、作ってくれる?」
上目遣いの気配を感じる。
俺は天井を見上げ、深く息を吐き出した。
ここで「イエス」と言えば、俺は完全に彼女の専属シェフ兼飼育係にジョブチェンジすることになる。公社の業務規定には、S級探索者への炊き出しなどという項目は存在しない。
だが。
あの黒焦げのフライパンと、涙目でトーストを頬張る姿を思い出してしまうと。
「……気が向いたらな」
「ほんと!?」
「ただし、条件がある」
「なになに? なんでもする!」
「二度とコンロには触るな。あと、冷蔵庫のプリンは俺のだ。勝手に食うな」
「……努力します」
「約束しろ」
「……善処します」
腰のホールドが強まった。どうやらプリンへの執着は捨てきれないらしい。
やれやれ、と肩をすくめる。
振り返ることはできないが、背中の温もりだけは、嘘偽りのない「信頼」の温度をしていた。
窓の外では、休日の穏やかな日差しがアスファルトを照らしている。遠くで子供のはしゃぐ声。狭い四畳半のアパート。
ここにあるのは、剣も魔法も必要ない、ただの怠惰で愛おしい時間。
「……さて」
腰にコアラを一匹ぶら下げたまま、リビングへと足を踏み出す。
「今日は一日、寝るぞ。……俺の睡眠時間を妨害したら、晩飯は抜きだ」
「えーっ! それは困る!」
「なら大人しくしてろ」
「……わかった。じゃあ、一緒に寝る」
「なんでそうなる」
抗議も虚しく、彼女は俺の布団へダイブする気満々だ。
どうやら、この「不具合だらけの同棲生活」の修正パッチが当たる日は、まだまだ遠そうだった。
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