第6話 契約成立と連れ帰り

「……つまり。この『不発弾』を、俺の家で預かれと?」

 重厚なオーク材のデスクを挟み、低い声を絞り出す。

 場所は第三会議室から、最上階の部長執務室へと移っていた。窓の外には新宿の摩天楼が一望できるが、そんな絶景を楽しむ余裕などミジンコほども残されていない。

 革張りの社長椅子に深く腰掛けた鬼瓦部長が、太い葉巻の先を灰皿に押し付けながら紫煙を吐く。強面こわもての顔に刻まれた皺が、これ以上ないほど胡散臭い慈悲の笑みを形作っていた。

 背後には、忠実な番犬のように直立不動で控える黒服の警備担当者が二人。逃げ場はない。

「人聞きが悪いぞ、工藤くん。あくまで『S級重要参考人の一時保護』および『精神安定のための特別措置』だ」

「言葉遊びはやめましょう。彼女はS級探索者です。専用の特別居住区もあれば、公社が提携している最高級ホテルもあるはずだ。なんで、いち平社員のボロアパートなんですか」

「本人たっての希望だからな」

 部長が顎でしゃくった先。

 執務室の革張りソファには、黒いドレス姿の少女がちょこんと座っていた。いや、座っているという表現は正しくない。

 高級ソファのクッションを抱きしめ、その上に顔を埋め、さらに俺の脱ぎ捨てた安物の上着を毛布のように被って丸くなっている。

「……んぅ……」

 時折、クッションの隙間から猫のような寝息が漏れる。

 先ほど会議室で大見得を切った「契約交渉」の後、彼女は俺の匂いが染み付いた上着を戦利品として確保し、ようやく大人しくなった。どうやら俺本体がいなくても、匂い付きの遺留品があればある程度の鎮静効果は見込めるらしい。

 俺の成分、そんなに精神安定剤として優秀なのか。少し複雑な気分になる。

「見た通りだ。今の彼女は、君の近くにいるか、君の持ち物に触れていないと、極度の精神不安定状態に陥る」

 鬼瓦部長が、デスクの上に一枚の書類を滑らせてきた。

『極秘任務令書』。

 仰々しいハンコが押されたその紙切れには、目を疑うような文言が並んでいる。

「魔力暴走のリスクを最小限に抑えるため、最適な『抑制因子』である工藤連次の監視下に置く。……上層部の総意だ」

「抑制因子って、俺はただの……」

「さらに、だ」

 言葉を遮り、部長が身を乗り出す。ヤクザ映画の親分のような威圧感で、ドスの利いた声を潜めた。

「さっきの会議室での一件。あれがマスコミに漏れたらどうなると思う?」

「……え?」

「『公社社員、S級未成年探索者を会議室に連れ込み、わいせつ行為』。……そんな見出しが踊れば、株価は大暴落。君の社会人生命も、まあ、即日終了だな」

「なっ……! あれは不可抗力で、むしろ俺は被害者で!」

「世間はそう見てくれるかな? S級アイドルの美少女と、冴えない中年社員。どちらの涙が美しいか、火を見るよりも明らかだろう」

 ぐうの音も出ない。

 社会の理不尽さを凝縮したような論理展開。こめかみの血管がピキピキと音を立てる。これは交渉ではない。脅迫だ。

「だが、君がこの任務を引き受けてくれるなら、公社は全力で君を守ろう。マスコミへの口封じはもちろん、特別な手当も用意する」

 部長が指を三本立てた。

 三十万? いや、この流れなら三百万か?

 だが、提示されたのは金額ではなかった。

「基本給の、三倍」

「……は?」

「危険手当、深夜割増、特別任務手当、その他諸々込みで、君の月給を三倍にする。加えて、経費は青天井だ。彼女の食費、生活費、全部公社が持つ」

 ゴクリ、と喉が鳴った。

 三倍。

 それは、発泡酒をプレミアムビールに変え、スーパーの半額弁当をデパ地下の惣菜にランクアップさせてもお釣りが来る、悪魔的な数字。奨学金の返済も、あと数年で終わるかもしれない。

「……期間は」

「彼女の精神状態が安定し、専門の医療チームが引き継げるようになるまでだ。まあ、一ヶ月か、二ヶ月か」

 チラリと、ソファの方を見る。

 アリサはまだ、俺の上着に顔を埋めてすやすやと眠っている。

 世界を壊せる力を持ちながら、ボロボロの布切れ一枚に縋り付くその姿は、どうしようもなく脆く、そして……放っておけない危うさがあった。

 金のためだけではない。もし今、拒否すれば彼女はどうなる?

 またあの轟音と極彩色のノイズ地獄に放り込まれ、実験動物のように隔離施設へ送られるのか。あの震える指先を、涙で濡れた瞳を知ってしまった以上、見殺しにするのは寝覚めが悪い。

「……はぁ」

 今日一番の、重たい溜息を吐き出す。

 負けだ。金にも、権力にも、そして自分の甘さにも。

「……残業代も、きっちりつけてくださいよ」

「交渉成立だな」

 部長がニヤリと笑い、デスクの引き出しから新しいカードキーを取り出した。俺の社員証よりもランクが高い、金色に輝くカード。

「S級管理権限の仮ライセンスだ。これがあれば、公社のあらゆるゲートをパスできる。……頼んだぞ、工藤くん。いや、『飼育係』殿」

 皮肉な敬礼を受け、乱暴にカードを掴み取る。

 ソファへ歩み寄る。声をかけるまでもない。気配を察知したのか、アリサがモゾモゾと動き出し、上着の隙間から赤い瞳を覗かせた。

「……終わった?」

 眠気を含んだ、甘ったるい声。

 先ほどまでの刺々しさはどこへやら、完全に飼い主を待っていたペットの表情だ。

「ああ、終わったよ。最悪の結果にな」

「ふふ、……レンジ、いい匂い」

 ふらりと立ち上がり、当然のような顔で腕に絡みついてくる。

 柔らかい感触が二の腕に押し当てられ、甘い花の香りが鼻をくすぐる。警備員たちが、羨望と殺意の入り混じった視線を背中に突き刺してくるのがわかった。

 羨ましいなら代わってくれ。こっちは今から、時限爆弾と一緒に生活しなきゃならないんだぞ。

「行くぞ」

「ん。……どこへ?」

「俺の家だ。文句は言わせないからな」

「……お家」

 彼女がオウム返しに呟き、そして。

 花が咲くように、とろりと破顔した。

「やった。……お持ち帰り、されちゃった」

「言い方!」

 ツッコミも虚しく、俺たちは部長執務室を後にした。

 こうして、平穏で退屈な社畜ライフは終わりを告げ、S級魔女との、泥沼の同棲生活ざんぎょうが幕を開けたのだった。

 公社が用意した黒塗りのハイヤーを丁重に断り、流しのタクシーを拾った。

 これ以上、目立ちたくない。ただでさえ、隣には国宝級の不発弾が座っているのだ。

「……ん、……すぅ」

 後部座席の狭い空間は、異様な空気に満ちていた。

 シートに深く沈み込んだ左腕に、アリサが赤子のようにしがみついている。高価そうな黒いドレスのフリルが、安物のスーツと擦れ合い、カサカサと衣擦れの音を立てる。

 運転手がバックミラー越しに、不審者を見るような視線を何度も投げてくるのが痛い。「誘拐じゃないです」と書いたプラカードを掲げたい気分だ。

「……おい、少し離れろ。家に着くまで我慢できないのか」

 小声で囁くが、彼女はフルフルと首を振るだけ。腕に回された指の力が強まる。血流が止まりそうだ。

「充電、切れそう……」

「お前は最新のスマホか」

 窓の外を流れる新宿のネオン。

 煌びやかな摩天楼が遠ざかり、景色は徐々にくたびれた住宅街へと変貌していく。

 世界最強の魔女を乗せたタクシーが向かう先は、高級タワーマンションでも、隠れ家的な洋館でもない。

「お客さん、ここ……でいいんですかい?」

 運転手が困惑した声でブレーキを踏む。

 停車した場所は、街灯もまばらな路地の奥。

「ええ、ここで。お釣りはいいです」

 部長から巻き上げた経費タクシーチケットを切り、逃げるように車を降りる。

 湿った夜風が頬を撫でた。

 そこにあるのは、築四十年を優に超える木造二階建てアパート『コーポ・サンライズ』。日の出サンライズという名に反して、外壁はカビと苔で薄暗く変色し、鉄製の外階段は赤錆でボロボロに腐食している。

「……ここ?」

 隣で、アリサが目を丸くして見上げている。

 無理もない。彼女が普段住んでいる世界とは、レイヤーが違う。マナ空調完備のタワーマンションから、隙間風という自然空調が売りのボロ屋へ。都落ちどころか、異世界転移レベルの環境変化だ。

「幻滅したか? 悪いが、S級様をおもてなしできるゲストルームなんてないぞ」

 皮肉を込めて言う。これで「やっぱり無理」と言って帰ってくれれば、俺の平穏は守られる。

 だが、彼女は瞬きを一つして、袖を掴んだ。

「……レンジの匂いがする」

「は?」

「建物のカビの匂いと、レンジの匂いが混ざってる。……ここ、レンジの巣?」

 巣、て。

 否定はできないが、野生動物みたいな表現はやめてほしい。

 彼女にとって重要なのは「建物のグレード」ではなく、「俺の成分濃度」らしい。高級フレンチよりジャンクフードを好む味覚音痴を見ている気分だ。

「足元に気をつけろよ。ヒールだと階段の穴にハマるからな」

 錆びついて悲鳴を上げる鉄階段を、恐る恐る登る。カン、カン、という乾いた音が、静まり返った住宅街に響く。

 二〇三号室。

 塗装が剥げかけた鉄の扉の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。ギギ、と鍵穴が渋い音を立てて回る。

「……開けるぞ」

 ドアノブを回し、重たい扉を押し開ける。

 ムッとした熱気と共に、畳の井草と、古本、そして男の一人暮らし特有の生活臭が吐き出された。

 カチリ。

 壁のスイッチを押し、蛍光灯を点ける。チカチカと数回明滅してから、青白い光が六畳一間の空間を照らし出した。

 そこにあるのは、絶望的なまでの「日常」だ。

 万年床の煎餅布団。読みかけの漫画雑誌が積まれたちゃぶ台。カーテンレールに干されたままの洗濯物(ボクサーパンツ含む)。そして、部屋の隅に置かれたコンビニ弁当の空き容器。

「…………」

 俺は無言で、干してあったパンツを引ったくって隠した。

 S級探索者を招き入れるには、あまりにも無防備で、あまりにも貧相な城。

 「どうぞ。……靴はそこで脱げよ」

 諦め半分に促すと、アリサは躊躇うことなく玄関(という名の半畳ほどの土間)に足を踏み入れた。

 黒いエナメルのハイヒールを脱ぎ捨て、黒いストッキングに包まれた華奢な足が、上りかまちに触れる。

 彼女は、おそるおそる畳の上を歩いた。ミシッ、と床板が軋む。

 部屋の中央。ちゃぶ台の前に立ち、ぐるりと部屋を見渡した。

 壁の薄いシミ。安っぽいカラーボックス。天井の隅にある蜘蛛の巣。その一つ一つを、まるで博物館の展示物でも見るかのように、真剣な眼差しで観察している。

 そして、ふわりと。

 漆黒のドレスの裾を広げ、その場にぺたりと座り込んだ。

「……すごい」

「何がだ」

「狭い」

「悪かったな」

 シュールだ。あまりにもシュールすぎる。

 色褪せた畳の上に、ゴシック調のドレスを纏った銀髪の美少女が鎮座している。

 まるで、昭和の四畳半フォークソングの世界に、突然ファイナルファンタジーのボスキャラが乱入してきたような、処理落ち寸前の光景。彼女の圧倒的な「非日常」のオーラが、俺の貧相な「日常」を侵食していく。

 ちゃぶ台に置いた白い手が、黒いドレスとの対比でやけに艶めかしく見えた。

「……ねえ、レンジ」

 ちゃぶ台に頬杖をつき、上目遣いでこちらを見る。

 その瞳は、新しいおもちゃを与えられた子供のように、妖しく輝いている。

「ここなら、いつでも補給えるの?」

「……勘弁してくれ」

 ネクタイを緩めながら、冷蔵庫へ向かった。まずは冷えた麦茶でも飲まないと、やってられない。これから始まる生活が、俺のSAN値(正気度)をゴリゴリと削っていく未来しか見えなかった。

 冷蔵庫のモーターが、ブウンと重苦しい唸りを上げて停止した。

 静寂が戻った六畳間に、トクトクという安っぽい音が響く。

 百円ショップで買ったガラスのコップに、スーパーの特売品の麦茶を注ぐ。結露したプラスチックのポットが手の中で滑りそうになるのを抑え、二つのコップをちゃぶ台へと運んだ。

「……ほら。ウェルカムドリンクだ」

「茶色い」

「麦茶だ。ミネラル豊富だぞ」

 ドン、と音を立てて置かれたコップを、アリサは興味深そうに覗き込んでいる。

 氷がカランと涼やかな音を立てた。恐る恐る口をつけ、ゴクリと喉を鳴らす。

「……ん。……土の味がする」

「香ばしいと言え」

 文句を言いながらも、両手で包み込むようにして飲み干した。

 冷たい液体が喉を通る感覚を楽しんでいるのか、ふぅ、と満足げな吐息を漏らす。唇についた茶色い雫を手の甲で無造作に拭う仕草すら、計算されたグラビアアイドルのように絵になるから腹立たしい。

 反対側に胡座をかき、ぬるくなった自分の分の麦茶を啜る。

 改めて、目の前の光景を脳が処理しようとしてエラーを吐く。

 黄ばんだ壁紙。擦り切れた畳。そして、そこに座る、漆黒のドレスを纏った銀髪の魔女。

 生活感という名の暴力的な現実と、ファンタジーという名の虚構が、この狭い空間で正面衝突している。

「……それで?」

 コップを置いたアリサが、膝の上で手を組み、小首をかしげた。

 長い睫毛の奥で、赤い瞳が期待に揺れている。

「これから、何をすればいいの? ご飯? お風呂? それとも……補給?」

「寝ろ」

 即答する。

「お前は病人だ。まずは安静にして、その脳味噌のオーバーヒートを冷ますんだ」

「えー。つまんない」

 唇を尖らせ、不満げに足をブラブラさせる。

 その拍子に、ドレスの裾から白い太腿がチラリと覗いた。慌てて視線を天井のシミへと逃がす。

「いいか、共同生活のルールを決めるぞ」

 咳払いを一つ。管理職としての威厳(そんなものはないが)を総動員して告げる。

「一、室内での魔法使用は厳禁。アパートが倒壊する」

「はーい」

「二、俺の睡眠時間を妨害しないこと。これ絶対」 

「……努力します」

「三、外出時は必ず俺の許可を得ること。勝手に歩き回るな」

 まるで幼稚園児への言い聞かせだ。

 だが、彼女は素直に頷き、そしてニヤリと悪戯っぽく笑った。

「わかった。……じゃあ、レンジの言うこと、全部聞けばいいのね?」

 立ち上がり、音もなく目の前へと移動してくる。

 畳の上を滑るように。

 座ったままの俺を見下ろす形になる。ドレスの胸元のフリルが、視界いっぱいに迫った。甘い花の香りが、部屋の生活臭を上書きしていく。

「だって、貴方は私の……飼い主さんだもの」

 ゆっくりと屈み込み、耳元に唇を寄せてくる。吐息が耳朶をくすぐり、ゾクリと背筋が震える。

「これからよろしくね。……お邪魔します、マスター?」

 甘く、蕩けるような響き。

 主従関係を決定づけるその言葉は、男の支配欲をこれでもかと刺激する劇薬だった。普通の男なら、ここで理性のタガが外れて首輪を握っていただろう。

 だが、残念ながら。

 俺は男である前に、徹底した「事務屋」だ。

「……却下だ」

 冷めた声で返し、彼女の額に人差し指を当てる。

 ペタリ、と皮膚の接触音が鳴った。

「え?」

 キョトンとする彼女を、指一本で押し戻す。

「俺はご主人様じゃない。ただの管理者だ」

 眉間の皺を深くし、溜息混じりに訂正する。

 勘違いしてもらっては困る。これは遊びでも、ラブコメでもない。

 公社から委託された、極めてドライで、リスクの高い「業務」なのだ。

「ここでは俺がルールブックだ。だから、呼び方は『管理官』。わかったな?」

 突き放すような言葉。

 しかし、彼女は傷つくどころか、押し戻された額を嬉しそうに手で押さえ、とろりと頬を赤らめた。

「……管理官」

 舌の上でその響きを味わうように復唱する。

「うん……それも、悪くないかも。冷たくて、事務的で……ゾクゾクする」

「……お前、本当に手遅れだな」

 頭を抱える。どうやら俺は、とんでもない変態を拾ってしまったらしい。

 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。

 雨粒がトタン屋根を叩くバラバラという音が、部屋の静寂を埋めていく。

 だが、彼女はその音に怯える様子もない。俺のそばにいれば、世界は静かなままだからだ。

「ふふ……管理官さん」

 再びちゃぶ台の定位置に戻り、大事そうに空のコップを抱きしめた。

 その姿は、初めて安心できる寝床を見つけた野良猫のように見えた。

 こうして。

 バグった最強メンヘラ魔女と、彼女を定時までに修正しなければならない社畜の、命がけの残業生活が、この四畳半から幕を開けた。

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