第2章『不具合だらけの同棲生活』

第7話 おはようの抱き枕

 重い。

 金縛りだ。

 泥のような睡眠の底から意識が浮上する過程で、最初に脳髄を叩いたのは物理的な圧迫感だった。肋骨が軋んでいる。肺が膨らむスペースがない。まるで巨大なアナコンダに締め上げられているかのような、逃げ場のない拘束感。

「……ん、ぅ……」

 耳元で、甘ったるい吐息が鼓膜を震わせた。

 金縛りにしては、妙に人間臭い。いや、実際に良い匂いがする。万年床の煎餅布団に染み付いた俺の加齢臭予備軍と、カビ臭い畳の匂い。それらを強引に上書きするような、高級な石鹸と花の香り。

 目蓋をこじ開ける。視界を埋め尽くしていたのは、白磁のように滑らかなうなじと、カーテンのように広がる銀色の髪だった。

「……は?」

 思考がショートする。現状を確認しようと首を動かすと、ジャリ、と枕元で髪の毛が擦れる音がした。俺の胸板の上。そこに、世界最強のS級探索者が張り付いている。

 比喩ではない。文字通りの密着だ。

 俺の上に馬乗り……いや、コアラのようにしがみつき、顔を首筋に埋めている。薄い安物のTシャツ越しに、柔らかく温かい感触が容赦なく押し付けられていた。華奢な手足が胴体に絡みつき、俺という人間を「抱き枕」として完全にロックしている。

「……おい、起きろ」

 掠れた声で呼びかけ、肩を揺する。だが、返ってきたのは拒絶の意思表示だった。

「……むぅ」

 不満げな唸り声と共に、拘束力が強まる。

 ギュウゥゥゥ。

 華奢な腕のどこにそんな筋力が潜んでいるのか。ミシミシと骨が悲鳴を上げ、胃の中身が逆流しそうになる。

「い、たい……! 折れる! 肋骨いくって!」

「……充電中……」

 うわ言のように呟き、彼女はさらに深く、俺の首筋に鼻先を押し当ててきた。スゥーッ、スゥーッ。鼻孔を大きく膨らませ、獲物の匂いを吸い込む野生動物のような呼吸音。首筋の皮膚に、濡れた唇と熱い吐息が直接触れる。ゾワリ、と背筋を悪寒にも似た電流が駆け抜けた。

「……いい匂い……レンジの匂い……落ち着くぅ……」

「……お前、鼻詰まってんのか?」

 問いかけは無視された。今の俺は人間ではない。精神を安定させるための「吸う精神安定剤」であり、適切な温度設定がなされた「生体暖房器具」なのだ。

 窓の隙間から、白々しい朝の光が差し込んでいる。雨は上がったらしい。遠くでカラスの鳴き声と、通勤電車の走る音が聞こえる。

 平和な朝だ。俺の布団の中以外は。

「どけ。頼むからどいてくれ。トイレに行きたい」

「やだ」

 即答。閉じた目蓋を震わせながら、フルフルと首を横に振る。

 銀髪が頬をくすぐる。少し乱れた前髪の隙間から覗く寝顔は、昨夜の「魔女」としての威圧感など微塵もない。無防備で、あどけなく、そしてどうしようもなく艶かしい。はだけたジャージの襟元から、鎖骨のラインが白く浮き上がっているのが見えた。

 朝特有の気だるい体温と、シーツの中で混じり合う二人の熱気。

 もしここがラブコメの世界なら、間違いなく何かが始まっているシチュエーションだろう。だが、現実は非情だ。枕元の目覚まし時計(百均で購入)の針は、残酷な事実を指し示している。

 七時四十五分。

 ここから駅まで徒歩十五分。電車で二十分。公社までの移動時間を逆算すれば、今すぐに布団から這い出し、顔を洗い、着替えて飛び出さなければならないデッドライン。

「……遅刻する」

「……あと五分」

「その五分が命取りなんだよ、社会人には!」

「……スゥーッ……はぁ……」

 聞く耳を持たない。俺の文句などBGM程度に聞き流し、一心不乱に「俺成分」の摂取に励んでいる。首筋に吸い付く唇の感触が、妙に生々しい。吸血鬼に血を吸われる気分とは、こういうものだろうか。いや、吸われているのは血液ではなく、俺のSAN値(正気度)と出勤意欲だ。

「……くそッ」

 力尽くで引き剥がそうと、脇の下に手を差し入れる。指先に伝わる体温と、驚くほど柔らかい感触に一瞬怯むが、構ってはいられない。グイ、と力を込めて持ち上げようとする。

「……離れない」

 対抗して、脚の絡め方が強化された。右足が俺の腰を跨ぎ、左足が太腿の間に侵入してくる。ぬるり。ストッキング越しの脚が、パジャマのズボン越しに擦れ合う感触。朝の生理現象も相まって、状況は極めて危険な領域へと突入しつつある。

「……お前なぁ、S級だからって何しても許されると思うなよ」

「……許して。……私、レンジがいないと……壊れちゃうから」

 反則だ。胸元に顔を埋めたまま、そんな弱々しい声で囁くのは。

 震える声色には、昨夜見た「孤独」の残響が含まれている。独りぼっちで、冷たい瓦礫の中で震えていた少女。その彼女が今、唯一の安らぎとして俺に縋り付いているのだとしたら。無下に振りほどくことができるほど、俺は冷徹な管理者にはなりきれていない。

「……はぁ」

 天井のシミを見つめ、諦めの境地で脱力する。全身の筋肉から力を抜くと、それを「許可」と受け取ったのか、嬉しそうに喉を鳴らし、さらに身体を密着させてきた。心臓の鼓動が、直に伝わってくる。トクトクと脈打つリズムは、俺のものよりも少し早く、そして熱い。

「あと五分……」

 そう言った彼女の「五分」が、こちらの世界の時間軸と一致している保証はどこにもない。相対性理論を持ち出すまでもなく、二度寝の心地よさと、抱き枕(俺)の吸引に夢中な今の彼女にとって、五分は永遠と同義だ。

 カチ、カチ、カチ。

 枕元の時計が、無慈悲に時間を削り取っていく。七時五十二分。限界だ。これ以上遅れれば、駅までのダッシュどころか、タクシーを使ってもギリギリのライン。なけなしの残業代が交通費で消える未来が確定する。

「……起きろと言っている」

 覚悟を決め、深呼吸を一つ。腹筋に力を込め、のしかかる体重ごと上半身を跳ね起こした。

「んむッ!?」

 不意を突かれたアリサが、カエルのような声を上げる。だが、流石はS級探索者と言うべきか。体勢が崩れても、そのホールド力は微塵も揺るがない。俺が上半身を起こすと、彼女もまた重力に逆らうように張り付いたままついてきた。コアラだ。完全に、ユーカリの木にしがみつくコアラの生態そのものだ。

「……離れろ」

「やだ。……まだ、フル充電じゃない」

 俺の腰に両脚を絡め、首に腕を回したまま、不満げに頬を膨らませる。

 至近距離。視界いっぱいに、銀色の睫毛と、潤んだ赤い瞳が迫る。寝起きの気だるさを纏った瞳は、とろりと甘く、理性のタガを外しにかかっている。吐息がかかる距離で睨み合っても、彼女は恥じらうどころか、むしろ好機とばかりに鼻先を擦り寄せてきた。

「……レンジ、いい匂い。落ち着く……」

「俺は加齢臭漂うオッサンだ。若者の嗅覚はどうなってるんだ」

「知らない。……レンジの匂いだけが、頭の中を静かにしてくれるの。……もっと、吸わせて」

 ズボン越しに伝わる太腿の体温が、やけに生々しい。柔らかく、温かく、そして重い。物理的な体重は軽いはずなのに、彼女の「存在」がずしりと背骨にのしかかる。薄いジャージの生地一枚を隔てて、女性特有の柔らかな起伏が、俺の胸板の形に合わせて変形している感触が伝わってくる。

 朝の生理現象も相まって、これ以上この体勢を維持するのは、俺の精神衛生上――そして社会的な尊厳上――よろしくない。

「……金輪際、寝込みを襲うのは禁止だ」

「襲ってない。……補給してただけ」

「それを世間では夜這いと言うんだよ」

 ため息と共に、再び脇の下に手を差し入れる。背中に回った指先が、華奢な肩甲骨のラインをなぞる。ビクリ、と身体が跳ねた。

「ひゃ……っ」

「くすぐったいか? なら離れろ」

「……んぅ、……意地悪」

 涙目の抗議も無視し、強引に引き剥がしにかかる。だが、まるで強力な磁石だ。引き剥がそうとすればするほど、「離されてなるものか」とばかりに手足に力を込め、さらに深く密着してくる。爪先がパジャマの背中に食い込み、痛い。

「……あのな、俺は仕事に行かなきゃならないんだ。お前と違って、働かないと食っていけない」

「……私が、養ってあげる」

 耳元で、悪魔の囁きが聞こえた。ダンジョン攻略で巨万の富を築いたS級長者からの、甘美すぎる提案。

「私のカード、使っていいよ。……だから、今日も一緒に寝てよう?」

「……魅力的な提案だが、却下だ」

「なんでぇ……」

「俺のプライドの問題だ。……あと、無断欠勤は査定に響く」

 そう、俺は社畜だ。

 どれだけ金が積まれようと、どれだけ美少女に懇願されようと、「定時に出社し、定時に帰る」というルーチンを守ることこそが、俺が俺であるための最後の砦なのだ。これを捨てたら、俺はただの「魔女のペット」に成り下がってしまう。

「……わかったよ」

 俺の頑なな態度に、ようやく折れたらしい。ふくれっ面で唇を尖らせ、しぶしぶといった様子で腕の力を緩める。

「……ただし、条件がある」

「なんだ」

「……洗面所まで。そこまで連れてってくれたら、離してあげる」

「……は?」

「歩くの、めんどくさい。……運んで」

 王女様か。いや、ある意味ではこの国の女王みたいなものか。文句を言う時間すら惜しい。俺は無言で立ち上がった。

 腰に大人が一人ぶら下がったままだというのに、不思議と重さは感じない。いや、物理的には重いが、アドレナリンが出ているせいか苦にはならなかった。ドス、ドス、と畳を踏みしめ、狭い廊下を出る。胸元に顔を埋めたままのアリサが、揺れに合わせて「んふふ」と微かに笑う声が聞こえた。

 洗面所の鏡の前。

 そこに映っていたのは、情けない顔で歯ブラシを咥えた中年男と、その胴体にへばりつき、幸せそうに目を閉じている銀髪の美少女の姿だった。

 シュールすぎる。生活感あふれるプラスチックのコップや、使いかけの整髪料が並ぶ洗面台の前で、ファンタジー映画のポスター撮影でもしているかのような非現実的な構図。

「……おい、約束だぞ。降りろ」

「…………」

「寝たふりするな」

「……あと一分。……歯磨き終わるまで」

「条件が増えてるぞ」

「……んー……」

 再びの狸寝入り。そして、確信犯的に太腿への締め付けを強くする。もはや抵抗する気力もない。大きなため息を吐き出し、腰に巨大なコアラをぶら下げたまま、電動歯ブラシのスイッチを入れた。

 ヴィィィィン……。

 安っぽいモーター音が、静かな朝の洗面所に虚しく響き渡る。

 鏡の中のアリサが、振動に合わせて少しだけ目を開け、鏡越しに俺と目を合わせた。イタズラが成功した子供のような、勝ち誇った笑み。その笑顔を見て、不覚にも「まあ、いいか」と思ってしまった自分を、俺は一生許さないだろう。

 遅刻確定の朝。

 慌ただしくも甘ったるい、地獄の同棲生活二日目が始まった。

 ◇

 口に含んだ水を吐き出すと、泡混じりの液体が排水溝へ渦を巻いて吸い込まれていく。ゴボゴボ、という間の抜けた音だけが、気まずい沈黙を埋めた。

「……終わったぞ。約束だ」

 鏡の中の自分――口の端に泡をつけ、腰に美少女をぶら下げた疲れた顔――に向かって告げる。その声は、我ながら情けないほど懇願めいていた。

「……ん」

 不満げな鼻息が、脇腹にかかる。ようやく、本当にようやく、腰に絡みついていた両足の力が緩んだ。

 重力が仕事を取り戻す。ずり落ちるようにして床に降り立ったアリサは、しかし完全に離れることはせず、今度は背中から俺の腰に抱きついたまま、とろんとした瞳で見上げてきた。

「……いってらっしゃいの、充電は?」

「さっき散々吸っただろ。過充電で爆発するぞ」

「……ケチ」

 唇を尖らせ、パジャマの裾を指先でつまむ。その仕草が、妙に捨てられた子犬感を演出していて心臓に悪い。最強の魔女だの、国の重要戦略兵器だのといった肩書きは、この六畳一間の前では無力だ。ここにあるのは、ただの寂しがり屋で、朝に弱い一人の少女という事実だけ。

「……はぁ」

 今日何度目かの溜息と共に、タオルで顔を乱暴に拭う。冷たい水が、火照った思考を少しだけクールダウンさせた。

「ほら、離れろ。着替える」

「……見てる」

「見るな。減るもんじゃないが、俺の精神が削れる」

 渋る彼女をなんとか洗面所から追い出し、引き戸を閉める。薄い磨りガラスの向こうに、ぼんやりと人影が張り付いているのが見えた。

 監視されている。囚人か俺は。

 大急ぎでワイシャツに袖を通し、ヨレヨレのネクタイを締める。鏡に映る自分は、相変わらず冴えない社畜の顔をしているが、昨夜より幾分か顔色が良い気がした。

 ……まさか、俺も彼女の体温で「充電」されていたとでも言うのか?

 馬鹿な。そんなラブコメ思考は捨てろ。俺はプロの管理者だ。

 ガチャリ、と戸を開ける。待ち構えていたアリサが、パッと顔を輝かせた。

「レンジ!」

「はいはい、行ってきます」

 飛びつこうとする彼女の額を、人差し指一本で制する。ペタリ、という接触音。不満げに「むぅ」と唸る彼女を残し、俺は玄関へと足を向けた。

 靴を履き、ドアノブに手をかける。背後から、ペタペタという裸足の足音が追いかけてきた。

「……待って」

 振り返ると、玄関の上がり框に立ち、少しだけ寂しそうな顔をしたアリサがいた。俺の着古した上着を、また毛布のように引きずっている。

「……早く、帰ってきてね」

「定時で上がる努力はする。……あくまで努力目標だがな」

「うん。……待ってる。いい子で待ってるから」

「……冷蔵庫のプリン、勝手に食うなよ」

「……努力します」

「そこは約束しろよ」

 苦笑いが漏れた。重たい鉄の扉を開ける。湿った朝の空気が流れ込み、部屋の甘い匂いと混ざり合う。

「行ってらっしゃい、管理官」

 背後から投げかけられたその言葉に、背筋が少しだけ伸びるのを感じた。

 管理官。悪くない響きだ。少なくとも、ただの「社畜」よりは、いくらかマシな肩書きかもしれない。

「……行ってくる」

 ドアを閉める。ガチャン、という金属音が、日常と非日常を分断した。

 錆びついた鉄階段を駆け下りながら、空を見上げる。雨上がりの空は、突き抜けるように青い。

 いつもの通勤路。いつもの風景。だが、その色彩は昨日までとは決定的に違っていた。

 家に帰れば、あの「厄介な不発弾」が待っている。そう考えただけで、胃がキリキリと痛み出し――そして同時に、足取りが少しだけ軽くなっている自分に気づいてしまった。

「……毒されてるな、俺も」

 自嘲気味に呟き、駅へ向かって走り出す。

 遅刻まで、あと三分。今日もまた、スリルとバグに満ちた一日が始まる。

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