第5話 公社への殴り込み
翌日、午前十時。
新宿ダンジョン公社、一階エントランスホール。
そこは戦場よりもたちが悪い「魔窟」と化していた。
「――おい、広報担当はまだか!」
「セキュリティゲートを封鎖しろ! 一般客を入れるな!」
「カメラのフラッシュを焚くなと言ってるだろうが!」
怒号。悲鳴。そして鼓膜を劈く無数のシャッター音。
普段であれば、スーツ姿の社畜たちが死んだ魚のような目でゲートを通過するだけの無機質な空間が、今はパニック映画のワンシーンのように沸騰している。
自動販売機で買った泥水のようなコーヒーを片手に、二階の吹き抜けからその光景を見下ろす。
胃が痛い。
昨夜の「残業」報告書を提出し、仮眠室で二時間ほど気絶するように眠った直後だというのに、どうやら世界は俺に安息を与えるつもりがないらしい。
「……何が起きてるんですか、主任」
隣で、同じく顔色の悪い同期・東雲螺旋が、タブレット端末を高速でタップしながら呟く。システム管理部の人間だが、サーバー室の空調故障とかで、避難がてらコーヒーを買いに来たらしい。
「さあな。クレーマーの襲来か、テロリストの予告か。……どっちにしろ、施設管理部の管轄外だ」
他人事のように答え、温くなったコーヒーを啜る。
だが、その希望的観測は、眼下の「異物」によって粉々に打ち砕かれた。
人混みが、割れた。
モーゼが海を割るように、ではない。恐怖という名の不可視の圧力によって、人々が本能的に道を空けたのだ。
現れたのは、一人の少女。
透き通るような銀髪をなびかせ、不機嫌そうにコツ、コツ、とヒールの音を響かせている。
身に纏っているのは、昨夜のボロボロになった戦闘服ではない。メディア露出用の、ゴシック調にアレンジされた漆黒のドレスアーマーだ。レースとフリル、そして硬質な装甲が見事に融合した姿は、現代の新宿においてはあまりに異質で、あまりに美しい。
星見アリサ。
「災厄の魔女」。
「……げっ」
喉の奥から、カエルの潰れたような音が漏れた。
昨夜、太腿の上で涎を垂らして爆睡していた「迷子」が、完全武装の「女王様」として君臨している。
表情は絶対零度。深紅の瞳は、周囲の有象無象など視界に入れる価値もないと言わんばかりに、冷徹な光を放っていた。
「……S級探索者様が、何の用だ」
「おいおい、こっち見てるぞ工藤ちゃん」
東雲が面白そうに口角を上げる。
「見るな。目を合わせるな。俺はただの壁だ」
手すりの陰に隠れようと身を縮める。
だが、遅かった。
一階フロアの中心で立ち止まった女王が、ゆっくりと視線を上げ、正確にこちらを射抜いたのだ。
ビクリ、と心臓が跳ねる。
殺気ではない。獲物を見つけた猛禽類のような鋭い眼光。
彼女は優雅な所作で、黒革の手袋に包まれた人差し指を突きつけた。
「――見つけた」
鈴を転がすような、しかし凛とした声が喧騒を一瞬で静まらせる。
数百人の視線が、指差す先――二階の回廊へと一斉に突き刺さった。
「そこの、冴えない社員」
「……俺、ですか」
「他に誰がいるの? 降りてきなさい。今すぐに」
拒否権など存在しない響き。
周囲の社員たちが、ざあっと波が引くように距離を取る。この薄情者どもめ。
エレベーターを使う時間すら惜しいのか、彼女の周囲のマナが揺らぎ、重力が歪む気配がした。まさか、ここで魔法を使って飛んでくる気か?
慌てて階段を駆け下りる。これ以上、公社の備品を壊されてたまるか。
一階へ降り立つと、カメラの放列とマイクの壁が待ち構えていた。
その中心を、彼女が割って入ってくる。
至近距離で見る「オン」の状態のアリサは、肌が粟立つほどの威圧感を放っていた。昨夜の無防備な寝顔とは別人のようだ。化粧のせいだろうか、それとも「S級」という仮面のせいだろうか。
「……何の御用でしょうか、星見様」
精一杯の営業スマイルを貼り付け、腰を低くして対応する。
胸元の安っぽい社員証を値踏みするように一瞥され、フン、と鼻を鳴らされた。
「顔を貸しなさい」
「は? いえ、今は勤務中でして」
「業務命令よ。……それとも、昨日の『不始末』を、ここで全部バラされたい?」
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
不始末。昨夜の暴走事故のことか、それとも朝まで膝枕をしていた件か。どちらにせよ、公になれば俺の社会人生命が終わる案件だ。
「……承知いたしました」
「よろしい」
満足げに頷くと、あろうことか俺のネクタイを掴み、犬のリードのようにグイと引っ張ってくる。
首が締まる。
「え、ちょっ」
「行くわよ」
「きゃーっ! アリサ様が男の人を!」
「誰だあの社員!?」
「不敬罪で処刑されるんじゃないか?」
外野の無責任な悲鳴と憶測を背中に浴びながら、最強の魔女に引きずられるようにして、奥の来客用通路へと連行されていった。
◇
通されたのは、防音完備の第三会議室。
重厚なドアが閉まった瞬間、外の喧騒が嘘のように遮断される。
「……鍵、かけて」
背中を向けたまま、短く命じられた。
言われるがままにロックを回す。カチャリ、という金属音が密室の完成を告げた。
「さて、星見様。これで二人きりですが」
振り返り、問いかける。
何を要求されるのか。賠償金か、土下座か、それとも口封じの記憶消去魔法か。
覚悟を決めて身構える目の前で、華奢な肩が、小刻みに震え始めていた。
「……ッ、はぁ、……ぅ」
苦しげな吐息。
先ほどまでの冷徹なオーラが、霧散していく。
その場に崩れ落ちるように膝をつき、自身の肩を抱いてガタガタと震え出した。
「……え?」
「……限界。もう、無理……」
顔を上げた瞳は潤み、とろんと蕩けていた。
女王の仮面が、剥がれ落ちる。
「……おい、どうした」
様子がおかしい。
さっきまでマスコミを恫喝していた威厳はどこへやら、防音カーペットの上で小さくうずくまっている。
肩が激しく波打つ。過呼吸だ。
銀色の髪がカーテンのように顔を覆い隠しているが、漏れ聞こえるのは「ひゅっ、ひゅっ」という、酸素を求める引きつった呼吸音だけ。
「救急車呼ぶか? それともポーションか?」
ポケットから端末を取り出そうと屈み込んだ、その時だった。
「……だめ、行かないで……ッ!」
ガシッ。
足首を掴まれる。
万力のような力。スーツのズボンの裾が悲鳴を上げ、革靴の踵がカーペットにめり込む。
「ちょ、痛い痛い! 折れる!」
「……足りないの……全然、足りない……」
うわ言のように呟くと、這いつくばったまま、こちらの足に身体を擦り寄せてきた。
まるで、砂漠で水を見つけた遭難者のように。あるいは、禁断症状に苦しむ中毒者のように。
「はぁ……っ、ん……匂い……」
顔が、膝元に埋まる。
ズボン越しに、熱い吐息と、濡れた唇の感触が伝わってくる。
スゥーッ、スゥーッ。
深く、長く、鼻孔を鳴らして空気を吸い込む音。
ポリエステル混紡の安物に染み付いた、俺の加齢臭予備軍と、昨夜の残業の汗、そして今朝こぼしたコーヒーの匂い。普通なら顔をしかめるはずの不快な生活臭を、彼女は肺の奥底まで取り込もうと必死に吸引している。
「……はぁ、……静かになった……」
数秒後。
呼吸が嘘のように整った。
小刻みな震えが止まり、強張っていた背中の筋肉が弛緩していくのが、触れている脚を通して伝わってくる。
「……お前、まさか」
「……うるさいの。あっちに行くと、また頭の中で『音』がするの」
顔を埋めたまま、くぐもった声で言う。
「……だって、貴方の近くは静かだもの。その変な匂いがすると、頭が割れる音が消えるの」
「……俺の《論理復元》の圏内だからか? 周囲の数メートルを強制的に『正常値』へ固定してるんだが……まさか、お前の脳内ノイズまでバグ判定して消してるのか」
「理屈なんてどうでもいいわ。……ただ、貴方の傍に居ると痛くない。……不思議」
「……だからって、他人の足を抱き枕にするな。あとな、高いんだぞ、このスーツ」
「……弁償するわよ。いくら? 十万? 百万?」
「そういう問題じゃねえよ」
溜息をつき、頭に手を置く。
引き剥がそうとしたわけではない。そうしないと、さらに強く食い込んでくる気がしたからだ。
髪を撫でると、「ん……」と猫のように喉を鳴らし、さらに強く太腿にしがみついてきた。
「……充電中。動かないで」
「俺はスマホか」
奇妙な沈黙が落ちた。
外では依然としてマスコミの怒号が飛び交っているはずだが、分厚い防音壁と俺のスキルのおかげで、ここだけは深海のように静かだ。
足元には、世界最強のS級探索者。
見上げれば、シミひとつない会議室の天井。
天井を仰ぎ、ネクタイを少しだけ緩めた。
とんでもない「不良債権」を拾ってしまったかもしれない。
「……ねえ」
しばらくして、顔を上げる。
乱れた銀髪の隙間から、赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。
そこにはもう、高圧的な女王の姿はない。
充血し、涙で潤んだ瞳。熱を帯びた頬。そして、すがるような上目遣い。
捨てられた子犬と、愛欲に溺れた愛人を足して二で割ったような、アンバランスで危険な表情。
「……なんだよ」
「貴方、名前は?」
「工藤。工藤連次」
「レンジ……」
名前を舌の上で転がすように復唱し、とろりとした笑みを浮かべた。
「……見つけたわ」
手が足首から這い上がり、太腿を伝って、ベルトのあたりを強く握りしめる。
逃さない、という意思表示。
「私の『
「……は?」
「拒否権はないわ。だって貴方にしか……私を『
立ち上がり、ふらつく足取りで胸元に倒れ込んでくる。
避けることもできた。だが、避ければ無様に床へ転がるだろう。
反射的に支えてしまった腕の中で、彼女は勝利を確信したように、ニヤリと口角を吊り上げた。
その笑顔は可憐で、儚げで。
そして、底なしの沼のように深く、重かった。
ガチャリ。
タイミング悪く、会議室のドアが開く。
「おい工藤! 大丈夫か、警察を呼んで……あ」
飛び込んできたのは、鬼瓦部長と数名の警備員。
彼らの視線の先には、上気した顔で胸に抱かれ、ベルトを掴んでいるS級美少女と、それを抱き留めている冴えない中年社員。
「…………」
「…………」
部長の強面が、驚愕でフリーズする。
警備員が視線を逸らす。
「……邪魔しないでくれる?」
腕の中から、アリサが冷ややかな視線を入り口に向けた。
一瞬で「女王」に戻ったその声色は、絶対零度の命令形。
「今、大事な『契約交渉』の最中なんだけど」
天を仰ぐ。
終わった。
平穏な社畜ライフは、たった今、音を立てて崩れ去った。
「……弁解の余地はありますか、部長」
「……工藤くん。後で、じっくり話を聞こうか」
鬼瓦部長の慈悲深い、しかし逃げ場のない視線を受けながら、S級の爆弾を抱え直す。
彼女からは、甘い花の香りと、俺自身の安っぽいコーヒーの匂いが混じり合って漂っていた。
それは、これから始まる泥沼のような共依存生活の、幕開けの香りだった。
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