第4話 静寂の抱擁

「……おい。起きろ。これ以上粘着するなら、マジで超過料金を取るぞ」

 返答はない。あるのは規則正しい寝息と、肋骨をミシミシと軋ませる万力の如き抱擁だけ。

 シャツの胸元を鷲掴みにする指を引き剥がそうと試みるが、ビクともしない。華奢な白魚のような指のどこに、油圧プレス機並みの握力が潜んでいるのか。爪先が安物の生地を突き破り、皮膚に食い込んでいる。

 だが、問題は痛みだけではない。

 密着した身体から伝わってくる情報量が、キャパシティを超えていた。

「……くそ、離れろって」

 もう一度、強めに肩を揺する。

 瞬間、「んぅ……」と不満げな唸り声。あろうことか腰に両足を絡め、コアラのようにしがみついてきた。

「ッ……!?」

 呼吸が止まりかける。

 重い。いや、物理的な質量ではない。存在の質量が重すぎる。

 薄いシャツ一枚を隔てて、豊かな膨らみが柔らかく押し付けられている。信じられないほど温かく、そして心臓の鼓動が伝わるほどの密着度。

 全身の体重を預けきり、体温を分け与えるように縋り付いてくる姿には、先刻まで世界を崩壊させかけた「災厄」の面影など微塵もない。ただの、人肌に飢えた寂しがり屋の少女だ。

 天を仰ぐ。

 非常灯の赤い明かりが、点滅しながらこちらの絶望と、男としての余裕のなさを照らし出している。

 帰れない。物理的にも、理性的にも。

 無理やり引き剥がせば、またパニックを起こしかねない。かといって、このとんでもない「爆弾」を抱えて地上まで運ぶ体力など、残業明けの身体には残されていない。

「……はぁ」

 本日、何回目かも忘れた溜息を吐き出す。

 諦めよう。抵抗はエネルギーの無駄だ。

 瓦礫の山の中から比較的平らなコンクリート片を見繕い、腰を下ろす。

 ずしり、と太腿に重みがかかった。

 膝の上に頭を乗せ、胎児のように丸まって眠る少女。俗に言う膝枕だが、シチュエーションが最悪すぎる。

 場所は半壊したダンジョンの最深部。周囲には粉砕された瓦礫と、正体不明の肉片。

 そして太腿を占領しているのは、ボロボロになった戦闘服から白い肌を覗かせる、国家レベルの戦略兵器。

「……寝顔だけは、一丁前だな」

 頬に張り付いた銀髪を指先で払う。

 さらさらとした感触。魔力暴走の余韻か、彼女の肌は火照ったように熱く、そして汗ばんでしっとりとしていた。

 ズボンの生地越しに、その体温がじわりと伝染してくる。

 破れたスカートの隙間から、白磁のような太腿が無防備に晒されているのが目に入った。暗がりでも分かるほどの白さと、健康的な曲線。俺は慌てて視線を逸らし、天井の亀裂を数えることに専念する。

 鼻先が、こちらの腹のあたりでひくついた。

 スゥ、スゥ、と深呼吸を繰り返している。

 安っぽい煙草と、酸化した缶コーヒー、それにじっとりとかいた冷や汗。決して芳しくない中年男の生活臭を、まるで高級なアロマか何かのように貪っている。

 吐き出される熱い吐息が、お腹のあたりにかかり、くすぐったいような、落ち着かない気分にさせられる。

「……物好きなこった」

 悪態をつきながらも上着を脱ぎ、肩にかけてやる。

 優しさではない。これ以上、目のやり場に困る肢体を隠すための防衛措置だ。

 ダンジョンの夜は冷える。風邪を引かれて、これ以上業務に支障が出ても困る。あくまで、管理上の措置だ。

 静寂が、鼓膜に染み渡る。

 遠くで空調のファンが回る重低音以外、何も聞こえない。こんな静かな夜勤は、入社以来初めてかもしれない。ポケットの端末が未読通知で明滅しているが、無視だ。どうせ圏外、言い訳はなんとでもなる。

 コンクリートの壁に背中を預け、瞼を閉じる。

 太腿から伝わってくる、柔らかく、そして確かな重みだけが妙に生々しく――そして、悔しいほど心地よかった。

「……ん、ぅ……」

 微かな呻き声と、目蓋を刺す暴力的な白い光で意識が浮上する。

 身体中が痛い。特に腰と背中がギシミシと悲鳴を上げている。硬いコンクリートの上で数時間、変な姿勢で硬直していた代償だ。

 重い目蓋をこじ開ける。

 視界に飛び込んできたのは、瓦礫の隙間から差し込む白々しい光。ダンジョンシステムが「朝」を定義し、照明スペクトルを日光に近い色温度へと切り替えたのだ。地下深くにいながらにして拝む、人工の御来光。

「……朝か」

 首を回し、ゴリッという音と共に覚醒を促す。

 ふと、太腿の感覚がないことに気づいた。痺れを超えて、もはや壊死しているんじゃないかと疑うほどの無感覚。視線を落とす。

 そこには、まだ幸せそうに寝息を立てている銀色の頭があった。

 俺の上着を毛布代わりに被り、太腿を枕にし、シャツの裾を握りしめたまま。

 無防備すぎる。少し口が開いているし、口の端からは涎が垂れて、ズボンに染みを作っている。

「……おい、S級」

 あえて肩書きで呼んでみる。反応なし。

 世界最強の探索者が、こんな瓦礫の山で無警戒に腹を見せて爆睡している。その事実に、なんだか乾いた笑いが込み上げてきた。

「よく寝るな、本当に」

 柔らかい頬を指先で突く。ぷに、と指が沈み込むような弾力のある感触。

 昨夜の、あの鬼気迫る絶叫と狂気が嘘のようだ。今のこいつは、ただの「バグが取れて正常動作している女の子」に過ぎない。

 俺の仕事は、平穏を守ること。規則正しく上下する小さな肩と、時折震える長い睫毛を見ていると、まあ、今回ばかりはいい仕事をしたと言えなくもない気がしてくる。

「……んぅ……ママ……?」

「残念、ただの通りすがりの社畜だ」

 寝言の人選が最悪だ。

 痺れた足を引き抜き、頭をそっと瓦礫の上――丸めた上着の枕――へと移動させる。ようやく自由になった血流が、ジリジリと熱を持って脚を巡り始めた。

 立ち上がり、伸びをする。関節という関節がポキポキと鳴った。

 足元の瓦礫に散らばった朝日が、キラキラと反射している。破壊されたボス部屋の惨状は変わらないが、昨夜のような陰惨さは消え、どこか清々しい空気すら漂っていた。

 これから起きれば、また騒がしい日常が始まるだろう。公社への報告、損害賠償の計算、始末書の山。考えただけで胃液が逆流しそうだ。

 だが、今はまだ、この静寂を楽しんでいてもいいだろう。

 ポケットから、ひしゃげた煙草の箱を取り出す。最後の一本を咥え、オイル切れかけのライターで火をつけた。

 紫煙を深く吸い込み、天井の人工太陽に向かって吐き出す。

「……残業代、きっちり請求してやるからな」

 言葉は、煙と共に朝の光の中へ溶けていった。

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