第3話 論理復元(ロジカル・リストア)
ザリッ、ザリッ。
瓦礫を踏み砕く乾いた足音が、リズムよく刻まれる。
周囲では依然として、物理法則を無視した極彩色の嵐が吹き荒れている。炎の渦が巻き起こり、数千ボルトの雷撃が地面を抉り、絶対零度の吹雪が空気を凍らせる。
だが、そのすべては俺の半径三メートル圏内に侵入した瞬間、威力を喪失する。
「……眩しいな」
眉間の皺を深くし、光量の調整がうまくいっていない視界に悪態をつく。
熱も、衝撃も、音圧もない。ただ、視界を埋め尽くすエフェクトだけが鬱陶しい。
展開しているのは、物理的な防御壁ではない。単純な「拒絶」の定義領域だ。
『この座標において、管理者が認可していないエネルギー変動を無効とする』
その一行のコマンドが、世界最強の魔女が放つ破壊の魔法を、ただの「描画データ」へと格下げしている。襲い来る火球が、目の前でパラパラとノイズ混じりのポリゴン片になって霧散する。触れても熱くない。ただの光の塵だ。
頬を撫でる風には、微かにオゾンの臭いと、焦げた回路のような電子的な異臭が混じっている。
「ひ……っ、あ、く……来るなッ!!」
瓦礫の山頂、世界の終わりの中心で、少女が絶叫した。
恐怖に引きつった顔。涙で張り付いた銀髪。自分の「最強の拒絶」が何一つ通用しない現実に、完全にパニックを起こしている。
「……なんで、入ってくるの!? 危ない! あっち行って!」
悲鳴のような警告。彼女は俺を殺そうとしているのではない。自分の周りにあるもの全てを壊してしまう嵐の中に、平然と入ってくる異物に怯えているのだ。
「……行きませんよ。そこ、俺の職場なんで」
届かないと知りつつ、独り言のようにボヤく。
彼女は杖を滅茶苦茶に振り回す。いや、振り回されている。杖が勝手に魔力を吸い上げ、暴発しているようだ。
ドォォォォンッ!
巨大な氷塊が、頭上へ落下してきた。質量にして数トン。直撃すればミンチ確定のプレス機だ。
だが、歩く速度すら緩めない。見上げる必要もない。
「……う、そ……なんで……ッ!?」
ガギィィン……ッ!
氷塊は頭上数十センチの空間で、見えない天井に衝突したかのように停止する。直後、ビキビキと蜘蛛の巣状の亀裂が走り、パリンと安っぽいガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
降り注ぐのは氷の礫ではなく、キラキラと輝く光の粒子のみ。それが雪のように、安いスーツの肩に降り積もり、すぐに溶けて消える。
「ば、化け……物……ッ!」
彼女の唇が、戦慄に震えながらそう紡ぐのが見えた。
化け物。なるほど、今の彼女の主観ではそう見えるだろう。自分の全存在を賭けた魔法を、顔色一つ変えずに踏み越えてくる、得体の知れないサラリーマン。自分の力が通じない相手など、今まで見たこともないはずだ。
「……失礼な。ただの公務員だ」
聞こえるはずもない距離で訂正し、また一歩、距離を詰める。残り五メートル。
「……ちがう、とまらないの……! 勝手に……勝手に出ちゃうの……ッ!」
彼女が右手を左手で必死に抑え込む。だが、指の間から溢れ出した雷撃が、手近な柱を粉砕した。
ビクン、と彼女の肩が跳ねる。自分の破壊音に自分が怯え、その恐怖がさらに魔力を暴走させる悪循環。
「……こわい、こわいよぉ……! 誰か……とめて……ッ!」
彼女の周囲のマナ濃度は、致死レベルを超えてさらに上昇している。血管が過剰な魔力伝導に耐えきれずに悲鳴を上げているのが分かる。白い肌のあちこちが裂け、血が滲んでいた。このままでは、到着する前に彼女自身が「自壊」する。
舌打ちが漏れた。予定よりもペースを上げなくてはならない。残業代のためではない。目の前で、貴重な「サンプルデータ」が損壊するのが、職業柄、どうしても我慢ならないだけだ。
「……今止めますから。じっとしててください」
瓦礫を蹴り、強引に間合いを詰める。
「や、やだ……来ないで……お願い……ッ! 死んじゃう! 貴方も壊れちゃう!」
彼女は後ずさり、瓦礫に足を取られて尻餅をつく。泥と煤で汚れた華奢な足が、無様に宙を掻いた。
その姿に、S級探索者の威厳はない。自分の身体に巻かれた爆弾のタイマーがゼロになるのを待つ、無力な人質の姿だ。
無慈悲に歩み寄る。彼女の放つ抵抗の光が、俺の影を長く、黒く、瓦礫の上に焼き付ける。あと三歩。彼女の瞳に映るこちらの姿が、明確な輪郭を結ぶ距離。
「あ……ぁ……」
彼女は観念したように、あるいは恐怖のあまり硬直したように、小刻みに震えながら身を縮こまらせた。両手で頭を抱え、小さな身体をさらに小さく丸める。
まるで、爆発の瞬間を待つように。
だが、俺は爆弾処理班ではない。もっと根源的な、ルールの管理者だ。
泥にまみれた革靴のつま先が、彼女の鼻先数センチのところで止まる。
頭上では、行き場を失った魔力がどす黒い雷雲となって渦巻き、鼓膜を劈くような放電音を撒き散らしている。バリバリ、ズガガガッ。世界が壊れる音。だが、その喧騒の中心点だけが、奇妙なほど静かだった。
「あ……」
少女の唇がわななき、何かを言葉にしようとして、掠れた呼気だけが漏れる。
焦点の合わない瞳が、恐る恐る這い上がってきた。
そこに映っているのは、死神でも破壊者でもない。くたびれたスーツを着て、目の下に濃い隈を作った、不機嫌そうな男の顔だ。
膝を折り、うずくまる彼女と視線の高さを合わせる。
至近距離で見る「災厄の魔女」は、雑誌の表紙で見るよりもずっと幼く、そして脆く見えた。過剰な魔力伝導で高熱を発しているのか、頬は林檎のように赤く、荒い呼吸をするたびに白い喉元が痙攣している。汗と涙で張り付いた銀髪の隙間から、怯えきった赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ひっ……! ……だめ、さわらないで……! とけちゃう……!」
手を伸ばしかけた瞬間、喉の奥で小動物のような悲鳴を上げ、反射的に身を竦める。
拒絶ではない。警告だ。自分が毒であることを知っているからこその、必死の懇願。体表から、カミソリのように鋭利な魔力の刃が無数に噴き出す。触れるもの全てを切り刻む、制御不能な棘。
だが、それらは指先に触れるよりも早く、シャボン玉が弾けるようにパチン、パチンと消失していく。意味がない。このゼロ距離において、許可なく存在できる事象など、一つとしてありはしない。
「……溶けませんよ」
頬杖でもつくような気楽さで、さらに手を伸ばす。
暴れ狂うエネルギーの奔流の中で、呆然とする彼女の瞳を見据え、事務的に告げる。
「……それと、近所迷惑です」
言い終わるかどうかのタイミングだった。
躊躇いなく突き出された人差し指が、汗に濡れた滑らかな額に触れる。
ぺたり。熱く火照った彼女の肌に、ひんやりとした指先が吸着した。
その接触点から、世界が書き換わる。
「あ――」
彼女の瞳孔が開き、時間が引き伸ばされる。
脳内で、あらかじめ構築していたコマンド群が一気に展開された。
対象、星見アリサ。状態、オーバーフロー。実行、強制初期化。
「……戻れ」
指先に込めたのは、魔法ではない。ただの命令だ。
流し込まれた「正常値」の定義が、暴走する彼女のソースコードを瞬時に上書きしていく。抵抗はない。あるはずがない。どんなに巨大な竜巻であろうと、それを描画しているモニターの電源を引っこ抜けば、跡形もなく消えるのと同じ理屈だ。
プン、という間の抜けた音が、脳の奥で鳴った気がした。古いブラウン管テレビのスイッチを切った時のような、静電気の萎む音。
その一瞬を境に、世界から「色」と「音」が落ちた。
「――っ」
直前まで鼓膜を叩き潰していた轟音が、嘘のように消え失せる。視界を焼き尽くしていた極彩色の魔力光が、砂上の楼閣のようにサラサラと崩れ落ち、ただの透明な大気へと還っていく。炎熱も、冷気も、殺意も。全てが、最初から存在しなかったかのように「無」へと帰着する。
後に残ったのは、圧倒的な静寂だけ。そして、あまりに唐突な変動に追いつけず、呆然と立ち尽くす少女と、その額に指を当てたままの俺。
「……あ、れ……?」
少女の口から、空気が抜けるような声が漏れた。
自分の両手を見つめ、キョロキョロと周囲を見回す。頭上で渦巻いていた雷雲は消え、破壊され尽くしたドーム状の天井から、非常灯の赤い明かりだけが頼りなく降り注いでいる。
「静か……だ」
彼女が呟く。その声は震えていたが、先ほどまでの恐怖による震えとは質が違っていた。まるで、何年もの間、工事現場の騒音の中で暮らしていた人間が、初めて防音室に入った時のような。
信じられないものを見る目。脳内を蝕んでいた幻聴もまた、デバッグによって強制的にクリアされたのだ。
「……頭、痛くない。……うるさく、ない」
自分自身を抱きしめるように肩に手を回し、俺を見る。
「……貴方が、消したの……?」
「さあね。俺はただ、スイッチを切っただけです」
皮肉交じりに返すと、彼女は弾かれたようにこちらを見た。
瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは痛みの涙ではなく、痛みからの解放が生んだ生理的な反応に見えた。
張り詰めていた糸が切れたのだろう。カクン、と膝から力が抜ける。
「っと」
崩れ落ちてきた身体を、片手で無造作に支える。軽い。
S級探索者だの、災厄の魔女だのと大層な肩書きがついているが、中身はただの栄養失調気味な十代の小娘だ。華奢な肩が、腕の中で小さく跳ねている。
「業務完了。……これで文句ないだろ」
誰に聞かせるでもなく独りごちて、大きく息を吐き出す。
周囲を見渡せば、ボス部屋は見るも無残な廃墟と化しているが、少なくともこれ以上の環境破壊は食い止めた。あとは事後処理班と、査定担当の仕事だ。
「……んぅ……」
腕の中の少女が、すり、と胸元に顔を埋めた。
安っぽいスーツの生地に、泥と涙で汚れた頬を押し付け、深く、貪るように息を吸い込む。まるで、そこが世界で一番安全なシェルターであるかのように。
「おい、離れろ。作業着が汚れる」
苦情を言ってみるが、返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、スゥ、スゥ、という規則正しい寝息だった。気絶したように、あるいは泥のように。彼女は俺の腕の中で、意識を手放していた。
「……う、ん……いい匂い……」
「……は?」
「……おじさん、の……匂い……」
寝言で罵倒された。いや、褒められたのか?
どうやら彼女の鼻は、俺の加齢臭予備軍を「アロマ」と誤認するバグを抱えているらしい。
「……マジかよ」
最悪だ。これじゃあ、泣かせたみたいじゃないか。いや、実際泣かせたし、気絶させたのも俺だが。
天井を見上げる。非常灯の赤い光が、点滅しながら俺たちを照らしている。
静寂が戻ったダンジョンの最深部で、得体の知れない爆弾を抱えたまま、深い溜息をついた。
やれやれ。どうやら今夜の残業は、まだまだ長引きそうだ。
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