第6話 成功者の陰に苦労人あり



 そもそもの話、恋人がいる女を何の事前準備もなく堕とすというのが恋愛の道理に反しているわけで。


 花みたいな直感タイプならその場のノリで相手を籠絡することも可能だろうけれど、私は元来、入念な下準備をもとに任務を遂行する慎重派なのである。


 だから、あれだけ体を張っても氷野川詩乃が私に靡かなかったのは、断じて私の魅力が足りないからではないのだ。きっと。いや、絶対に。


「だからね、ちゃんと準備してたら私だってあんな醜態を晒してなかったんだよ。わかる? 私にはもっと向いてるやり方があんの。前回はそれを間違えちゃっただけで……」

「もう何回も聞いたってば〜。みぃちゃんしつこい〜!」


 長々と同じ言い訳を繰り返していた私に、花がいい加減うんざりした様子で苦情を飛ばしてきた。


 休日のとあるカラオケ施設にて。

 花と二人でドリンクを飲みながら、私たちはここ数日の仕事の成果を互いに報告し合っていた。


「そういえば、どうして穂波さんは名指しで私を指名したんだろうね。氷野川さんと同じクラスってだけなら、花でもいいはずなのに」

「私はその時、他の案件に付きっきりだったから。後は相性とかも考えてくれたんじゃない? 私、氷野川さんとは恋人になれる気がしないなぁ。ただの勘だけどね〜」

「そうなのか……? やっぱり身内の私に気を遣って仕事を回してくれたんじゃ……」

「考え過ぎだよ〜!」


 花が励ますように差し出してきたポッキーを口に咥えて、カリカリと齧る。

 まあ理由が何であれ、珍しく私に任された大口案件なのだ。失敗するわけにはいかない。


 上手くいっていない現状を改善するため、今日は氷野川さんの情報を集めることに一日を費やす予定だった。

 ちなみに花がここにいるのは私が呼んだからではなく、「面白そうだから」と勝手についてきただけである。



 ――占いなどにおける有名なテクニックで、〝ホット・リーディング〟と呼ばれるものがある。


 事前に対象を調査して情報を得ながらも、それを隠すことで、あたかもその場で相手の心理を読み取ったかのように誤認させる技術のことを指す。

 これは何も占いの分野に限った話ではなく、営業やチームマネジメントなど、円滑な人間関係を必要とするあらゆる現場で用いられる汎用性の高いテクニックである。


 もちろん〝恋愛〟を売り物にしている別れさせ屋もまた、例外ではなかった。


 これまでは氷野川家のセキュリティが非常に固く、なかなか情報を入手することができないでいた。

 ただ、今日はその強固なセキュリティに僅かな綻びが生まれる可能性があった。


 先日『依頼の経過報告がしたい』と月城先輩に電話をしたところ、『その日は詩乃っちに呼ばれてるから無理』ときっぱり断られてしまったのだ。


 何というか、かなり不本意なニュアンスを含んだ声色だった。

 まあ気持ちはわからないでもないけれど。せっかくの休日に別れたいと思ってる恋人とデートしなければならないなんて、億劫になるに決まってる。

 未だに依頼を達成できていない私にも少なからず非はあるので、月城先輩には微妙に罪悪感を覚えてしまう。


 だけど考えようによっては、これはチャンスでもあるのだ。

 今日、氷野川さんが出掛けることが確定しているのなら、アクアミラージュの調査部に協力を依頼して、氷野川さんの家に張り込んでもらうことができる。


 月城先輩はうちに依頼を持ってきた時、


『お家の人も厳しいらしくて、バレたら面倒なことになるって言うからさ。周りには内緒で付き合ってたんだよね』


 ――と話していた。


 つまり月城先輩とデートしている時の氷野川さんは、ずっと邪魔な存在だった護衛を置いて、無防備な状態で出歩くことになる。私たちのような輩からすれば、まさに格好の獲物となるわけだ。


 先日の私のような素人の思いつきではなく、ちゃんと人員を割いた複数人であたる計画的な尾行だ。無警戒に休日を過ごす氷野川さんを相手に、失敗するとは思えない。


 デート中の氷野川さんを尾行することができれば、彼女の人となりや趣味嗜好など、かなりプライベートな情報まで把握することができる。今後の氷野川さん攻略が一気に楽になるだろう。


 カラオケ部屋のモニターには、タブレットを通して調査用スタッフが見ている視界がリアルタイムで表示されていた。


 氷野川詩乃の習性を知る、またとない機会だ。

 今日の調査で、彼女の全てを暴いてやる――‼︎




 人と仲良くなるために最も手軽かつ効果的な手段の一つとして、〝類似性の法則〟という心理現象が広く知られている。


 人間は自分と同じ共通点を持つ相手に対し、自然と好意や親近感を抱きやすくなる生き物なのだ。

 出身地や好きなものが同じだったというだけで話が弾むし、グッと懐に入りやすくなる。


 それを裏付ける実験を、アメリカの心理学者・ニューカムが行っていた。


 実験の内容はこうだ。

 まず、学生寮に入った十七人の学生の部屋割りを、宗教や人種問題などについて同じ考えを持たない者同士が隣り合うように配置する。


 すると学生たちは、最初のうちは近い部屋同士で仲を深めようとする。

 しかし半年後に同様の調査を行うと、部屋の配置に関わらず、考え方が似ている学生同士が親しい関係を築いていたのだ。


 人は自分と似ているものは否定できない。

 それは自分を否定することになってしまうから。


 逆に自分と類似した特徴を持つものは、自分自身を肯定することに繋がるため、積極的に受け入れようとする。

 簡単な話だが、こと恋愛において、この心理作用はこの上なく効果的に力を発揮する。知っているのと知らないのとでは大違いなのだ。


 本気で誰かを堕としたいなら、まずは相手をよく知る必要がある。


 氷野川さん攻略の糸口も、きっとそこから見つかるはず。

 そう強く信じて、私は花とひとしきりカラオケを楽しんだ後、ようやく家から出てきた氷野川さんの姿をモニター越しに追いかけていた。


「氷野川さん、結構ラフな感じだね〜。デートっていうから、てっきり目一杯お洒落してくるかと思ったんだけど」

「恋人と会うからこそなんじゃない? 月城先輩の好みに合わせてるとか」

「あ〜そっか〜」


 ポリポリとお菓子を摘みながら、花と共にモニターを眺めて氷野川さんの情報をまとめていく。


 カラオケなんて経費でしか来れないし、花も前の学校では同性から嫌われて友達がおらず、デート以外で来る機会がなかったみたいだから、こうして二人でのんびり話していると何だか新鮮な楽しさがあった。


「あ、徒歩で移動するんだ。お家の人に内緒にしてるってのは本当みたいだね〜」

「身内がそこまで干渉してくるのも面倒くさそうだけど。金持ちってのも意外と大変なんだな」

「でもお金は欲しくない?」

「それはそう」


 花とそんなやり取りをしていると、スピーカーから小さく『移動します』という音声が聞こえてきた。


 タブレットでカメラを切り替え、次のスタッフの視点を追いかける。

 同じスタッフがずっとくっついて歩いていると対象に気付かれてしまう可能性があるため、複数人で尾行する時は、こうして要所要所でバトンタッチできる布陣を事前に用意していた。


 そのまましばらく町を歩いて、大きなショッピングモールの中へと入っていく。

 モニターの中で、また氷野川さんを見る角度が切り替わる。

 ただ歩いているだけなのに、彼女の背中からはどこか人の目を惹きつける高貴なオーラが溢れ出していた。


「あれ? お店に入るねぇ。ここで待ち合わせてるのかな?」

「いや、待ち合わせするにはまだ早いような……本屋か。普通に買い物じゃないかな」


 マイクをオンにして、一番近くにいるスタッフに指示を飛ばす。


「すみません、何の本を見てるのか、さりげなく確認できますか?」


 私の指示にスタッフが動いて、氷野川さんが真剣な顔で吟味している陳列棚の内容をカメラに映してくれた。


 これは――


「……『いい女になるための100の習慣』……『女を磨く大人の恋愛学習塾』……『つい抱きしめたくなる女とは? 〜モテる女のマル秘テク大公開〜』……な、なんじゃこりゃ」


 いわゆる自分磨きと呼ばれる内容が記された、実用書や自己啓発本の数々。

 休日に一人で何をしているのかと思ったら……氷野川さんもこういうのを参考にするのか……。


「……月城先輩との関係に悩んでるのかな……」

「かもね〜。そう考えると、何だか可愛く見えてきちゃったかも〜」


 氷野川さんはその棚でしばらく悩んだ後、数冊の本を購入してお店を後にした。

 また別のスタッフのカメラに切り替わり、さらに尾行が続けられる。


 女性用のアパレル品を販売している有名なブランドショップに入り、慣れた様子で店員に挨拶を済ませ、並べられている夏服を一つ一つ丁寧に見ていった。


「うっわ、店員さんの対応みた? VIP感が半端ないね。やっぱ金持ちは違うな……」

「いやぁ、あれくらいは割とある方だよ〜? みぃちゃんが服にお金を使わな過ぎなだけだって〜」


 思わぬところで意見が割れて、分が悪いと悟った私は今の会話を無かったことにした。


「あ、店出るね。今度は何も買わなかったか」

「店員さんに注文してたよ〜。荷物になるからお家に送ってもらうんじゃないかな〜」

「………………」


 何かこの手の話題は、喋れば喋るほど私の知識不足が露呈してしまうな。よくないぞ。


 さっきの本はその場で持ち帰っていたけれど……まあ、あれがもし家族の目に触れたらと思うと、郵送では送りづらいか。


「今度は上の階に上がって行くね〜。……ん? あれ? この上って確か……」

「……あ、映画館か。もしかしてそこで待ち合わせしてるとか?」


 そう予想して人混みに月城先輩の姿を探してみるも、氷野川さんは誰と会うこともなく、一人で発券を済ませて館内に入って行ってしまった。


「一人で映画? デートの前なのに? 変わってるな、氷野川さん」

「そぉ〜? デートでは月城先輩が観たい映画に合わせたから、その前に自分が観たいものを観ておきたかったんじゃないかな〜?」

「あー、なるほど。そういうパターンもあるのか」


 だとしたら服のことといい、氷野川さんはかなり恋人に尽くすというか、合わせるタイプなのかもしれない。月城先輩はそんな氷野川さんの一面を『重い』と言っていたとか……?


 調査スタッフの一人がチケットを購入し、氷野川さんから少し離れた後ろの席に座る。上映が始まるまでに、映画の情報をこちらの端末に送ってくれた。


「……うぇ、こってこての恋愛映画だ……うわぁ、私苦手かも……」

「え〜、私こういうの大好き〜! やっぱり顔が良い人たちが一生懸命青春してたらキュンキュンしちゃうよね〜!」

「わからない……こわい……わからない……」


 私が世間との価値観の相違に震えていると、やがて館内の照明が落とされる。

 上映中はカメラを切らなければならないため、スタッフさんに休憩を告げ、私と花もカラオケをしながら時間を潰した。


 百二十六分という信じられない大恋愛の末、無事に映画が終わると、スタッフから上映中の氷野川さんの様子がレポートとして送られてきた。


「なになに……え、何か……メモとか取ってたんだって、氷野川さん。……いや何それ、意味わかんないんだけど」

「メモ〜? 恋愛映画を観ながら〜? ……んん〜? どーゆーことだぁ?」

「メモの内容までは……流石に確認できなかったか。まあ映画を観ながらってことは、映画の内容に関するメモなんだとは思うけど」


 恋愛映画でわざわざメモを取るようなことなんてあるか?

 というか、そもそも映画を楽しもうって時にメモなんて取るものか?


「わからん……調べれば調べるほど謎だ、氷野川さん……」

「ミステリアスな女の子って良いよね〜!」

「そんな話はしてないっての。それにわかりやすい方が良いに決まってんでしょ、攻略しやすくて」

「みぃちゃんみたいな?」

「顔殴ろうか?」


 ジロリと睨むと、花は「や〜!」と戯けて私のお腹に抱き着いてきた。

 こいつ、飽きてきてるな。勝手についてきたくせに、本当に自由なやつだ。


「ほら、結構時間経っちゃってるし、そろそろ月城先輩と待ち合わせじゃない? 大事なところなんだから、見逃さないようにしないと」

「は〜い」


 私が腕を引き剥がすと、花は渋々といった顔で離れていった。

 グラスに残っていたウーロン茶をじゅぞっと啜り、二人でモニターに視線を戻す。


 氷野川さんはエスカレーターで下の階に下りて、きょろきょろと辺りを見回す。

 それからスマホを確認して、とあるカフェに向かって歩き出した。


「あっ、ほら花、今スマホ確認した! いよいよ月城先輩と合流じゃない?」

「そうかもね〜。スタッフさんが近くの席を取れるといいね〜」


 氷野川さんはそのままカフェの中に消えていった。

 それから少しの間を置いて、二人の調査員が恋人を装ってカフェの中へ入って行こうとする。


 ――――次の瞬間。


「……ん⁉︎ あれ⁉︎ いきなり画面が消えた!」


 目を皿のようにして見つめていたモニターが、急に暗転してしまった。


 接続不良かと思い慌ててタブレットに視線を移すが、そちらも同様に暗転した画面を映している。どうやらこっち側ではなく、現場の方で何かトラブルが起きているらしい。


「も、もしもし⁉︎ ちょっと、どうしました⁉︎ 何が起こってるんですか⁉︎」


 マイクに向かって呼びかけるが、スタッフの声は返ってこない。

 あちらのマイクはミュートの状態になったまま、一瞬にして全てのカメラが潰れてしまった。


 どうしよう……回線か、あるいはソフト系の問題だろうか。


 せっかく氷野川さんが隙を晒してくれているんだから、早くどうにかしないと――などと思っていると。


『――――水瀬雫様。花宮桃様』


 唐突に、スピーカーから不気味な声が聞こえてきた。

 変声機によって声質が歪められ、男か女かもわからない無機質な合成音声がカラオケ部屋の中に流れる。


 花も私も、一瞬で顔が凍り付いた。

 こんな状況でいきなり自分の名前を呼ばれるとか、恐怖以外の何ものでもない。


 タブレットの画面はまだ暗転したままだ。だけどよく見ると、接続が切れて暗転しているのではなく、カメラを何かに塞がれて暗くなっているだけだと気が付いた。


 その事実が、さらに私の恐怖心を掻き立てる。

 この声の主が、今、カメラのすぐ側にいる。


『――詩乃様は現在、プライベートの時間をお過ごしでございます。例えご学友であられても、これ以上覗き見するようでしたら……わかりますね?』


 最後、脅すような低い男の声で言われて、私の心臓がきゅうぅと縮み上がった。

 隣では花も涙目になって、ぷるぷる震えながら私に抱き着いてきている。


 恐怖に固まって何も答えられないでいる私たちに、カメラの向こうの何者かが言った。


『ああ、そうだ……これは私からの差し入れっす。お二人で仲良く召し上がってください。それでは』


 それだけ言い残して、向こうから接続が切られてしまった。

 花と顔を見合わせ、「差し入れ……?」と首を捻っていると――


「――お待たせしましたー! ハニートースト・チョモランマ盛りでございまーす!」


「きゃあああっ!」「うおわぁあああ⁉︎」


 いきなりカラオケ部屋の扉が開いて、超巨大なハニートーストを抱えた店員が突撃してきた。

 わけがわからず、花と二人で抱き合いながら声を上げる。


「なっ、なん、何ですか⁉︎ 頼んでないです‼︎」

「えっ? あれ……えっと、506号室ですよね。さっきご注文いただきましたよ?」

「え……あっ……」


 そこでようやく、差し入れというのがこのハニートーストを指していたことに気付き――


 ぞわぁ……と、背筋に鳥肌が立った。


「み、みぃちゃ〜ん……どうして私たちの居場所がバレてるの〜……?」


 隣から、今にも泣き出しそうな花の弱々しい声が聞こえる。

 店員さんは訝しげに私たちを見下ろすと、山盛りのハニートーストをテーブルに置いて、すぐに部屋を出て行ってしまった。


 無音になった室内で、私は心からの叫び声を上げる。


「ひっ……氷野川家、こわぁあああああああああっ‼︎」


 震えながら事務所のスタッフに連絡を取り、大急ぎで全員撤退させた。


 それから私は花と共に、長い時間をかけてハニートーストを胃に収めていく。

 何だかひと口でも残せばその瞬間に大量の刺客が部屋に突入してきそうで、無理矢理にでも呑み込むしかなかった。


「う、うう……苦しい……吐きそ……ううう……」

「みぃちゃ〜ん……私もうムリ〜……」

「許さん……最後まで付き合わせるから……」

「ええ〜……も〜……来るんじゃなかったよぉ……」


 生クリームだけで何キロあるんだという量を、互いの口に押し付け合うようにして食べ進めていく。


 ……月城先輩は『家にはバレてない』的なことを話してたはずなのに……先輩も氷野川さんも、どちらも泳がされてたってことなのか?


 もしかしたら私が考えていた以上に、この依頼には複雑な内情が隠れているのかもしれない。

 現実逃避にそんなことを思いながら、私は上がり続ける血糖値と死闘を繰り広げるのだった。



   *



「ほら見て、小鈴シャオリン! 好きな人にはすぐ返信しちゃダメなんですって! 既読スルーを上手く使うと相手の気を惹けるらしいですよ?」


「そっすか。まずは連絡先をゲットできるといいっすねー」


「そんなの簡単です。今日映画館で勉強してきましたから。こういう時はストレートに訊くよりも、共通の友人に取り持ってもらえばいいんです。後は何かの用事にかこつけて、連絡を取る必要性を強調すれば自然に聞き出せるんですよ」


「ならまずはお友達を作るところからっすねー」


 私が何を言っても、小鈴は興味のなさそうな薄い返事を寄越すばかりだった。

 まあ、まだ中学三年生なら仕方ないか。恋愛に興味が湧くようになるのはもう少し大人になってからだろう。


 我が家のシークレットサービスとしてはこの上なく優秀な彼女だけれど、情緒の方はまだまだお子ちゃまと言っていい。

 お姉さんとして、私が色々と教えてあげなければ。


 そう思い、子猫のようにふわふわとした彼女の銀髪を撫でながら言った。


「ふふ。小鈴もいつか、本当の恋が見つかるといいですね。私と雫さんのように」

「……すねー……」


 休日だというのに、小鈴は何故だか疲れ切った顔をしていた。きっとたまの休みにはしゃぎ過ぎてしまったのだろう。


 その幼さを微笑ましく思いながら、私は今夜も雫さんの良さを滔々と語り尽くしていった。



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