第5話 深淵を覗く時、深淵もまた……?
氷野川さんに、完全に嫌われた。
別れさせ屋としてあるまじき失態に、私は余命宣告でも受けたみたいに意気消沈してしまっていた。
ターゲットと仲を深めて恋に堕とさなければならない立場の私が、あろうことか尾行を見抜かれ、二階から飛び降りるほどにキモがられてしまうなんて。
別れさせ屋にとって、これ以上の汚名はない。これほどの失態、どうやって取り返せばいいのだろう。
あまりの悔しさに眠ることができず、一晩中、頭を抱えて次の策を考えていた。
氷野川さんに嫌われて、ともすれば警戒心すら抱かせてしまったかもしれないこの状況。
未曾有の窮地を打破するために、どのような手を打てばいいか。
ひたすら考えて、参考書を漁って、昔のノートを片っ端から開いていって――
夜が明ける頃、ようやく一つの解決策が浮かんできた。
〝認知的不協和〟と呼ばれる理論がある。
アメリカの心理学者、レオン・フェスティンガーが提唱した理論で、人間が無意識に行う認知の正当化に関する理論である。
人間は矛盾した二つの認知を抱えた際、その不均衡な心理状態にストレスを覚える。
自身の認知とは異なる思考や行動を取らなければならなくなった場合、人は認知を歪めたり、あるいは別の認知を取り入れたりして、自身の行為の正当化を図るのだ。
例えば「ダイエットをするために、摂取カロリーを制限する必要がある」という認知があるとする。
これに「ラーメンを食べたい」という思考が入ると、先の「摂取カロリーを制限する必要がある」という認知と矛盾した関係になってしまう。
この状態のストレスを解消するため、人間は「我慢し過ぎるのはかえって体に良くない」とか「チートデイにすれば大丈夫」とか「スープを飲まなければ意外とヘルシー」などの認知を取り入れ、矛盾した自身の思考に正当性を持たせようとするのだ。
イソップ物語に登場する『すっぱい葡萄』の寓話や、ヒモ男に貢いでしまう女性なんかもこの理論に当てはまる。
「葡萄が欲しいけど手に入らなかった」→「どうせあの葡萄は酸っぱいに決まっている」
「本当はお金を渡すのは嫌だ」→「こんなに貢いでいるのは私が彼を愛している証拠だ」
というように、自身の行動の正当化のために認知を歪めてしまうのだ。
とにかく人間は矛盾を許せず、自身の行動と認知がストレートに繋がっていないと我慢ならない生き物なのである。
そしてこの心理は、恋愛や人間関係においても大いに活用できる。
苦手な相手が困っていた時、放っておけずについ手を貸してしまうと、その人は「苦手なのに助けてしまった」という自己矛盾に陥る。
矛盾によるストレスを回避するため、その人は無意識のうちに認知を歪めて行動の合理化を図ろうとする。
「苦手なのに手を貸すのはおかしい」→「最初から苦手ではなかった」→「むしろ好ましく思っていたから助けたのだ」
と、自身にとって都合の良い認知に変えてしまうのだ。
一晩中、考えに考え抜いた私は、この理論を氷野川さんの攻略に利用できないかと思い至った。
――わざと氷野川さんに私を助けさせて、彼女の認知を歪めることができないだろうか?
認知的不協和は、社会的に優秀と認められていて、かつプライドが高い人間ほど陥りやすいことがわかっている。自らの行動の正しさを疑わず、一貫性を保とうとして、自身を正当化しようとする心理が強く働くためだ。
優等生として教員や生徒たちから高く評価されている氷野川さんが相手なら、充分な効果を期待できるだろう。
氷野川さんの目の前でピンチを演出し、私を助けざるを得ない状況を作る。
私を助けた氷野川さんは、自身の行動と「水瀬さんのことが嫌い」という認知が矛盾しないよう、認知の方を好意的に歪めてくれるというわけだ。
これはいける。少なくとも理論的に瑕疵はないはず。今日こそ氷野川さんと深い仲を築いてみせる!
頭の中で細かい作戦を組み立てながら、私は細い竹槍を握り締めて、難攻不落のターゲットが待ち構える学校に突撃していった。
*
作戦といっても、特に難しいことをする必要はない。
なぜなら氷野川さんは自他ともに認める優等生。学園の天使と名高い慈悲深き聖女様なのである。
目の前に困っている誰かがいて、その場で手を貸せる人間が氷野川さんしかいなければ、彼女がその状況を見過ごせるはずがない。例えそれが自分をストーキングするような、危ない女であったとしても。
彼女の良心を利用するようで少しだけ気が引けるが、イギリスの格言にもあるように、恋と戦争では手段を選んでなどいられないのだ。まあ私にとっての恋愛とは、単なるビジネスのことだけれど。
つつがなく一日の工程を終え、時計は放課後を迎える。
さあ、本番はここからだ。
氷野川さんが教室を出て行くよりも早く、私は席を立って移動を開始した。
教室から第二図書室に向かうまでのルートに先回りして、彼女が通り掛かるのを待つ。
やがて彼女がこちらに歩いてくるのを確認した私は、タイミングを見計らって曲がり角から足を踏み出した。
ふらふらとした足取りで出て行くと、額を押さえてその場でばたりと頽れる。顔色が悪く見えるように、事前にメイクで調整済みである。
「しっ……水瀬さん、大丈夫ですか⁉︎」
突然目の前で倒れ込んだ私に、氷野川さんが心配そうに駆け寄ってきた。
『声を掛けられてようやく気が付きました』みたいな演技をしながら、苦しそうな顔で氷野川さんを見上げる。
「あ……氷野川さん。ごめんね、気にしないで。ちょっと目眩がしただけだから」
「気にするに決まってますよ。保健室までご一緒します。動けそうですか?」
目の前でしゃがみ込んで、氷野川さんが優しく私の手に触れてくる。
このまま保健室まで連れて行ってもらってもいいけど……一応、一ターンだけ遠慮を挟んでおくか。
「そんな……悪いよ。氷野川さん、委員の仕事があるでしょ」
「目の前でこんなに具合が悪そうにしている人を放っておけませんよ。仕事は後で向かえば大丈夫です」
「……ありがとう。本当に優しいんだね、氷野川さんって」
はいノルマ完了。さあ、保健室に連れて行け。
「立てそうですか? ……無理しないでくださいね。支えますので、肩に掴まってください」
「うん、ありがとう。ん、しょ……うわっ」
二人で立ち上がろうとしたところでわざとよろけて、氷野川さんの腕に私の胸を密着させてやった。
スタイルの良い月城先輩と付き合ってるくらいだし、きっと好きだろ、こういうの。
あまりにも頭が悪いアプローチの仕方だけど、結局こういうのが一番効果があったりするんだ。
そう思い、チラッと氷野川さんの表情を窺ってみると――
――――無っ‼︎
おかしいおかしい。
これだけ体を張ったのに、表情から一切の感情が読み取れない。
やっぱり私の体じゃ魅力が足りないのか……? だとしたら自信を無くして泣いてしまいそうなのだが。
怖いほどの無表情を顔に張り付けた氷野川さんと共に、保健室に辿り着く。
しかし保健室の中に、養護教諭の姿はなかった。
あるはずがない。事前に養護教諭のスケジュールを確認して、この時間は職員室で会議をしていると情報を掴んでおいたのだから。
養護教諭が保健室に戻って来るまで、まだもう少しだけ、氷野川さんにアプローチを仕掛けるための猶予が残っていた。
「先生は席を外しているんですね。とりあえず、ベッドを借りて横になりましょうか」
「うん……はぁ、はぁ……ごめんね、氷野川さん……」
「大丈夫ですよ。頭、支えますね」
氷野川さんは後頭部に手を回して、私が横になるのを手伝ってくれる。
そんな彼女の手をぎゅっと握って、息を荒らげながら言った。
「はぁ、はぁ……ひ、氷野川さん……お願いしたいことがあるんだけど、良いかな……?」
「……なんですか?」
「息がね、凄く苦しいんだ。リボンを外して……ブラウスのボタン、開けてくれないかな……?」
込み上げる羞恥心を誤魔化しながら、私がそう言うと――
氷野川さんの視線の温度が、より一層冷たくなった。
いや、何でだよ⁉︎ もうちょっと照れたり、動揺したりしてくれてもいいだろ⁉︎
――なんてことは言えないので、弱々しい顔だけを見せながら、ダメ押しで「お願い……」と呟く。
氷野川さんは一度目を閉じると、何かドロドロとした感情に蓋をするように深く息を吐き出す。やがて瞼を開いた彼女の瞳には、一切の光が映っていなかった。
「では、外しますね」
「あ、う、うん……お願いします」
流れ作業のような単調な手つきで、氷野川さんが私の首元に手を回し、あっという間にリボンが外される。
それからブラウスのボタンが胸の上辺りまで開けられて、流石に私の顔も熱くなった。
「これで良いですか?」
氷野川さんが私を見下ろし、酷く冷淡な声で尋ねてきた。
家畜の世話だってもうちょっと愛情を込めてやるだろうと、文句を言ってやりたくなる。
「うん、ありがとう……ちょっと楽になったよ」
そう言いながら、私は自分の手でブラウスの襟を開き、胸元を氷野川さんに見せつけた。
この時のために可愛い下着を着けてきたし、わざわざ休み時間にお手洗いでインナーを脱いでおいたのだ。
やってることはほとんど痴女だけど、これなら氷野川さんをドキドキさせられるだろう。
そう思い、ベッドの傍らに立つ氷野川さんの表情を窺ってみると――
――――無っ⁉︎
だから何でだよ‼︎
ドキドキとまではいかないにしても、無反応っておかしいだろ⁉︎
何ならマネキンが隣に立っているのかと思えるほど生命の気配を感じない。
こいつ、高僧か何かか? 煩悩はどこに落としてきたんだ?
こうなったらもう、最終手段に出るしかない。
私はベッドの上で上半身を起こし、膝を折り曲げて氷野川さんの方を向いた。
「……あ、あの、さ…………あのぉ……さ……」
「……今度は何ですか?」
氷野川さんの冷たい声に心が折れそうになるが、プロのプライドでどうにか堪える。
これを頼むのは、私だって相当恥ずかしい。
だけど……うう……氷野川さんが全くドキドキしてくれない以上……や、やるしか……ない、か……?
思春期の乙女心と別れさせ屋としての責任感の間で、羞恥心が揺れ動く。
最終的に無理やり覚悟を決めて、氷野川さんから視線を逸らしながら言った。
「ベッ……ベッドの中だと、裸足じゃないと、落ち着けないからさ……あの、脱がしてくれないかな……靴下……」
「…………んんッ」
顔を真っ赤にしながら頼むと、氷野川さんの方からもの凄い咳払いが聞こえてきた。
もしかしたら「なんて図々しい奴だ」とか思っているのかもしれない。私だったら自分で脱げよって思うし。
だけど、これは氷野川さんへのアピールなわけだし……何より認知的不協和を起こさせるには、氷野川さんの手を借りなければならない。
だから、そう。これは必要なことなのだ。
やるしかない。やらなければならないのだ。
「あ、あの、ね……指、力が入んなくて……そのぉ……氷野川さん、たっ、助けてくれないかなぁって……」
「……わ、かりました」
氷野川さんが、不承不承といった様子で頷いた。
若干声が裏返っていたような気がするけれど、彼女の表情を確認する勇気が出なかった。
バクバクと高鳴る心臓の音を聴きながら、ベッドの外に足を垂らす。
氷野川さんはベッドの脇にしゃがみ込むと、私の足に触れ、ふくらはぎと靴下の隙間に指を差し入れてきた。
「………………っ‼︎」
声にならない悲鳴が出そうになって、慌てて自分の口を押さえる。
肌に触れる指先のくすぐったさが、私の脳を引っ掻くようにして不思議な快楽を刻んでいった。
「……動かしますよ」
氷野川さんの声が耳に届くと同時に、するすると靴下が下げられていく。
くるぶしが露わになった辺りで、私は込み上げる羞恥に耐え切れず、喉の奥から「キュウッ」という謎の鳴き声を漏らしていた。
靴下の中に入れられた氷野川さんの指先が、私の踵に触れる。
……大丈夫。靴下は新品に変えているし、足のケアだって入念にしてる。
匂いだって……だ、大丈夫。絶対大丈夫なはず。しっかり準備してきたんだから。
くっ、くさい……なんて、そんなのあり得ない。
自分に何度も言い聞かせるけれど、いざ想定していた状況になってみると、どうにも不安で仕方ない。
氷野川さんに「くっさ」とか思われたら全然腹を切って死ねるけど、実際のところ、氷野川さんはこの状況をどう思っているのだろう。
不安になって、恐る恐る彼女の顔色を窺ってみると――
――――無ッ⁉︎⁉︎⁉︎
なんで⁉︎ ナンデ⁉︎ 何でこんだけやって無表情のまま⁉︎
私がこんなに体を張ってるんだから、お前だって少しくらいドキドキしろよ‼︎
これだけのことをして何も感じないって、それはもう私じゃなくてこいつの感性に問題があるんじゃないのかっ⁉︎
片足だけ剥ぎ取られていく靴下を眺めながら、歯を食いしばってそんなことを考える。
これで効果が無かったら、もうこれ以上はないぞ……これ以上……え、ス、スカート?
スカートを……脱がせてもらっ……い、いや、それは……そこまでは流石に……っ⁉︎
「――――あんたら、何やってんの?」
私がどエロい妄想でパニック状態に陥っていると、いきなり横から声を掛けられた。
保健室の入り口を見ると、そこには眉間に皺を寄せてこちらを見つめている養護教諭の姿があった。
「神聖な学び舎で、なーにをしようとしてるのかなー君たちは」
「あ、いや、違くて、まだ全然、そんなアレ的なことまではしてなくて」
ずかずかとこちらに歩み寄ってくる養護教諭に、しどろもどろな言い訳を語る。
憤然とこちらに近付いてくるお説教の気配に慄いていると、氷野川さんがその場でスッと立ち上がり、美しい礼を見せた。
「――高等部一年の氷野川詩乃と申します。クラスメイトの水瀬さんが体調を崩してしまったようでして。先生のお姿が見えなかったので、申し訳ありませんが休ませていただいておりました。今は息苦しくないよう、彼女の衣服を緩めていたところです」
淀みなく述べられる氷野川さんの説明に、養護教諭も機先を制されたようにその場で立ち止まっていた。
こちらに視線を移してきたので、私もこくこくと頷いておく。
何か追及を受ける前に、氷野川さんがまた口を開いた。
「私は担任の小林先生に経緯をお伝えしてきますので、水瀬さんの介抱は先生にお任せしてよろしいでしょうか」
「へっ? あ、ああ、うん。オーケー。任された」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします。水瀬さんも、お大事になさってください」
テキパキと荷物を拾って、氷野川さんは保健室を出て行ってしまった。
後に残された私は、いよいよ限界を迎えてベッドにボフッと倒れ込む。
…………あのまま止められなかったら、私は氷野川さんにどこまで求めてしまっていただろうか。
自分で自分が恐ろしくなり、枕に顔を埋めて「うぁああああっ‼︎」と喚いた。
当然、養護教諭からは「うっせえ!」と叱られたし、片方だけになった靴下はしばらく履き直す気になれなかった。
*
「……随分とご機嫌っすね」
自宅を目指して走る車の後部座席で、隣に座る護衛役の女子生徒が呟いた。
「何か良いことでもあったんすか?」
「良いこと……ええ、そうですね……とってもイイことでした……ふ、ふふ、ふ……」
本当に、暴走しそうになる欲望をよくぞ抑え込めたものだと、自分で自分を褒めてやりたいくらいだった。
まさか雫さんが、あそこまでなりふり構わず私を堕とそうとしてくるなんて。
未だ冷めやらぬ興奮に体が疼いて、身を焦がすような熱が吐息の中に混じる。
そんな私の様子を見て、護衛の少女――
「……なんか、普通にキツいっす。知り合いが発情してるとこ見んの」
「沈黙は金という言葉の意味を教えて差し上げましょうか」
いつまで経っても主人を敬う気持ちが芽生えないボディガードに、つい荒い言葉を吐いてしまう。
せっかくの雫さんとの触れ合いに水を差された気分になって、私は窓の外に視線を移した。
「……明日は休日ですか。数日とはいえ雫さんに会えないと思うと、寂しいものですね」
少し前まではそれが当たり前だったのに。
一度恋の味を知ってしまうと、問答無用で生活の中心が好きな人に占領されてしまうのだから不思議なものだ。
私がため息をついていると、隣で小鈴が小さく声を上げた。
「あんま浮かれ過ぎないでくださいよ。水瀬さんへの依頼が詩乃様の自作自演だってバレたら、付き合うどころじゃなくなりますからね」
「もちろん、わかってますよ」
心配そうな目で見てくる小鈴に、笑顔を向けて答えた。
確かに浮かれている自覚はあった。自分は初めての恋に浮かれ、雫さんとの駆け引きを楽しんでいる。
だけど最終的な目標は、あくまで雫さんに恋愛嫌いを克服してもらい、彼女の恋人の座に収まることだ。それを達成するまでは、決して油断はしない。
いつか正式に恋人と名乗れる日を、私があれこれ妄想していると――
「……だといいんすけどねぇ」
――小鈴は前を向いたまま、独り言のような声で呟く。
そのまま、私たちを載せた車は自宅の門を通り抜けていった。
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