第21話

日が傾き、部屋に夕闇が迫る頃、桜花おうか白虎びゃっこの膝の上で安らかな寝息を立てていた。その銀色の髪が、薄暮の光を浴びて淡く輝いている。日織ひおりは、穏やかな表情の桜花おうかを見つめながらも、その胸の内には深い懸念が渦巻いていた。


​「白虎びゃっこの症状は、やはりあの龍脈りゅうみゃく瘴気しょうきの影響か……」

日織ひおりが静かに呟いた。いつもの沈着さに、わずかな苦悩が混じる。


桔梗ききょうは、桜花おうかの様子から視線を外し、憂いを帯びた表情で日織ひおりを見やった。

​「そうだな。脳の機能に影響を及ぼすほどの、尋常ならざる瘴気しょうきであったと。しかも、その影響が今になって顕著に現れ始めたという点が、実に不可解よな」


白虎びゃっこは、その間延びした口調の裏に、時折、深い知性や観察力を垣間見せる。しかし、その記憶は曖昧で、言葉の端々には幼さが混じる。それは、龍脈りゅうみゃくの奥底で受けた瘴気しょうきが、白虎びゃっこの精神構造にまで深く刻み込まれてしまった証拠だった。


​「なぜ、これほどまでに影響が異なるのか、わしには理解できぬな……日織ひおりはどう考える?」

​「……大蛇オロチは、同じ瘴気しょうきに侵されながらも、今は完全に回復している。神に属する者 への影響の仕方が、何か鍵を握っているのかもしれぬ」


​静かに考察を続ける。大蛇オロチは、元来、禍を呼ぶ存在であり、瘴気しょうきそのものと共存しうる性質を持っていた。しかし、白虎びゃっこは清浄なる気を司る神獣。その肉体と精神が瘴気しょうきを受け入れ、変化してしまったこと自体が、常識では考えられない現象だった。


​「大蛇オロチ殿と白虎びゃっこ殿、そして桜花おうか殿では、根本的な存在のあり方が異なりますわ。大蛇オロチ殿は、瘴気しょうきを糧とする側面も持ち合わせておりました。しかし、白虎びゃっこ殿は……」

朱雀すざくは、言葉を選びながら、白虎びゃっこの清浄な本質を指し示す。


​「白虎びゃっこは、本来、瘴気しょうきとは相容れない存在だ。それが、これほどまでに脳の機能に影響を受けるとは、想像を絶する事態だ。肉体や精神に、我々の知り得ない変化が生じたのか……あるいは、皆を救うという、強い意志が、その身を瘴気しょうきに晒すことを可能にした、その代償なのか」

​深く息を吐いた。下界のことわりは、時に神々には理解しがたい形で作用する。


​「白虎びゃっこがこの先、完全に治るかどうか、今の我々には断言できぬ。だが、この計り知れない影響を及ぼした事態に対し、備えねばならぬ」


日織ひおりの眼差しが、部屋の奥、高天原の鳥居の先にある下界を見据える。

​「神々のことわりももっと柔軟にしていかねば。私自身も、地上で力を振るえるように、もっと下界について深く知らねばならぬ。そして、桜花おうか。この子が、いずれ日ノ本を救うために戦場へと行かねばならぬのなら……」


日織ひおりの視線が、眠る桜花おうかへと向けられた。その脳裏に、遠い昔、精霊の成り立ちから九尾の神として変化した桔梗ききょうのことが重なる。まるで、あの時の桔梗ききょうがそうであったように、桜花おうかもまた、神々が知り得なかった「新しいことわり」の体現者となるのかもしれない。


​「力の使い方を、正しく教えなければならない。ただの神威かむいの暴走としてではなく、その強大な力を、いかにして制御し、いかにして使うべきか。その道を、我々が示さねばならぬ」


桔梗ききょう朱雀すざくは、日織ひおりの言葉に深く頷いた。

​「わたくしも、桜花おうか殿のために、より一層尽力いたしますわ。この子が、下界のことわりと高天原のことわり、双方を理解し、その上で自らの力を振るえるように……」


朱雀すざくは、桜花おうかの小さな手に、そっと自身の掌を重ねた。そこには、ただ神としてではなく、母として、そして姉として、桜花おうかを支えたいという強い思いが込められていた。


​高天原の平和な日々は、もはや神々の安寧を保証しない。来るべき戦に備え、神々は、自らの在り方そのものを変革しようとしていた。



​その時、白虎びゃっこの膝で一緒に眠っていた桜花おうかが、ふいに目を開けた。その瞳は、まるで虚空を覗き込むかのように遠く、深く澄み渡っている。部屋にいる者たちの誰もが、その異様な雰囲気に息を呑んだ。


​「……来る。」

桜花おうかが、まだ幼い口で、たった一言だけ呟いた。その声は、これまで聞いたことのないほど冷たく、そして確かな響きを帯びていた。一同の間に、桜花おうかの雰囲気が急に代わったことで、言い知れぬ緊張が走った。


​直後、障子の外からけたたましい羽音が聞こえ、一羽の八咫烏やたがらすが部屋へと飛び込んできた。その姿は、まるで嵐に煽られたかのように荒々しい。


​「伝令! 緊急事態です、日織ひおり様!」

八咫烏やたがらすは、息も絶え絶えに叫んだ。

​「どうした、落ち着け!」

日織ひおりが、鋭い声で促す。

​「はっ! 下界の人里にて、謎の怪異が暴れ回っております! いずれの妖怪か、全く区別がつかないとのこと。異形の姿で、ただただ破壊を……人里が襲われておりますゆえ、一刻も早く!」

八咫烏やたがらすの言葉に、日織ひおりの表情は一変した。

「いずれの妖怪かも区別がつかないだと? どういうことだ!」


​高天原に、新たな危機が迫っていた。

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