第3話

 黒と金を基調とした着物きものすそが、風もない空間で静かに揺れる。九尾の妖狐、桔梗ききょうは、意識を失った少女おうかを腕に抱え、高天原たかまがはらへと足を踏み入れた。足元には、綿雲わたぐものように広がる白い大地。頭上には、常に真昼の輝きを放つ、神代かみよの太陽。そこは、日ノ本の八百万やおよろずの神々が住まう、神聖なる場所。人の世のけがれとは無縁の、清浄せいじょうなる世界だ。


 桔梗ききょうの周囲には、ほのかな光の粒子が舞っていた。精霊たちが瘴気しょうきに侵された少女の身体を心配し、高天原たかまがはらの神聖な気がゆっくりと浄化していく。だが、それはあくまで表面的なものに過ぎない。魂の奥底まで深く根を張った瘴気しょうきを完全に消し去ることは、この清浄な気をもってしても不可能だった。


 やがて、桔梗ききょうの視界の先に、壮麗そうれいな宮殿が現れた。それは、この高天原たかまがはらを統べる、太陽の女神、天照大御神あまてらすおおみかみが住まう、日嗣ひつぎの宮。その広間へと足を進める桔梗ききょうの姿は、神々にとって見慣れたものだった。


 かつて高天原たかまがはらには、神々自身の神威かむいに満ちていたが、まだ地上創造される前、多様な生命体としての懸念は存在しなかった。しかし、そこには、神々とは異なる、「精霊」 と呼ばれる存在たちが漂っていた。彼らは、明確な形を持たず、世界の根源的な摂理せつりそのもののような存在であった。


 精霊たちは、イザナギとイザナミによる国生みの壮大な営みを、ただ「観測かんそく」していた。 彼らの視覚や聴覚は、神々のように限定されたものではなく、世界のあらゆる側面を、 根源的な「感覚」として捉えていた。島々が生まれ、海が広がり、山々が天を衝くつく。そして、その大地に、やがて多様な生命が芽生えるであろうことを、精霊たちは予感していた。

 特に、精霊たちが強く感じ取ったのは、地上に生まれるであろう「動物」という存在が持つ、予測不能な力であった。


 それは、神々が「ことわり」や「秩序」をもって創造する論理的な世界とは異なる、「本能」「感情」「生存への執着」といった、理屈を超えた根源的な「野生」の力。精霊たちは、この野生の力が、いずれ神々の秩序にゆがみをもたらす可能性を、漠然とした「懸念」として習得していった。

 神々が、世界の「普遍的なことわり」を創造しようとすればするほど、そのことわりの外側に生まれるであろう「例外的な力」の存在が、精霊たちの感覚には鮮明に映ったのだ。その精霊たちの中でも、最も古く、最も根源的な存在が、後に桔梗ききょうと呼ばれる存在であった。


 彼女は、国生みの初期段階、まだ地上に具体的な動物がほとんど存在しない頃に、一つの決断を下した。精霊たちが習得した「動物のカタチ」への懸念と予感、そして世界の多様性への強い興味、さらには、世界の均衡きんこうを護るという根源的な使命感が、彼女を突き動かした。

 神々の「ことわり」だけでは、いずれ世界の全てを護りきれない。その未来を予感した桔梗ききょうは、 自らの根源的な神威かむいを使い、変性へんじょうを遂げることを選んだ。


 それは、神々が定めたことわりの枠を超え、自ら異質な存在となること。そして、桔梗ききょうが選んだ姿は、数多の動物の原型の中から、最も知性と霊力に優れ、変幻自在の能力を持つ「九尾」。進化の最終段階、動物の果て、妖であった。

 自らの意思で九つの尾を持つ妖狐の姿へと変化した桔梗ききょうは、高天原たかまがはらで最初に、そのような姿を獲得した稀有(けう)な存在となった。



 ――宮殿の広間には、すでに天照大御神あまてらすおおみかみ日織ひおりが待っていた。陽光をそのまま髪に宿したような、長い金色の髪。見る者全てを慈愛じあいで包み込むかのような、神々しい微笑み。だが、その瞳の奥には、どこか憂いが宿っている。


 日織ひおりの隣には、夜と月を司る、静謐(せいひつ)な美貌の神、月読命つくよみが控えていた。そして、日織ひおり眷属けんぞくである漆黒の八咫烏(やたがらす)が、その肩に止まり、静かに桔梗ききょうの到着を見守っていた。


桔梗ききょう、よく戻った」


 日織ひおりの声は、普段と変わらぬ穏やかさだったが、その視線は、桔梗ききょうが抱える少女(桜花おうか)に注がれていた。


「その娘が、報告にあった……」

「うむ」


 桔梗ききょうは短く応じ、少女を抱えたまま、日織ひおりの前に歩み寄った。広間の中心に敷かれた、天界の絹のような白い絨毯の上に、ゆっくりと少女を横たえる。

 少女の肌は、まだわずかに青白いが、深い眠りについているかのように穏やかだ。しかし、その小さな体からは、人間のものではない、微かな妖気が漂っていた。それは、桔梗ききょうが与えた、自身の力の一部。

 月読命つくよみが、眉をひそめた。


「九尾(くび)の妖狐の気配……。まさか桔梗ききょう、貴様、この娘を眷属けんぞくとするだけでなく、自身の力を分け与えたのか?」


 月読命つくよみの声には、隠しきれない動揺と、わずかな非難の色が滲んでいた。神々の世界において、人が妖となること、あるいは妖が人となることは、厳然げんぜんたる「ことわり」によって定められている。それを、強大な力を持つ妖が、恣意的に介入し、改変することは、世界の秩序を乱す、重大な禁忌とされていた。


 日織ひおりもまた、その神々しい微笑みを失い、真剣な面持ちで桔梗ききょうを見つめていた。その金色の瞳には、困惑と苦悩が浮かんでいる。


桔梗ききょう……なぜ、そのようなことを……。この娘は、まだ人の身であったはず。確かに、瘴気しょうきに侵され、魂は消滅寸前であったと報告は受けた。だが……」


 日織ひおりは、言葉を選びながら、静かに桔梗ききょうに問いかけた。彼女の心には、人のことわりから外れ、本来妖でもないものに強大な力を分け与えたことが、世界の秩序にどのような影響を及ぼすかという懸念が渦巻いていた。


 桔梗ききょうは、日織ひおりの視線を真っ向から受け止め、一切の動揺を見せず、冷徹な声音で応じた。


日織ひおりよ。あのままでは、この子の魂は消滅していた。そなたの与えた浄化の権能をもってしても、な」


 桔梗ききょうの言葉には、皮肉にも似た響きがあった。彼女は、日織ひおりの命に従い、与えられた権能を用いた。しかし、その神々の力が、目の前の少女を救うには至らなかった。


「浄化の権能は、けがれを払うもの。だが、この子の魂は、もはや瘴気しょうきそのものと一体化していた。浄化すれば、魂ごと砕け散る。それでは、そなたが言う『救う』ことにはならぬ」


 桔梗ききょうの言葉は、揺るぎない確信に満ちていた。日織ひおりは、その反論に言葉を失う。桔梗ききょうの判断が、当時の状況において最善であったことは、彼女も理解できた。しかし、その結果が、新たな「ことわり」の外れた存在を生み出したという事実に、神としての責任と困惑を感じざるを得なかった。


「だが、桔梗ききょう。人の魂に手を出し、そのことわりを変えることは、大いなる禁忌。それは、お主も、あの時……理解したはずだ」


 日織ひおりの言葉が、桔梗ききょうの心に鋭く突き刺さった。「あの時」という言葉は、桔梗ききょうにとって、決して触れてはならない深い傷であり、日織ひおりとの間に横たわる、因縁の象徴だった。


 桔梗ききょうの瞳の奥に、一瞬、激しい怒りの炎が揺らめいた。だが、彼女はそれを抑え込み、冷ややかな笑みを浮かべた。


「うむ。確かにあの時も、そなたはそう言ったな」


 その声には、日織ひおりへの静かな怒りと、深い諦念(ていねん)が込められていた。

 桔梗ききょうの視線が、遥か昔の記憶へと飛ぶ。 九重 秋人ここのえ あきひと桔梗ききょうが唯一愛した、人の陰陽師。 彼の命が尽きようとしていたあの時、桔梗ききょうは、日織ひおりの「人の魂に手を出すな」という厳然げんぜんたる「ことわり」に囚われ、秋人を眷属けんぞくとすることを許されなかった。その結果、秋人は、桔梗ききょうの腕の中で、人としての生を終えた。 あの時の後悔が、今も桔梗ききょうの心を抉(えぐ)る。


「だから……だから、あの時、儂は、秋人を助けることが叶わなかったのだ」



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