第4話

「だから……だから、あの時、儂は、秋人あきひとを助けることがかなわなかったのだ」


桔梗ききょう声音こわねが、わずかに震えた。普段の冷徹れいてつな彼女からは想像もつかないほど、感情がにじみ出ていた。月読命つくよみが、その言葉に驚き、日織ひおりへと視線を向けた。月読命つくよみもまた、桔梗ききょう日織ひおり、そして九重 秋人ここのえ あきひとの間にあった因縁いんねんの一部を知っていたからだ。


日織ひおりは、桔梗ききょういたましい言葉に、深く目を閉じた。彼女もまた、あの時のことを忘れたことなど一度もない。桔梗ききょうの心が、今も深く秋人あきひとの死に囚われていることを、日織ひおりは痛いほど理解していた。しかし、神としての「ことわり」は、個人の感情を許容しない。


桔梗ききょう……秋人あきひとのことは、我も苦しかった。だが、それは、この世界のことわりであったのだ。人は、人として、定められた生を終える。それは、神と妖とて同じこと。そのことわりを曲げれば、世界そのものがゆがむ」


日織ひおりは、苦しげに、しかし毅然きぜんとした声で語った。彼女にとって、世界の秩序とことわりを保つことは、神としての絶対的な使命だった。個人の悲しみや後悔を乗り越え、その使命をまっとううすることが、彼女の存在意義そのものだった。


ことわりことわりことわり……。そなたはいつも、そう言うな」


桔梗ききょうは、日織ひおりの言葉を遮った。その瞳は、怒りに燃えながらも、どこか哀しみを帯びていた。


「しかし、そのことわりとやらが、目の前の命を救えぬとあらば、そのことわりに、何の意味があるというのだ? 儂は、この子を助けた。そなたが言う『禁忌きんき』を犯して、な」


桔梗ききょうは、そう言い放つと、眠る少女おうか眠る少女へと視線を落とした。彼女の体から漂う妖気は、確かに不安定だ。人のことわりから外れ、妖のことわりにも完全に染まりきらない、宙ぶらりんな存在。しかし、その小さな命は、確かにそこに存在している。


「この子から、瘴気しょうきを完全に排除し、魂を砕かずに救う道は、これしかなかった。この子が、儂の眷属けんぞくとなったことで、その魂は、妖のことわりに属する。もはや、そなたの『人の魂に手を出すな』ということわりからは外れた存在だ」


桔梗ききょうは、日織ひおりへと挑戦的な視線を送った。


「そなたは、この子の命を救えなかった。儂は、この子を救った。それが、神のことわりと、儂のことわりの差、というわけだ」


その言葉は、日織ひおりの心の奥底に、深い動揺を巻き起こした。桔梗ききょうの言葉は、彼女の神としての存在意義を問う、あまりにも重い問いかけだった。

月読命つくよみが、二柱(ふたはしら)の間に漂う緊迫した空気に、静かに口を挟んだ。


桔梗ききょう。しかし、その娘に力を分け与えたとはいえ、九尾の妖狐の眷属けんぞくとなるには、あまりにも未熟な魂だ。まして、人の身であったものが、急激な変容に適応できるものなのか?」


月読命つくよみの問いは、冷静かつ的確だった。桔梗ききょうが与えた力は強大だが、少女の魂がそれに耐え、完全に妖として安定するかは、未知数だった。無理な変容は、魂の崩壊を招く危険性もはらんでいる。

桔梗ききょうは、少女の額にそっと触れた。


「うむ。この子の魂は、確かに不安定だ。肉体は、瘴気しょうきを排出したが、妖としての覚醒には時間がかかるだろう。何より、この子自身が、自らが人ならざるものとなったことを、受け入れる必要がある」


桔梗ききょうの表情は、一瞬、憂いを帯びた。


「では、どうするつもりだ? この娘を、この高天原たかまがはらに置くわけにはいかぬ。そして、人の世に放つこともできまい」


月読命つくよみの言葉は、もっともだった。人のことわりから外れた存在を高天原たかまがはらに置けば、その清浄なる気そのものが乱されかねない。かといって、人の世に放てば、その存在が新たな混乱の元となるだろう。


「この子を、妖として完全に覚醒させ、その力を安定させる必要がある。そして、この子自身の生きる道を示さねばならぬ」


桔梗ききょうは、静かに語った。


「そのためには、まず、この子の意識を完全に回復させる必要がある。そして、儂が、この子の力を導き、育んでいかねばならぬ」


日織ひおりは、その言葉を聞き、深く息を吐いた。


桔梗ききょう……それは、お主が、この娘を己の眷属けんぞくとして、生涯面倒を見る、ということか?」


日織ひおりの問いには、桔梗ききょうへの信頼と、同時に、彼女の行動がもたらすであろう未来への懸念が入り混じっていた。


「うむ。儂が助けた命。儂が責任を持つ」


桔梗ききょうの言葉に、一片のまよいもなかった。 しかし、その責任は、想像以上に重いものになるだろう。人のことわりを捨てた少女の魂が、どのような道を歩むのか。そして、その存在が、この世界のことわりに、どのような影響を及ぼすのか。 日織ひおりの心には、新たな不安が、静かに波紋を広げていた。


「……桔梗ききょう。お主が、この娘に分け与えた力……それは、我らが授けてきた、力の叡智叡智、『神威かむい』を、どれほど宿しておるのだ?」


日織ひおりの声は、静かだったが、その問いには深い緊張が滲んでいた。 桔梗ききょうが持つ力は、単純に言えば、世界を滅ぼせるほどの神々の力の集合体だ。神々はそれぞれが特定の権能けんのう神威かむいに特化しているが、桔梗ききょうは気が遠くなるほどの年月をかけ、八百万の神々から与えられた神威かむい、それらを掛け合わせた「万象の礎(いしずえ)」の権能けんのうを独自に昇華しょうかさせてきた。その結果、個々の神々の力を凌駕りょうがする状態に達している。やろうと思えば、ことわりなど簡単にねじじ曲げ、結果を操作することさえ可能。日織ひおりが、長年の信頼から、桔梗ききょうだからこそ授けてきた強大な力だった。

桔梗ききょうは、日織ひおりの懸念を理解していた。だからこそ、えて静かに、その真実を告げた。


「この子の魂を、瘴気しょうきから完全に引き離し、かつその存在を保つためには、並大抵の力では不可能であった。故に、儂は……」


桔梗ききょうは、眠る名も知らぬ少女(桜花おうか)に視線を落とし、いつくしむようにその額に手を置いた。


「儂が持つ、全ての権能けんのうの種を、この子に授けた」



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