第2話
「……まさか、これほどの瘴気であったとは……もう少し早ければ、この者達を救えたものを。申し訳ない」
そう呟きながら、瘴気に汚染された少女を庇うように立ち塞がる。その目の前には、狂気に染まった男が、棒を振り上げたまま立ち尽くしている。
「……お父、さん……」
その、ひどくかすれた一言が、九尾の動きを一瞬だけ止めた。
「……なんと、
その体は瘴気に侵され、まるで獣のように歪んでいる。錆びた鉄棒を振り回し、常人ではありえぬ速度で地を蹴り、
「ぐギャィイイイア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッッ!!!」
狂気の
「
舌打ち一つ。その隠されていた九本の尾が瞬時に展開し、まるで壁のように少女を囲む。激しい連撃が尾に叩きつけられるが、びくともしない。しかし、これでは
「……終わりにするぞ、哀れな魂よ」
そう呟くと、神々から与えられたその力――
その全身から光が溢れ、空間そのものが歪むような錯覚を覚える。残像を残しながら一瞬で男の懐に飛び込むと、圧倒的な速度で繰り出される無数の打撃が、男の体を的確に捉えた。
男は抵抗する間もなく宙を舞い、最後に放たれた鋭い一閃が、その首を呆気なく跳ね上げた。
それは、娘を襲おうとした父の、あまりに哀しい最期だった。
―その光景を、
—意識が途切れた少女の小さな体は、瘴気によって汚染され、ぴくりとも動かない。
今、少女を襲おうとした男を手にかけたばかり。だが、この場で少女を見捨てる選択肢は、
「……これほどの
その全身から、太陽の光にも似た、神聖な光が溢れ出す。その力を少女の小さな体へと注ぎ込んだ。
浄化の光が、少女の体内へと浸透していく。
体中にこびりついた瘴気を、一つ残らず焼き尽くそうと、光が激しく
その瞬間―。
「――っ、あ、あ、あああぁぁぁああああっ!!」
少女の口から、獣のような、凄まじい叫び声が迸った。それは、魂の奥底から絞り出されるような、純粋な「苦痛」の叫び。
肉体が、激しく
浄化の光が、瘴気を焼き払うどころか、既に深く侵食されきった魂そのものまで、根こそぎ破壊しようとしているのだ。
「……この小さな体で、よくぞこれほどの瘴気に、耐え続けていたものよ」
しかし、この少女の魂は、瘴気によって、ほとんどその全てを侵食され尽くしていた。
このまま浄化を続ければ、瘴気と共に、少女の魂までもが砕け散り、跡形もなく消滅してしまうだろう。
「……これでは、魂ごと少女を失う……このままでは、救えぬ……神の理だけでは、この子を救えぬのだな」
桔梗の脳裏に、一つの選択肢がよぎった。
それは、神の理からすれば、
苦渋の表情で、自らの心に問いかける。
救うべきは、人間としての少女の魂か。
あるいは、人間性を捨ててでも、少女の「存在」そのものか。
否、
「……済まぬな、小娘。だがこれも、お前を救うため。
そこは、血と炎に包まれた戦場だった。
桔梗は、
男の顔は血がこびりつき、苦痛に歪んでいる。しかし、その瞳だけは桔梗を真っ直ぐに見つめ返していた。
その男の名は、
かつて、桔梗が深く愛した陰陽師。
「……私は……幸せ、だった……」
たった一言。しかし、その声はかすれていながらも、どこまでも穏やかで、安堵に満ちていた。
その言葉が、桔梗の心臓を強く締め付ける。
「秋人……! 嫌だ、 逝くな……! 儂が、儂がお前を
桔梗の声は、悲痛な叫びとなった。その力を持ってすれば、重傷を負った秋人を眷属とし、妖として生きながらえさせることも可能だったはず。だが、日織から告げられた厳然たる「理」が、彼女の行動を縛っていた。
「桔梗よ、人の魂に手を出すな。それが、この世界における神の
その言葉が、桔梗の心を抉る。
桔梗はあの時、その理に囚われ、最も愛する者を救うことができなかった。
「…最期まで……人として……逝きたい……泣く、な……お主の……笑顔、が…見たい……」
秋人の指が、桔梗の頬に触れる。その手が、まるで枯れ葉のように、ゆっくりと落ちていく。
秋人の瞳が、閉じられる。
安らかな、微笑みを浮かべたまま。
彼の魂は、桔梗の腕の中で、静かに消滅した。
桔梗は自身の妖としての本質、純粋な自らの力の根源を、桜花の体に注ぎ込んでいく。それは、九尾の妖狐が持つ、根源的な「変質」の力。 古の時代より、妖が人の姿を得るように、あるいは、人が妖へと変じるように。
光が、少女の全身を包み込む。
肉体が、ぐにゃりと、粘土のように形を変え始める。骨が軋み、皮膚が、まるで汚染された箇所が古い抜け殻のように剥がれ落ちていく。
それは、この世のものとは思えない、おぞましい変容の光景だった。
しかし、その表情は、先ほどの苦痛に満ちたものではない。
むしろ、その苦しみは、徐々に和らぎ、代わりに、少女の顔は、安らかな、眠りに落ちた赤子のような表情へと変化していく。
桔梗は、変質していく少女を、まるで慈愛に満ちた母のように、静かに見守っていた。
そして、ゆっくりと、しかし、断固たる決意の宿った声で、呟いた。
「――その魂、
それは、絶望の
ここに、九尾の妖狐の理に染まった、新たな存在が誕生した。
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