第2話

高天原たかまがはらの最高神、天照大御神あまてらすおおみかみの命を受け、この地の瘴気しょうきを調査するために駆けつけた、その九尾――桔梗ききょうは、変わり果てた町と、その中心で力尽きようとしている少女の姿を発見した。


​「……まさか、これほどの瘴気であったとは……もう少し早ければ、この者達を救えたものを。申し訳ない」


​そう呟きながら、瘴気に汚染された少女を庇うように立ち塞がる。その目の前には、狂気に染まった男が、棒を振り上げたまま立ち尽くしている。


桔梗ききょうは迷いなく、世界の理から外れてしまった、人であったものに手を向けた。しかし、その手が振り下ろされる寸前、少女が力なく口を開いた。


「……お父、さん……」


​その、ひどくかすれた一言が、九尾の動きを一瞬だけ止めた。


桔梗ききょうは、少女の方を振り返ると、その瞳に初めて、深いあわれみと、そして、やるせなさを宿した。


「……なんと、むごたらしいことか」


桔梗ききょうの目が、狂気に染まった父を捉えた。

その体は瘴気に侵され、まるで獣のように歪んでいる。錆びた鉄棒を振り回し、常人ではありえぬ速度で地を蹴り、瓦礫がれきを足場に跳躍ちょうやくする。躍起やっきにこの少女を狙ってくるため、かばいながらでは迂闊うかつに動けない。


​「ぐギャィイイイア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッッ!!!」


​狂気の咆哮ほうこうと共に、男の振り下ろした鉄棒が、少女の頭上へと迫る。桔梗は腕一本でその一撃を受け止め、キィンと金属めいた音を響かせた。衝撃で体がわずかに傾く。その隙を突き、男はさらに速度を上げ、前後左右から、まるで桔梗を見ていないかのように、躍起に少女に向けて攻撃を繰り返す。


​「わしの事などお構い無しか……鬱陶しい」


​舌打ち一つ。その隠されていた九本の尾が瞬時に展開し、まるで壁のように少女を囲む。激しい連撃が尾に叩きつけられるが、びくともしない。しかし、これではらちが明かない。


​「……終わりにするぞ、哀れな魂よ」


​そう呟くと、神々から与えられたその力――神威かむい権能けんのうを解放した。


その全身から光が溢れ、空間そのものが歪むような錯覚を覚える。残像を残しながら一瞬で男の懐に飛び込むと、圧倒的な速度で繰り出される無数の打撃が、男の体を的確に捉えた。

男は抵抗する間もなく宙を舞い、最後に放たれた鋭い一閃が、その首を呆気なく跳ね上げた。


​それは、娘を襲おうとした父の、あまりに哀しい最期だった。


​―その光景を、朦朧もうろうとした意識の中で見た桜花は、最後に、目の前の妖狐の、あまりに冷たく、そして、あまりに美しい横顔を、じっと見つめていた。そして、その意識は、そこで、ぷつりと途切れた。


—意識が途切れた少女の小さな体は、瘴気によって汚染され、ぴくりとも動かない。


今、少女を襲おうとした男を手にかけたばかり。だが、この場で少女を見捨てる選択肢は、桔梗ききょうにはなかった。


天照大御神あまてらすおおみかみからの命は、この地の瘴気汚染の調査と、もし可能であればその浄化。そして、けがれた魂を救うこと。この少女は、まだかろうじて人の意識を保っていた者。


​「……これほどの瘴気しょうきに侵されているとはな。早急に浄化せねば、魂そのものが消滅してしまう」


桔梗ききょうは、自身の浄化の権能けんのうを解放した。

その全身から、太陽の光にも似た、神聖な光が溢れ出す。その力を少女の小さな体へと注ぎ込んだ。

浄化の光が、少女の体内へと浸透していく。

体中にこびりついた瘴気を、一つ残らず焼き尽くそうと、光が激しく脈動みゃくどうした。

​その瞬間―。


​「――っ、あ、あ、あああぁぁぁああああっ!!」


​少女の口から、獣のような、凄まじい叫び声が迸った。それは、魂の奥底から絞り出されるような、純粋な「苦痛」の叫び。


肉体が、激しく痙攣けいれんし、全身の血管が、皮膚の下で醜く浮き上がる。

濡羽色ぬればいろの髪は逆立ち、顔は苦痛に歪み、その瞳から、血の涙が零れ落ちた。


浄化の光が、瘴気を焼き払うどころか、既に深く侵食されきった魂そのものまで、根こそぎ破壊しようとしているのだ。


​「……この小さな体で、よくぞこれほどの瘴気に、耐え続けていたものよ」


桔梗ききょうは、浄化の権能けんのうを止める。神の力による浄化は、魂がまだ世の理から外れていない、すなわち完全に穢れきっていない場合にのみ有効。

しかし、この少女の魂は、瘴気によって、ほとんどその全てを侵食され尽くしていた。

このまま浄化を続ければ、瘴気と共に、少女の魂までもが砕け散り、跡形もなく消滅してしまうだろう。


​「……これでは、魂ごと少女を失う……このままでは、救えぬ……神の理だけでは、この子を救えぬのだな」


​桔梗の脳裏に、一つの選択肢がよぎった。

それは、神の理からすれば、禁忌きんきとも言える、あまりにも非道な選択。だが、この少女を救うための、唯一の道。

眷属けんぞくを創った経験など、一度たりともない。しかし、この子を救いたい、この一心だけが、桔梗を突き動かした。


苦渋の表情で、自らの心に問いかける。

救うべきは、人間としての少女の魂か。

あるいは、人間性を捨ててでも、少女の「存在」そのものか。

否、天照大御神あまてらすおおみかみの命は「救うこと」。そして、目の前の、まだ救えるかもしれない命を失うわけにはいかない。


桔梗ききょう瞳が、深く、しかし、決意に満ちた光を宿した。


「……済まぬな、小娘。だがこれも、お前を救うため。天照大御神あまてらすおおみかみ……日織ひおりの理に囚われるわけにはいかぬのだ」


天照大御神あまてらすおおみかみをそう呼んだ桔梗ききょうの視界が一瞬歪み、眼前の少女の姿が別の存在と重なる。

​そこは、血と炎に包まれた戦場だった。


​桔梗は、満身創痍まんしんそういの男を、まるで壊れ物を抱きしめるように、そっと腕に抱えていた。

男の顔は血がこびりつき、苦痛に歪んでいる。しかし、その瞳だけは桔梗を真っ直ぐに見つめ返していた。


​その男の名は、九重秋人ここのえ あきひと

かつて、桔梗が深く愛した陰陽師。


​「……私は……幸せ、だった……」


​たった一言。しかし、その声はかすれていながらも、どこまでも穏やかで、安堵に満ちていた。

その言葉が、桔梗の心臓を強く締め付ける。


「秋人……! 嫌だ、 逝くな……! 儂が、儂がお前を眷属けんぞくにしてやる! このままお前を失うことなど……!」


​桔梗の声は、悲痛な叫びとなった。その力を持ってすれば、重傷を負った秋人を眷属とし、妖として生きながらえさせることも可能だったはず。だが、日織から告げられた厳然たる「理」が、彼女の行動を縛っていた。


​「桔梗よ、人の魂に手を出すな。それが、この世界における神のことわり​ぞ。」


その言葉が、桔梗の心を抉る。

桔梗はあの時、その理に囚われ、最も愛する者を救うことができなかった。


「…最期まで……人として……逝きたい……泣く、な……お主の……笑顔、が…見たい……」


​秋人の指が、桔梗の頬に触れる。その手が、まるで枯れ葉のように、ゆっくりと落ちていく。

秋人の瞳が、閉じられる。

​安らかな、微笑みを浮かべたまま。

彼の魂は、桔梗の腕の中で、静かに消滅した。


桔梗ききょうの胸に、拭いきれない深い後悔と、日織の「理」への、静かな、しかし根深い怒りが、再び込み上げてくる。

桔梗は自身の妖としての本質、純粋な自らの力の根源を、桜花の体に注ぎ込んでいく。それは、九尾の妖狐が持つ、根源的な「変質」の力。 古の時代より、妖が人の姿を得るように、あるいは、人が妖へと変じるように。


​光が、少女の全身を包み込む。

肉体が、ぐにゃりと、粘土のように形を変え始める。骨が軋み、皮膚が、まるで汚染された箇所が古い抜け殻のように剥がれ落ちていく。


それは、この世のものとは思えない、おぞましい変容の光景だった。

しかし、その表情は、先ほどの苦痛に満ちたものではない。

むしろ、その苦しみは、徐々に和らぎ、代わりに、少女の顔は、安らかな、眠りに落ちた赤子のような表情へと変化していく。


​桔梗は、変質していく少女を、まるで慈愛に満ちた母のように、静かに見守っていた。

そして、ゆっくりと、しかし、断固たる決意の宿った声で、呟いた。


​「――その魂、わしが与ろう」


​それは、絶望のふちにあった少女を救うための、あまりに無慈悲な慈悲であった。

ここに、九尾の妖狐の理に染まった、新たな存在が誕生した。


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