第11話
その年の始まりは、新しい年を祝うかのような快晴が続いた。しかし、防音室に日夜籠る優は、そんな一年の始まりに気づかない。分厚い吸音材に四方を囲まれた空間は外気から隔絶され、息苦しいほどに空気が淀んでいる。
冬休みが始まってからは、慎二の家で過ごした二日間以外、ほとんどの時間をここで過ごしていた。貯金を下ろして買った高性能マイクと、ノートPCの液晶が放つ冷たい光だけが、優の冬休みだった。
転校初日に、梨花に背中を押され人前で歌った、あの瞬間。声という「檻」から初めて解き放たれた時のあの感覚を、何度も思い出していた。この冬休みは、何かに憑かれたように歌い続けている。この小さな防音室を根城にして、ただひたすらに。
J-POPのヒットチャートを彩るラブソング。遠い異国のオペラ・アリア。教会の静寂を思わせる宗教曲。両親が口ずさんでいた、古い洋楽。手当たり次第の無差別に、様々な楽曲を歌う。優の身体は自宅の狭い防音室に在ったが、その精神は、多種多様な楽曲の世界を飛び回っていた。
手当たり次第な様でいて、個々の楽曲への理解と表現は、常人には理解し難い深さだ。以前、父や木下先生に聞かせた初めての一曲と同様に、優はそれらの楽曲の世界を、五感で体感していた。そして、もしもその喉から発せられる歌声を聴かせたならば。誰もが、耳から視える、感じる、匂う、味がする……といった共感覚を体験しただろう。
録音された自身の歌声は、ノートPCのスピーカーを通してもなお、あの形容し難い響きを持っていた。十歳にも満たない幼い声が、そのまま成熟したような。その声を、彼は自身のYoutubeチャンネルへと、淡々とアップロードし続けた。
最初に訪れた変化は、さざ波のようだった。
投稿した動画の再生数が、ゆっくりと、しかし確実に動き出す。SNS上で、名前も知らない誰かが呟いていた。
『とんでもなく上手い、謎の歌い手を見つけた。アカウント名は"You"。こいつ、一体何者なんだ?』
その短いポストが、別の誰かによって拡散されてゆく。
『ただの「歌ってみた」だと思って油断したら、涙が出てきた。一度聴けば、胸を鷲掴みにされる』
『とにかく、声がヤバい。人間の声とは思えない。天使の歌声ってやつ? もう何でもいいから、とりあえず聴いてみて!』
再生数のカウンターが、日を追うごとに回転を速めていく。百が千になり、千が万を超えてゆく。しかしそれは、優にとって現実感のない、画面越しの数字の羅列に過ぎなかった。
コメント欄に、ぽつり、ぽつりと感想が灯り始めるまでは。
『仕事で疲れてたけど、聴いてたら母さんが作ってくれる味噌汁の味を思い出して、涙が出てきた。ありがとう』
『失恋したばかりだった。まるで、彼が目の前にいるように思えた。彼と抱き合った時の感触まで感じた』
『もっと貴方の歌が聴きたい。次は、あの曲を歌ってほしい』
最初は日本語でのコメントだった。見知らぬ誰かが、自分の歌を聴いて、何かを感じてくれている。その事実だけで、胸が熱くなる。
しかし、次の日には、その景色は一変していた。
英語、スペイン語、中国語、韓国語。見慣れない言語の羅列が、コメント欄を埋め尽くしてゆく。優はブラウザの翻訳機能を使いながら、その1つ1つを、震える指で辿った。
「I can't believe this is a human voice. It sounds like an angel singing.」
(これが人間の声だなんて信じられない。まるで天使が歌っているようだ)
「Esta canción trata sobre mi ciudad natal, pero nunca la había oído cantar con tanta emoción. ¿Quién eres? ¿Eres de mi mismo lugar?」
(この歌は私の故郷を歌っているけど、こんなに感情を込めて歌ったのは初めて聴いた。あなた誰なの? 私と同郷?)
「我聽不懂歌詞,但我能感受到你的歌想要表達的悲傷,這讓我心痛不已。」
(言葉は分からない。でも、あなたの歌が表現したい悲しみは伝わってきて、胸が苦しくなった)
「이 곡은 여러 번 듣고 있다. 일본의 유명한 J-POP군요. 그러나 원곡보다 당신의 노래 목소리가 더 마음에 울립니다.」
(この曲は何度も聴いてる。日本の有名なJ-POPだよね。でも、原曲よりも貴方の歌声のほうが、もっと心に響くよ)
優は、ノートPCの画面をただ見つめていた。画面が、ぼやけて滲む。熱い雫が、キーボードの上に落ちた。
――繋がった。歌うことで、世界と繋がれた。
この呪わしい声は、優を世界から隔てる「檻」だった。他者と話したい、思いを伝えたい。そう願うたびに、この声が自分は異質な存在だと思い知らせ、他者との間に見えない壁を作ってきた。
それが今や、どうだろう。この声は歌を乗せて、国や言葉の違いを飛び越えて、見知らぬ誰かの胸に届いている。顔も知らない人々が、優の歌を聴き、心を動かされ、温かい言葉を返してくれている。
この小さな防音室に閉じこもっている自分でも、歌を介すれば、世界中の人と繋がることができる。息苦しい日常生活では決して伝えられなかった自分の思いを、歌に乗せれば、伝えることができるんだ。
優は、頬を伝う涙を拭うことも忘れ、次々と流れてくる新しいコメントを、夢中で追い続けていた。
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