第2話

 学校から程近いチェーン店のカラオケボックスは、肌寒いくらいに空調が効いていた。壁には煙草の匂いと、それを掻き消すための消臭剤の匂いが染み付いている。エアコンが吐き出す冷気には湿気が混じり、少しかび臭い。そんな部屋の空気の中で、真由美はカラオケを楽しむ気にはなれなかった。


 優を連れてきたのは、少々浅はかだったのではないか。慎二が優を誘ったのは純粋な好意からだったが、真由美は別の憶測をしていた。梨花にはまだ知らせていなかったが、真由美と慎二は、恋人として付き合い始めたばかりだった。そんな中、三人で遊びに行くのは後ろめたい気がして、梨花を一人にさせないように、優を誘ったのではないか。

 

 氷が溶けて薄まったアイスティーを一口飲んだ後、真由美はため息をついた。優を誘ったのはそんな身勝手な理由かもしれないのに――慎二は優のことは気にも止めず、好きな曲ばかり熱唱している。


(……シンジの悪い癖だ。無邪気に誰彼構わず誘うけど、好きな曲に夢中で周りが見えなくなる。もうちょっと、ユウ君に気遣いがあっても良いじゃない)

 

 真由美は付き合い始めたばかりの恋人を、非難げに見つめる。

 

(……カラオケに行くのが生まれて初めてなユウ君には、この場はちょっと酷なんじゃないの?……自慢じゃないけど、シンジと私は合唱部で鍛えてきた土台もあって、かなり上手い部類に入ると思う。バンドでボーカルやってる梨花なんて、プロを目指しても不思議じゃないくらいだ。そんな三人が本気で歌う中の人生初カラオケなんて、私だったら絶対に歌いたくない)

 

 真由美は、硬い表情で慎二の歌を聴いている優に視線を向けた。

 

(もうちょっと、ユウ君に気を配ってあげられないの?……ノリの良い曲で盛り上げるとか、一緒に歌える曲を選んで誘ってあげるとかさぁ)


 一方、優は優なりにこの場を楽しんでいた。三人が熱唱する姿を見るのは楽しかった。特に梨花の歌声は、Youtubeで見聞きするアーティストのそれと、ほとんど変わらないように思えた。


(……「歌」って、良いな)


 この場の空気は、昼食時の会話で感じた疎外感とは、真逆だった。言葉を発しなくても、歌い手の感情を、楽曲を通じて共有することができる。歌を触媒に、三人の思いを感じ取ることができる。歌とは、なんて豊かで、優しいコミュニケーションなんだろう。


 そんな感慨に耽る優へ、梨花が声をかけた。


「ユウ君、まだ一度も歌ってないよね?……うん、わかる。最初はめちゃめちゃ緊張するよね!ねぇ、良かったら一緒に歌わない?ユウ君が知ってる曲の中から、歌い易い曲を選ぶよ!知ってる曲とか、歌ってみたい曲を教えて?」


 優は少し戸惑った。聴いているだけで十分なのに――しかし、梨花の明るい声からは、痛いほど優しさが伝わってくる。彼女の目には、人生初のカラオケを楽しめていない様に見えているのだろう。何とか一緒に楽しめるようにと、気を遣ってくれているのだろう。その好意を無碍にするのは申し訳ない気がして、優は端末を操作し、最近よく聴く流行りの一曲を選んだ。その曲名を見た梨花は、ぱっと表情を明るくさせた。


「おぉー!それ、私も大好きな曲だよ!いいね、一緒に歌おうよ!私、ムダに声が大きいからさぁ、一緒に歌えば、きっと恥ずかしくないよ?」


 梨花は、優の返事を待たずにその曲をリクエストしてしまった。程なくしてギターリフで始まるイントロが流れ、優はマイクを手渡される。震える手でマイクを握り、メロディに合わせて歌おうとしたが――声は出ない。自分の声がマイクを通して部屋いっぱいに響く様を想像すると、声帯はまるで金縛りにあったかのように強張った。


 隣では、梨花が歌っている。しかし、先ほどまでの美しい歌声とは異なり、やや雑で、音程も外しがちのように聞こえた。梨花の言葉を思い出す。その歌声と一緒なら、自分の声は目立たない。それが、梨花の優しい心配りなのだ。その気づきが、優を勇気づける。梨花はマイクを握りながら、反対の手で優へ向かって手招きしている。――ほら、一緒に歌おうよ!と。


 深く息を吸うと、声帯の金縛りが解かれた。

 梨花の優しさ。優が萎縮しない様にと雑にした歌声が、滑走路となった。

 優の声は、ついに歌となって外界へ放たれた。

 

(――あれ?何だろう……凄く、気持ちが良い)


 歌い始めた優は、感じたことのない解放感に満たされていた。普段は押し殺してばかりだったその声は、メロディに乗って、ありのままに放たれてゆく。自分を「檻」の中に閉じ込めていたはずの、呪わしくもあった声。それなのに、歌声となった瞬間、どこまでも、のびのびと発することができた。


 歌声を出すのが、気持ち良くて堪らない。この狭いカラオケボックスという現実から離れ、楽曲が作り上げた広大な世界へと、転移したような感覚。翼が生えて鳥になったかのような感覚。曲の盛り上がりに合わせ、腹の底まで息を吸い込み、ありったけの声で熱唱した。


 (――え、ま、待って。何なの、これ……!)


 真由美と慎二が見た光景は、にわかには信じがたかった。今日出会ったばかりの、優という名の内気そうな少年。カラオケは生まれて初めてだと言っていたはずだ。それなのに、その歌声は――真由美が「プロを目指していても不思議じゃない」と称した梨花の歌声よりも、美しいと思えてしまった。幼い少年の様な純粋な響き、男らしい力強さ、女性的な繊細さ。全てが入り混じったような、現実味のない歌声だった。梨花すらも歌うのをやめ、優の歌声に聴き入っていた。呆気に取られ、口を半開きにしたまま。


 やがて、曲が終わった。優は、楽曲の世界から現実へと帰還した。

 帰還した優を、三人は質問責めにした。


「ユウ!マジかよお前……なんでそんなに上手いんだ?初めてだなんて嘘じゃないか?」

「すごいよユウ君!……私、ちょっと感動しちゃったよ!」

「……てゆうかユウ君、梨花と同じ一オクターブ上で歌ってたよ?信じられない。どうしてそんな高音が出せるの……?」


 優は自分自身でも何が起きたのか分からず、顔を赤らめて、曖昧に答えることしかできなかった。

 梨花が、目を輝かせながら続けた。

 

「ねえねえ、ユウ君!もう一曲歌ってよ!今のが凄すぎて、まだ余韻が消えないんだけど!」


 慎二も賛同する。

 

「そうだよ!俺も聴きたい。なあ、もう1回歌ってくれよ」

 

 真由美も先ほどまでの心配が嘘のように、期待に満ちた表情で優を見つめている。しかし、優は首を横に振った。


「ごめん、今日はちょっと……やめておくよ」


 三人は不思議そうな顔をする。喉が痛いの?疲れたの?そんな質問が矢継ぎ早に飛んでくるが、優は曖昧に笑うだけだった。

 本当のことは言えなかった。あんな風に歌えたことが、夢みたいで信じられなかったのだ。もう一度歌ってしまったら、夢から覚めて、元の檻のような声しか出ないのではないか。そんな恐怖が、優の心を支配していた。あの解放感が、ただの幻だったと知るのが怖かった。


 三人は優の様子を見て、それ以上は無理強いしなかった。

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