第3話

 四人はカラオケボックスを後にした。

 夕暮れ時、厳しかった残暑は少し和らいでいた。やや早い秋の爽やかな風が吹き、優の頬を撫でる。その風は、どこか優しかった。


「また来ような!」


 慎二が屈託なく笑う。

 

「ユウの歌、本当に凄かったぜ。また聞かせてくれよ」

「うん、また行こうね!」

 

 梨花も明るく別れを告げる。

 四人は笑顔で手を振って別れた。三人の背中を見送りながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 帰宅途中、優は歌っていた自分を何度も思い出していた。あの解放感。檻から解き放たれ、どこまでも飛んでいけるような感覚。声を出すことが喜びだった、あの瞬間。もう一度歌えば、あの感覚が得られるのだろうか。また歌ってみたい。その思いが、胸いっぱいに広がっていく。優の足取りは、いつもより少しだけ軽かった。


 優は引っ越してきたばかりのマンションへと帰宅した。玄関を開けると、新築住宅特有の匂いの中に、カレーの香ばしい匂いが混じっている。


「おお、優。おかえり。遅かったな」


 キッチンから父の声がする。父は現役のオペラ歌手だが、各地のコンサートホールを飛び回る人気歌手、というわけではなかった。比較的自由にできる時間が多く、商社勤めで残業が多い母の代わりに、家事や料理の多くを担っていた。


「ただいま、父さん。今日の晩御飯はカレー?」

 

 キッチンに立ち寄って父へ声をかけた。父は、鍋でくつくつと煮えるカレールウを真剣に睨みつけながら答える。

 

「ああ、カレーだ。近所のスーパーに初めて行ったら、旨そうな牛スネが売っていてな。もう出来たから食べよう」

 

 それは、父が得意料理だと信じてやまない逸品だった。大量の玉ねぎや値の張る食材をふんだんに使うので、母からは冷たい目線で見られることもあるが、味は折り紙付きだった。炊き立ての白米にかけられたルウには、大きめにカットされた牛スネ肉がごろごろと転がり、確かな存在感を放っている。父の趣味を体現するような、豪快なカレーライスだ。

 

「うん、悪くない。まあまあの出来だな」

 

 父はカレーを頬張りながら、まんざらでもない自己評価を口にする。優も一口食べると、いつも通りの、食べ慣れた、父の作るカレーの味だった。

 

「……で、学校はどうだった?」

「うん、まあ、普通だった。でも、帰りに友達とカラオケに行ったんだ。初めてだけど、思ったより楽しかったかな」

 

 それを聞いて、父は目を見開いた。驚きと、安堵が入り混じった表情。あの内気な優が、転校初日から友達とカラオケに行くなんて。前の学校では考えられなかった。

 

「……そうか。友達とはこれからも仲良くな」

 

 やはり、引っ越しは正解だったかもしれない。朝比奈家が引っ越した建前上の理由は、父のための防音室だった。公演前後の自主練習に便利だし、副業としているボイストレーナーとして、プライベートレッスンを行う場所にも使えるから、というものだった。

 

 しかし、本当の理由は違った。優の人間関係を、一新させたかったのだ。小中高と地元で進学したため、周囲の者は皆、優の凄惨な事故を知っていた。それを茶化す心無い人間はいなかったが、その事件が知れ渡っているからこそ、優と周囲には、大きな距離が生まれていた。優の口から語られる学校生活は酷く陰鬱で、塞ぎ込んで学校を休むことも珍しくなかった。これを機に、優の高校生活が明るいものとなってほしい。父は、そう願ってやまなかった。

 

「母さん、今日も遅いのかな」

「ああ、懇親会で遅くなるみたいだ。食べ終わったら、風呂にするといい」


 優は食器を片付け、バスルームへと向かった。制服を脱ぎ、浴室へと入る。真新しい浴室には、全身を映せる大きな鏡が備え付けられていた。優はシャワーを浴びながら、鏡に映る自身を見つめる。


 華奢で、どこか丸みを帯びた全身。その身体は、男性らしくも、ましてや女性らしくもない。どうしようもなく中途半端なものに思えてしまう。

 

 優は自身の体を見つめながら、今日一日を振り返る。この、男でも女でもないような、中途半端な肉体。学校で慎二たちと話す際に感じた、拭いきれない孤立感。ここへ引っ越してきたのは自分のためだと、優もわかっていた。でも、結局は何も変わらないかもしれない。半端な体と、異質な声。これからも誰とも関わることができず、何者にもなれないかもしれない。柔らかい毛布で心臓を押し潰されるような、形容し難い不安が優を襲う。


 一方で、カラオケボックスでの出来事も思い出す。あの、生まれて初めて味わった解放感。もしかしたら、歌うことが、自分を檻から解き放ってくれるかもしれない。そんな、一縷いちるの希望を感じていた。

 

 風呂から上がると、母が帰宅していた。食卓で、父のカレーを貪るように口へ運んでいる。

 

「母さん、おかえり。懇親会でご飯食べてきたんじゃないの?」

「あのね、優。懇親会ってのはね、仲良くご飯を食べる会じゃないのよ。取引先と腹の探り合いをしながら、ビールを注いだり飲んだりする会のことなのよ!ああもう、いくら飲んでも飲んだ気がしないし、お腹が空いて仕方がないじゃない!」

 

 アルコールの入った母は、普段の快活さが五割増しになっていた。忙しなく口を動かして牛スネ肉を咀嚼しながら、口を開く。

 

「父さんから聞いたよ。カラオケに行ったんだって?――父さんと母さんの子だものね。優も、そのうち歌うのが大好きになっちゃうかもね?ほら、せっかくプロのボイストレーナーが同じ家に住んでるんだから、色々と教えてもらったら良いんじゃない?」

「ちょ、母さん……」

 

 父はたじろいだ。家庭内でも、優の声はデリケートな話題だった。母の発言は、父にはやや無神経に聞こえた。しかし、今日はその無神経さが優を勇気づけた。優は、はにかみながら答える。

 

「うん、そうだね。歌うのが楽しくなるかもしれない」

 

 そして、悪戯っぽく続ける。

 

「そうしたら、父さんにトレーニングお願いしちゃおうかな?」

 

 父は優の様子に安堵し、悪戯っぽく返す。

 

「ああ、プライベートレッスンは一時間八千円なんだが……家庭内特別サービスだ。食器洗い1回で、トレーニングしてあげよう」

「カレーの日にトレーニングお願いするのはやめとくよ。お鍋を洗うのが大変そうだから」


 そう言って、自室へと戻っていった。

 優は自室で、カラオケボックスで歌ったあの曲を、何度も聴き返していた。次に歌うなら、どんな風に歌おうか。のびのびと歌う自分を想像すると、胸から何かが湧き上がるような気がした。それは、希望だった。暗闇の中で、小さく灯った光のような。

 

 優は、明日を楽しみに思った。

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