展開(三)

 一方、往来を行く理那。


 先程の屋敷が心海の新居であり、家族も同居しているらしいと知って、少しほっとした。


 今回の事件の功績で、心海も良職に就けたのだろう。禄も沢山貰えるようになったのに違いない。


 本当は、もっと良い邸宅に住めるのだろうが、あえてあの程度の家を選んだのだろう。心海らしいことである。


(いつまでもあの賤民街に住まわれるわけにはいかないし、とりあえずよかったわ。でも……)


 理那は少し気掛かりに思った。


 以前の賤民街と違って、今度の住まいは理那の家に近い。近所とまではいかないが、徒歩で行き来できる距離である。


 その距離が、彼女には気掛かりであった。


 またため息をつく。


 遠くに弥勒寺の塔が見えた。


(弥勒菩薩、か……)


 かの寺院が弥勒寺と呼ばれているのは、ご本尊に弥勒菩薩を戴いているからで、そのご本尊の御姿が大変美しいことで知られていた。


 寺は亡国・渤海が栄えていた時代に創建されたもので、公主達が帰依し、菩薩像を信仰してきていた。


 現在の定安国になってからも、人々の信仰心は変わらない。


 理那も勿論、幼い頃から菩薩像に手を合わせてきた。


 神も仏も信じそうにない、あの不遜なる心海でさえも、弥勒寺の菩薩像は特別な存在のようだ。


(もしかして、あの寺が見える場所を選んで、新しい住居を決めたのかしら)


 心海の新居の庭からは、間違いなく寺の搭が見える筈。


(よほど熱心なのね)


 理那は知らず、笑みがこぼれる。


(私にも御礼にと、菩薩の絵をくれたわね)


 昔のことが思い出されて、なんだかおかしくなった。


 昔、心海の妹が死にかけた時、理那が生薬をかき集めて手渡したおかげで、妹は助かった。


 あの時、理那は一銭も使わずに薬を用意したのだが、何れも高価なものだったのには違いない。


 あれは、初対面の日からどれくらい経った日のことであったか。


 理那は邸の裏の畑で、菜花か何かを摘んでいた。桃の花が満開だったことを、よく覚えている。


 そこに、心海が現れたのだ。


 随分時が経過していたので、初め、心海とは気付かなかった。心海の顔などすっかり忘れていたのだ。


 二、三、言葉を交わして思い出した理那に、心海は丁重に頭を下げた。


「おかげさまで、妹は助かりました。その後、科挙に追われて、すっかりご無沙汰してしまいました。御礼が遅くなり、申し訳ありません」


「まあ、別に構いませんのに」


 理那はそう答えつつ、心海が相変わらず襤褸を着ていたことから、科挙の結果は聞かなかった。実際、この時、彼は科挙に落ちていた。


「今日は、いつぞやの御礼に伺いました」


 心海は柄にもなく、何やらもぞもぞしていた。


 だが、意を決したように顔を上げると、急に瞳を悪戯な色に輝かせて、


「御礼です。どうぞ」


と、くるりと巻いた紙を一枚差し出した。


 理那は何だろうかと手を出す。


 彼女の手のひらの上に、それをぽんと置くと、心海はにたにた笑った。


 分厚く丈夫なよい紙である。


 理那がそっと開くと、絵が描かれてあった。


 背景は一面真っ黒。そこに、金色で描かれた弥勒菩薩。陰影には銀が使われていた。


「これは?」


「私が描きました。なかなかの絵心でしょう?」


 胸をそらして言う心海。弥勒寺のご本尊を描いたものらしかった。


「まあ。貴方がお描きになったのですか?これはまた」


 大した腕前である。


「一生懸命、必死に描きました。何というか、妙齢の女性に差し上げるべきなのは、こんなものではなく、簪や着物であるべきだとは思うのですが……」


 高価な物など、とても買えない。だから、絵を描いたというのだ。


 紙も絵の具も安くはない筈だから、一銭もかけない贈り物というわけではなかろう。しかし、妹の命に対する御礼にしては、安価かもしれない。


 そもそも、若い女性への贈り物に、菩薩の絵とはどうしたことか。しかも、妹の命の恩人である。


 それこそ、高価な舶来の玉の簪でも買って贈るべきだ。


 理那はくすくす笑って言ったものである。


「高価な贈り物ほど、真心の伝わる物はありません。それを買うためには、かなり働かなくてはならないわけですから。毎日必死に働いて働いて、ようやく貯まったお金。そのお金はとても尊く、その人の真心の結晶です。だから、そのお金で買った贈り物は素晴らしい」


 心海はややうなだれた。しかし、理那はにこやかに続ける。


「でも、この絵にも、その高価な贈り物に負けない真心がありますわね。毎日こつこつ労働したのと同じように、毎日こつこつとこの絵を描いて下さった。労働の真心に、貴方の真心が劣りましょうか。いいえ、劣りませんわ。この絵には、高価な贈り物と同じだけの真心が込められています。ありがとうございます。とても嬉しいですわ。この絵を大事にしますわね」


「よかった、そう言って頂けて……」


 内心、怒られるかと思っていたようで、心海は心底ほっとしたような表情になった。


「やはり、貴女は変わった方ですね。あ、勿論、よい意味で。貴族の女性とは思えません。賢くて。まるで、この弥勒菩薩のように……」


 心海はそこで言葉を切った。理那がけらけら笑い出したからだ。


「何でしょう?」


「やだ、貴方、まさか、ちゃんと信仰心をお持ちなの?」


「どういう意味ですか?」


 心海はやや睨みつつも、笑ってしまった。


「失礼ですね。我が一族は代々、弥勒寺に帰依しているのですよ。一族の女性の中から一人、必ずこの寺に入れていますし。私の伯母も今、尼僧として寺におります」


「まあ、そうでしたの。それは失礼しました」


 けらけら笑い続けた理那。


 昔を思い出し、今もくすっと笑う。


 愁眉にかすかな笑み。


 その顔は、かの寺のご本尊によく似ていた。


 理那は今でも、あの時もらった菩薩の絵を持っている。


 真っ直ぐ帰宅するつもりであったが、急に弥勒寺に寄りたくなり、理那は回り道した。


 彼女が帰宅したのは夕方のこと。父の李公の帰宅後である。


 李公は一日ずっと家にいたような顔をして、縁談のことは黙っていた。


 ところで、先程理那や宇成が訪ねた屋敷は、勿論、心海の新居であった。しかし実は、彼の禄では到底支払えない家だったのである。


 理那は、あの家が買える位の職に就けたのだと思ったが、真実はその逆であった。


 良職どころか。彼は罷免されていた。


 そう、心海は再び免職の憂き目に遭い、無一文となっていたのである。


 それでもあの家に引っ越したのには、彼なりの考えあってのことのようだが。


 それにしても、かの事件解決の第一功労者であった筈の心海が、何故再び免職となったのか。


 それは、第一功労者だったことによる。


 心海は若く、要職に就いたこともない、ちっぽけな一官吏に過ぎない。だから、高官達とも面識はあまりなく、ましてや、王に対面する機会など、あるわけがなかった。


 心海は王の顔を知らなかった。


 しかし、心海は功績第一の者となった。俄かに王の覚えめでたくなったのだ。


 王は心海を称え、頼りにさえ思うようになり、ある日、直接召し出した。


 王と親しく会って歓談する。


 しかし、その栄誉が心海の罷免に繋がった。


 王と親しく歓談するうちに、油断したのか、それとも何か理由があったのか、心海は扶余府のことをぽろっと口にした。


 そのことが、王を激怒させたのだ。


 扶余府はもともと亡国・渤海の一部だった。しかし、敵国の契丹に攻められ、今はその支配下にある。


 契丹は近年、内紛続きで、一時程の力をなくしていた。そうなると、扶余府としても、亡国が恋しくなる。


 かつての敵より、亡国の後継国の方に寝返りたいのは、当然の心境であろう。


 心海に訪ねられて、説得されて、心が動かないわけがないのだ。


 しかし、王は怒る。


「ここ数年、敵は急激に力を盛り返してきているのだ。そのような時に、いたずらに敵を刺激するようなことを!」


 この国・定安がここまで続けたのは、第一に敵の力が弱まったため。第二に、敵を刺激しなかったためだ。


 それなのに、敵が力をつけている今、敵を刺激するようなことをして、国を危険に晒す気かと、王は怒ったのである。


「一臣下の分際で、国の存亡に関わる大事に触れるとは」


 こんな勝手で危険な男を廷臣としておけるかと、王は心海を罷免したのであった。


(ふん。国益云々の話ではないわ)


 心海は国のために協力してくれと、扶余府に頼んだわけではない。


 国のためでも王のためでもない。烏玄明一個人のために、宜しく頼むと言ったのだ。


 怒る王をよそに、心海は嘲笑った。


 だが、烏公は本当の忠臣なのである。王に苦言した。


「今、朝廷に人少なく。政策も遅れがちです。このままでは、民に不満を抱かれましょう。そのような時に、百人力の能臣を追い出すのは、国益を損じます」


 しかし、当の心海は鼻歌混じりに朝廷を去って行った。


 今、朝廷に残っている廷臣は、だいたいが烏公の大内相就任を嫌がってはいたが、心海の功績は認めていた。


「烏公と昵懇なのは気になるが、それでも心海は大いに賞賛されるべきである」


 今、朝廷にいる者のほとんどは、公平に物事を見ることのできる人ばかりだ。


 その功臣を追い出したとあっては、廷臣達の王への忠誠心が揺らぐ。


 烏公はそれを案じたのだが、烏公の不安は的中することになる。


 それは、心海の狙い通りだったのか、たまたまなのか。下野した心海は、もう次の行動に移っていた。


 理那や宇成が家を訪れた時、心海は留守だった。彼は高麗に向かっていたのである。

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