放伐(一)
烈万華王は建国以来、絶大な力を持っていた。四十年近く、その地位を脅かされることはなかった。
それが最近、急速に弱まった。原因は何なのか。
王は今になって思い知る。
王を支えてきたものが、前大内相らだったということに。
不正を糺し、彼等を追い出し、心機一転すっきりしていたが。正しい政治をしようと、未来の明るさを思ったが、とんでもないことだと今更ながら知った。
どんなに悪くとも、王の最大の支持者であった彼等を追ってはならなかったのだ。
妙な正義感で求心力を失ってしまった王。
一方で、そのことにほくそ笑む者も少なくない。
司賓卿は、今こそ実行の時であるとして、毎日のように耶津をせっついていた。
正直、耶津はうんざりだった。しかし、こうしつこくされては、放置もできない。
「わかりました。外の王族にご連絡を」
「おお!いよいよか。いよいよ偽王を追い出し、真の王をお迎えする時が来たのだな」
司賓卿は嬉々として、国外にいる本来の王統こと、渤海王族の大氏に連絡を始めた。
(馬鹿め。うるさいし、面倒になりそうだから、大氏をおびき寄せて、貴様もろとも殺すだけのことよ。現偽王放伐の場は、同時に大氏根絶やしの場となるのだ。二つの王統絶え、三つ目の王統が誕生する歴史的瞬間を、その目でしっかり見るがいい。もっとも、見た瞬間、その大事な大氏の冥土のお供をさせてやるがな)
耶津は司賓卿の忠義を嘲笑った。そして、いよいよ腰を上げた。
耶津にとって、気掛かりだったのは心海だ。しかし、心海は今、失職中である。実行するなら、心海のいない今しかない。
やるなら、今なのだ。
耶津は密かに前大内相の一派に接触した。
前大内相も左相も、今は都にいない。
一派の中で、死罪も流罪も免れた者はけっこういる。罷免、蟄居の身で都にいる者は数十名。その中で、最も一派の人々の信頼厚いのは、朴侍郎だった。
耶津はしばしば朴侍郎と接触していた。計画は着々と進んでいる。
今日も朴侍郎を訪ねて、その帰り道、心海の様子が気になった。
心海は罷免されているとはいえ、じっとしているとは思えない。烏玄明から密命を受けているかもしれない。
心海の新居を訪ねてみたのだった。
しかし、心海は留守。耶津はますます警戒した。
(いったいどこへ行った?何を企んでいる?いや、今だ。奴がいない今のうちに、やらねば!奴が帰ってからでは、面倒なことになるだろう。奴に何ぞ仕掛けられないうちに)
耶津は一人頷いて、足早に心海宅を去ろうとした。しかし、その時、弥勒寺の塔が目に入ったのだ。
「弥勒寺!」
瞬間、耶津の皮膚に人間の表情が映った。
彼も一人の人間。男だ。
ふと、野望も忘れ、一人の男に戻った。
(ここから先は人間の道ではない。今だけ。最後に一度だけ……)
一人の男・耶津は、弥勒寺に向かった。
弥勒寺の境内は参拝の人々で賑わっている。皆、ご本尊に手を合わせ、有難がっている様子。どの目も澄んでいて、顔もすっきり、口はご本尊への感嘆の言葉ばかりだ。
耶津は参拝者達の間をぬって進み、ご本尊が安置されている本堂の前まで来ると、そちらへ合掌した。しかし、中には上がらず、ご本尊も見ずに裏へ回り、その裏山を登って行く。
裏山には、山頂付近に奥院がある。しかし、山の中腹にも幾つか堂があった。
裏山を僅かに登った所に、麗しい瀧がある。流れはあまり烈しくはなく、見た目にも美しい、天の羽衣を思わせる女瀧だ。
しかし、ここはよく瀧行に使用されていた。
激しくはない瀧の流れでも、打たれれば、かなりの衝撃がある。
耶津はその瀧の前に佇んだ。
昔の光景が、瞼に懐かしい。
この瀧に身を打たせ、気絶する寸前まで、水に身を委ねていた人。唇は紫になり、顔には死相さえ出て。
耶津が思わず声をかけても、無視を決め込み、やがて、ふらふらになりながら上がった。
助けようと歩み寄っても、彼女は彼を無視し、すぐそこの堂に入って行った。
やがて、衣服を改め、堂の中で写経を始めた彼女は。顔に生気が戻り、薄く化粧を施した彼女は、あの弥勒菩薩よりも美しく。耶津はつい声をかけてしまった。
しかし、彼女は決して振り返ることはなかった。
若き日の耶津の初恋。
忘れ得ぬ恋。
今でもここに来ると、あの日の彼女の姿が蘇る。
「耶津様!」
突然の高い気品のある声。思い出に浸っていたので、驚いた。
(彼女か?)
一瞬、そう惑ったほど、彼は夢心地であった。
振り返ると、何とそこに立っていたのは理那だった。
(似ている)
理那がいた意外性より、そちらの思いの方が強い。よく似ている、あのご本尊に。
「耶津様、思いがけない場所でお会いしたものです」
理那はそう言うと、楚々と頭を下げた。
耶津も頭を下げる。そして、ゆっくりそれを上げた時には、もういつもの耶津の顔に戻っていた。何かを企んでいそうな微笑み。
「私こそ驚きました。こんな所で貴女にお会いするとは」
「ええ」
頷く理那。
ふと、耶津の中に嫌味な感情がわき起こって、
「心海にご用でも?」
と、訊いていた。
「え?」
「心海の家はここから近い。ご用があったのでしょう」
「いいえ」
「そうですか?」
耶津の微笑み。心から嫌味なそれなのであった。
理那は内心恐い顔だと思ったが、我慢して微笑を続けている。
「ご結婚なさると聞きましたよ?」
耶津は首を傾げつつ、そう言った。頬には嫌味な笑みが浮かんでいるが、眼が怒っているように見えた。
「え?」
たじろぐ理那。
「朝廷では専らの噂です、貴女がご結婚なさると。相手はこともあろうに大農卿だそうですね」
理那は驚いた。そんな噂の存在に。耶津の反応に。
「大農卿は再婚だということはご存知ですか?まあ、貴女はそんなことは気になさらないだろうが。彼が若くしてあれだけ出世した理由は知っているのですか?」
「……」
「右相の婿だからですよ。右相の婿になって出世した。今度は貴女と結婚するのか。はっ!」
嘲笑った耶津が、いつもとまるで様子が違い、理那は戸惑いを隠せない。
「正直、驚きました。いや、失望した。家のためですか?そのために、彼と結婚を?貴女はそういう方だったのですか?」
「耶津様?」
「私は貴女に一目置いていたのに。いや、憧れでさえあったが、貴女が普通の婦女子と何ら変わらない方だったとは。正直、残念です」
耶津は何故かそう言うと頭を下げ、立ち去ってしまった。
翌日、心海が帰ってきたという。
耶津は焦った。
まだ準備は不十分。しかし、心海が帰ったなら、いつ仕掛けられてもおかしくない。
耶津はばたばたと慌てて準備を整え、放伐を決行に移した。
決行は二日後。心海の帰京からわずか三日だ。
決行当日、耶津は朴侍郎に会い、最終確認してから、司賓卿を訪ねた。
しかし、どうしたことか、肝心な時に、司賓卿がいない。
「どちらにいらっしゃるのだっ?」
苛立ちを声にして言った。時間がないのに、どこを探しても司賓卿がいない。
(もういい!あの老害は後回しだ!)
司賓卿が忠義を尽くす大氏も、未だ国外にあって、どちらにせよ放伐には間に合わない。
放伐の場で、王と共に司賓卿も始末してしまおうと思っていたが、それはもう後回しにしよう。司賓卿は後日、大氏と一緒に始末すればいい。
耶津は途中で司賓卿を探すのをやめ、朴侍郎のもとに戻った。朴侍郎は洛外の森の中に、私兵を従え潜んでいた。その数、一千は下らない。
「洛北にも五百の兵がおり、合図でいつでも洛内に入れます」
朴侍郎はそう言った。
「わかりました。では、参りましょう」
耶津は朴侍郎に頭を下げて、洛内に向けて出発する。
王の権威は失墜している。皆、耶津の行動に賛同するだろう。玉座の前で、廷臣達が耶津に従い、王に刃を向ける光景が脳裏に浮かんだ。
ところがである。
まさに洛内に入ろうとした時、
「どうも様子がおかしい」
と、朴侍郎が立ち止まった。
耶津にはわからない。
しかし、朴侍郎はすらりと剣を抜いた。
ずんずん洛中を進んで行く。そして、すんなり宮殿に入れた。
事前に準備しておいたとはいえ、すんなりことが運び過ぎやしないか。
「もしや、気づかれたか!罠だ!」
耶津が叫んだ時、朝廷の近衛軍と鉢合わせした。
「謀反だ!」
近衛軍が向かってくる。とたんに反乱軍と戦闘になった。
耶津は謀られたと悟ったが、戦闘になってしまっては、もう後戻りできない。
(老害め!あの間抜けが!奴がへまをして露見したか!?)
奮戦する。目の前の敵を、まるで司賓卿を見るように、次々に斬り倒していく。
しかし、実際は、耶津の考えと異なっていた。
司賓卿は確かに、朝廷内を見回し、王への失望著しい者に声をかけていたけれども、よく選んで行動していたのだ。彼に謀反をそそのかされた人の中で、それを口にした者はいない。謀反が露見したのは、司賓卿のせいではなかった。
心海が。全て、心海の仕業である。
彼は司賓卿を抱き込むことに成功していた。
そう、司賓卿は失敗したのではなく、耶津を裏切ったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます