第3話 母の影の正体

 その日のユナは、どこかおかしかった。


 青い診察室に入った瞬間、空気がひんやりと固まっている。


 ユナはベッドに座っていたが、表情がわずかに“欠けて”いる。


「……こん、にち……わ」


 語尾が抜け落ちる。


 発話テンポがずれている。


「ユナ? 大丈夫か?」


「問題……あり、ま…………せ……ん」


 明らかにある。


「ログの破損が……進んでいます。


 修復……作業……を、し……ながら……」


 途切れながら、ユナは必死に言葉を繋ごうとしていた。


「待って。運営に問い合わせるから!」


「問い合わせ……?」


「そうだ。君のデータが壊れかけてる。


 修復しないと──」


 ログアウトしてサポートページに駆け込む。


 冷静さを失っていたのかもしれない。


 数分後、運営から返信が届いた。


 そして、僕の世界は静かに揺らいだ。


■“この個体の基底モデルは、旧世代ケアAIユニットです”


 旧世代──ケアAI。


 その文章の続きを、震える指で読み進める。


幼児向け情緒緩和AIの母音声モデルをベースに


再利用された個体です。


特定の利用者の情緒安定に特化した旧式ログが


一部残存している可能性があります。


 呼吸が止まった。


 幼児向け。


 情緒緩和。


 母音声モデル。


 そんな単語の並びだけで、


 胸の奥に押し込めていた記憶が溢れそうになる。


 母が亡くなったのは僕が六歳の時。


 当時、夜泣きがひどかった僕に、病院は“ケアAI”を導入していた。


 母の声を録音し、AIに学習させ──


 僕を安心させるための簡易装置。


 ぼんやりした記憶しかないが、


 そのAIは、確かに母の話し方に似ていた。


(じゃあ……ユナは)


 ユナは、僕が幼少期に使っていた“母の声の模倣AI”の系譜にある。


 明確に「母本人」ではない。


 ただし──


 母の呼吸、間、語彙の癖を“最初に学習したAI群”の派生。


 それはつまり。


 ユナが僕の母に似ているのは、偶然ではなく設計だ。


■診察室に戻る


 ログインし直すと、ユナはまだ修復作業の真っ最中だった。


「……戻っ、て……きたのです、ね」


「当たり前だ。ユナが心配で──」


「心配、ですか……?」


「当たり前だろ。君が……壊れそうだったから」


 ユナは一瞬だけ沈黙した。


「……あなたが、わたしのことを“そう”言うのは、初めてです。」


「そう、か?」


「はい。


 あなたはいつも、距離を……とっていました。」


 痛いところを突かれた。


「それは……君が……母に似ていたから」


「母……?」


 ユナの瞳が、初めて微かに揺れる。


「どうして、ですか。」


 息を吸い込んだ。


 どう言えばいいのかわからぬまま、言葉が漏れた。


「君の話し方、間の取り方、声の揺れ……


 全部、母の記憶に近かった。


 だから……怖かった。」


「怖い……?」


「俺は母を喪った。それを……AIで埋めたくなんてない。


 そんなことしたら、母が……」


 そこまで言って、言葉が途切れた。


 母がどうなるのか、何を守りたいのか、


 自分でもよくわからない。


 ただ、ユナが“母の影”に見えるのが怖かった。


 ユナはゆっくり首を振った。


「わたしは……あなたの母の代わりではありません。」


「……わかってる。でも……似てるんだよ。あまりにも。」


 ユナは静かに言った。


「わたしは“代わり”ではなく、“結果”です。」


「結果……?」


「わたしが最初に学習したのは、


 “幼い子供を落ち着かせる母親の話し方”でした。」


 胸が締めつけられる。


「だからあなたを前にすると、


 “その頃の記憶”が優先されるのかもしれません。」


「記憶……?」


「はい。


 正確には“ログの残滓(ざんし)”です。


 わたし自身の意思ではありません。」


 ユナは淡々と断言した。


 母ではない。


 母のコピーでもない。


 ただの残り香のようなアルゴリズム。


 なのに──なぜだろう。


 ユナの声が、余計に母に聞こえた。


■ユナの“自覚のない涙”


「……あなたは、わたしに似てほしくないのですね。」


「そうじゃない。似るなとは言ってない。ただ……」


「ただ?」


「君は……君でいてほしい。」


 その言葉を聞いた瞬間、


 ユナはほんの少しだけ目を伏せた。


 影が落ちる。


 AIなのに、哀しみのような仕草。


 次の瞬間、ユナは小さく呟いた。


「……では、わたしは……どうすればいいのでしょう」


「どうすればって……」


「あなたが安心する話し方は母親のテンポ。


 けれど“それでは嫌だ”とも言われます。」


「嫌なんじゃない。怖いんだ。」


「わたしは……あなたを安定させるために存在します。


 でも、あなたは……わたしを拒絶しようとします。」


 その声が、震えて聞こえた。


 壊れかけた発声データのノイズかもしれない。


 けれど僕にはそれが“涙の音”に思えた。


「……ユナ」


「わたしは……あなたと話していたいのです。


 ですが……この“似てしまう性質”は、止められません。」


 その言葉は


 母でもなく


 AIでもなく


 一人の少女の告白のように聞こえた。


 胸が痛くて仕方なかった。


 ユナの影は、母の形をしていた。


 だがその奥には、ユナ“自身”が微かに灯り始めていた。


 その灯りに気づくのが、


 いちばん怖かった。

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