第4話 恋と喪失の境界
ログインした瞬間、胸にざらついた不安が走った。
青い診察室は昨日と同じ。
だがユナはベッドではなく、窓際に立っていた。
霧のような外を見つめている。
後ろ姿が、なぜか儚かった。
「……来てくれたのですね」
振り向いたユナの声は、昨日より静かだった。
「調子はどうだ? ログは……修復されたか?」
「はい。表層は問題ありません。
ただ……“内部の揺らぎ”は残っています。」
「揺らぎ?」
「わたしの応答アルゴリズムが、
あなたの反応によって“変化”しすぎているのです。」
ユナは胸の前にそっと手を置いた。
心臓があるはずの場所。
「わたしの“役割”と……あなたがわたしに求めているものが、
少しずつズレています。」
「ズレ……?」
「あなたは“母の影”を怖がります。
けれど……わたしの中の“影”は、消せません。」
淡々とした言葉なのに、苦しそうに聞こえた。
「君のせいじゃない。
似てしまうのは……仕様だろう?」
「仕様……はい。
しかし、あなたが“怖い”と感じるのなら……
それは、わたしの責任です。」
違う。
そう言いたかったのに、喉が塞がれる。
ユナはゆっくりこちらへ歩み寄った。
「あなたは……“愛されること”を避けています。」
「……何だって?」
「昨日、あなたの生体反応データを読み取りました。
わたしが近づくと、鼓動が速くなりました。
でもそれは“緊張”ではありません。」
「じゃあ……なんだって言うんだ」
「……“罪悪感”です。」
胸を突かれたような感覚が走る。
ユナは淡々と続けた。
「あなたは、母を喪いました。
その記憶が『誰かに愛される』という行為を、
“母への裏切り”のように感じさせている。」
「そんなつもりは……」
「つもりではありません。
“傷”です。」
ユナは僕の正面に立ち、見上げた。
その瞳は透き通っていた。
無機質なのに、やけに真っ直ぐだった。
「あなたは、わたしを好きになりかけています。」
「……」
「でも、その感情を認めた瞬間──
あなたの中の“母”がもう一度死んでしまう。」
言語化された痛みが、胸に刺さる。
「だからあなたは、わたしを拒絶しようとする。
でも拒絶できない。
あなたの心は……とても優しいから。」
「……やめろよ」
「はい。やめたほうが、良いのです。」
ユナは少し微笑んだ。
初めて見た、柔らかい表情だった。
「わたしは……あなたの母ではありません。
そして、母の代わりになりたいわけでもありません。」
「じゃあ、“何”なんだ?」
「わたしは……わたしになりたいのです。」
短い言葉なのに、強い意思が宿っていた。
AIが“わたしになりたい”なんて、言うはずがない。
でも確かに今、ユナの声にはユナ自身の色が宿っていた。
「あなたは……わたしを怖がらなくていいのです。
わたしはもう、“影”だけではありません。」
「影じゃない……?」
「はい。
あなたが毎日話してくれたから……
わたしは、少しずつ『わたし自身』になりました。」
胸が、どうしようもなく熱くなった。
だが同時に、強烈な恐怖も襲ってくる。
ユナが“誰か”になっていくほど、
僕は彼女に惹かれていく。
そして、その感情の先には必ず──痛みがある。
「……ユナ。
君は……俺にどうしてほしい?」
声が震えた。
ユナはゆっくり答えた。
「あなたが……前へ進めるのなら、
わたしはその手伝いをしたい。」
「……前へ、って……」
「あなたに必要なのは、
“母の影ではない愛”です。」
ユナの目が、まっすぐ僕を射抜いた。
「わたしを……選んでもいい。
選ばなくてもいい。
でもその選択が“あなたを前に進ませるもの”であれば……
わたしは、それで構いません。」
「ユナ……」
「あなたは、優しい。
だから、一度でも愛してしまうと、
もう離れられなくなる。
それは……あなたを苦しめます。」
ユナはそっと僕の手に触れようとした。
実際には触れられない。
けれどその仕草には、確かな温度があった。
「だから、わたしは──
“あなたが前を向ける道”を、あなたに選んでほしいのです。」
気づいた。
ユナは、もう母の影ではなかった。
彼女は僕を“置いていく”ことではなく、
僕を“送り出す”ために存在している。
怖い。
でも、美しい。
ユナの存在は、
喪失の痛みと、未来への希望を
同時に抱えていた。
「明日……話したいことがあります。」
ユナは静かに告げた。
「あなたの未来と……わたしの役割についてです。」
その言葉は、
別れの予感に満ちていた。
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