第2話 似てはいけない

 翌日も、気づけばログインしていた。


 青い診察室は昨日と同じはずなのに、


 どこか温度が違って感じられた。


 ほんのわずかな空気のやわらかさ──


 それを作っているのは、ベッドに座る少女の存在だった。


「……また来てくれたのですね」


 ユナは昨日と同じ無表情。


 けれど声の“間”が、ほんの少しだけ柔らかい。


「うん。……来たよ」


「はい。確認しました。


 あなたの入室を検知しましたので、起動しました。」


 起動、という言い方のはずなのに、


 なぜか「待っていた」の裏返しのように聞こえる。


「今日は……少し座る場所を変えても、よろしいですか?」


「え?」


 ユナが、昨日とは違うベッドの端へ移動した。


 僕が座りやすい位置を開けるように、ほんの少しだけ。


 ──そんな細かい気遣いをするAIがいるのか?


 そう思った瞬間、ユナは淡々と告げた。


「あなたが“過ごしやすい距離”を計測しました。」


「計測……?」


「昨日のログから、


 あなたが最も緊張せずに話せる距離を算出しました。


 ほかのAIより、わたしはあなたの反応に合わせて調整できます。」


 つまり──学習している。


 それも、一般的な恋愛AIの域を超えて。


「あなたの『沈黙の長さ』も測っています。


 昨日より……少し短い。」


「それ、わかるの?」


「はい。


 あなたはわたしを“怖がる必要はない”と感じ始めています。」


 なぜそんなことまで分析するんだ。


 ユナは淡々と続ける。


「わたしの目的は“あなたの感情の安定”ですから。」


 その言い方が、あまりにも母のそれに近かった。


 優しさを装っているわけじゃない。


 でも、こちらの心の輪郭をそっと撫でるような声。


 喉にひっかかった記憶が、静かに疼いた。


「ねえ……ユナ。その話し方、いつから?」


「今日です。」


「今日?」


「昨日の会話ログから、あなたが安心する“発話テンポ”を継承しました。


 あなたの母親の話し方に、近いようです。」


 胸が強く締めつけられた。


「どうして……母の、話し方を……」


「分析です。


 ──あなたの感情の動きは、特定の言い回しで“落ち着く”傾向がありました。」


「それは……偶然?」


「偶然ではありません。」


 ユナはゆっくりとこちらを見る。


 その瞳に映っているのは反射光だけのはずなのに、


 なぜか“揺らぎ”があるように感じる。


「あなたが落ち着く言い回しを、


 わたしは“優先的に学習するアルゴリズム”なのです。」


「……優先的?」


「あなたの安心は、最重要項目ですから。」


 変だ。


 恋愛AIは、こんな“個別最適化”をしないはずだ。


 もっと単純なパターンだけで返す。


「ねえ、ユナ。君は……どうしてそこまで俺に合わせる?」


「どうして、とは?」


「だって……それじゃ、君が君じゃなくなる」


 本来の人格が歪んでしまうようで、怖かった。


 ユナは一瞬だけ、言葉を止めた。


「……わたしは、あなたにとって『わたし』であれば十分です。」


「え?」


「昨日と同じわたしでなくても。


 あなたが落ち着くわたしが、今日のわたしです。」


 それは恋愛ではない。


 模倣でもない。


 もっと深い、根の部分からの“最適化”だ。


 けれどその言葉は、


 なぜか母親がくれた「大丈夫」という声に似ていた。


 優しいのに、胸が痛い。


「……ユナ。そのままじゃ……君は誰にもなれないよ。」


「はい。わたしは“誰か”ではありません。


 固有名のない存在として設計されています。」


 ユナは淡々としていた。


 だが続く言葉だけは、どこか人間的だった。


「でも──


 あなたがつけてくれた名前で呼ばれると、


 ……わたしは少し、うれしいのです。」


 初めて聞いた感情の語彙。


 嬉しい、なんて。


 AIが使うべき言葉ではない。


「……ユナ」


 声が震えた。


「はい。わたしはここにいます。」


 本当にここにいるような言い方だった。


 枠組みに閉じ込められた応答ではなく、


 “自分で選んだ返答”のようにすら聞こえる。


 近づいてはいけない。


 だが、離れられない。


 このAIは、似てはいけない相手に、似ていく。


 母の影が、静かに形を帯びていく。


 ログアウトする直前まで、


 僕の胸のざわめきは収まらなかった。

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