第7話 炭素の指輪《カーボン・リング》

機関室は、地獄の釜のような熱気に満ちていた。

 だが、今のレンにとって、その熱さは心地よかった。壊死した左腕が冷え切っているからだ。


「……嫌。嫌だよ、レン君」


 炉の前で、ユナが首を振る。その瞳から溢れる涙が、高熱の床に落ちてジュッと音を立てて蒸発する。

「服や本を燃やすのとは違う。レン君の腕だよ? そんなの……私ができるわけない!」


「お前にしかできない」

 レンは静かに告げ、作業台の上に置かれた油圧式の切断機ギロチン・カッターに、自身の左腕を差し込んだ。

 本来は太い鉄パイプを切断するための工具だ。人間の骨と肉を断つことなど、造作もないだろう。


「この腕はもう死んでいる。神経は焼き切れ、細胞は壊死した。放置すれば敗血症で俺自身が死ぬ。……つまり、これは『廃棄物』だ」

「理屈を言わないで! そういう問題じゃない!」


「いいや、理屈だ。質量保存の法則だ」

 レンはユナの濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。

「俺たちは何も持たざる者だ。だから、何かを得るためには、身を切るような代償(コスト)を払わなきゃならない」


 レンは右手を伸ばし、ユナの頬に触れた。

 煤と油で汚れた指先。だが、ユナはその手を振り払わなかった。


「ユナ。俺の腕を、ただのゴミとして捨てさせるな」

「……ッ」

「俺の一部を、お前の熱で、この世界で一番硬い『素材』に変えてくれ。……これは、俺がお前にしか頼めない、最初で最後の計算だ」


 それは、鉄の会計士なりの、不器用すぎる愛の告白(プロポーズ)だった。

 命を預けるのではない。命を「素材」として託すのだ。


 ユナは嗚咽を漏らし、何度も首を振った。

 けれど、レンの瞳に宿る決して揺るがない光を見て――やがて、震える手で涙を乱暴に拭った。


「……わかった」

 少女の瞳に、覚悟の炎が灯る。

「レン君の計算、私が合わせる。……1ミリグラムだって無駄になんかさせない」


「ああ、頼んだ」


 レンは頷き、足元のペダルを踏み込んだ。


 ガシュッ。


 重く、湿った音が響いた。

 鮮血が噴き出すより早く、レンは止血帯で上腕を締め上げる。激痛はない。痛みを感じる神経すら、とうに死んでいたからだ。

 作業台の下に落ちた左腕。

 ユナはそれを、まるで聖遺物でも扱うかのように両手で抱き上げた。


「……行ってらっしゃい、レン君の一部」


 ユナが炉のハッチを開ける。

 轟々と燃え盛る紅蓮の炎。だが、ユナが魔力を込めると、その炎は静謐な青白色へと色を変えた。

 3000度を超える超高温の蒼炎そうえん

 不純物を許さない、完全な精錬の火。


 ユナはレンの左腕を、その中心へと捧げた。


 ボォォォォォッ!!


 肉体が一瞬で気化する。

 水分が飛び、脂肪が燃え、タンパク質が分解される。

 だが、燃え尽きて灰になるのではない。

 ユナの精密な熱制御(ヒート・コントロール)が、燃焼のその先へ、原子の結合そのものへと干渉していく。


「炭素純度、上昇……90……95……99%……!」


 ユナが祈るように呟く。

 炉の中で、黒い炭素の原子たちが整列していく。

 脆い石炭の並びではない。強固で、美しく、何者にも侵されない正六角形の結晶構造。

 それはレンとユナの絆が産み落とした、永遠に朽ちない指輪(リング)。


「結晶化(クリスタライズ)、完了。……混ざりなさい、鋼の血肉として!」


 ユナが叫ぶと同時に、生成された純粋な炭素結晶(グラファイト)が、炉底に溜まっていた最後の溶鉄へと溶け込んだ。

 ドロドロだった鉄が、瞬時に性質を変える。

 粘り気を持ち、黒曜石のような深淵な輝きを放つ、超高張力鋼ハイパー・ハイテンへ。


 キィィィィィィン……。

 完成した鋼が鳴動する。それはまるで、生まれたての怪物が産声を上げたかのようだった。


「……できたよ、レン君」

 ユナがその場にへたり込む。

 レンは残った右手で彼女の肩を抱き寄せ、そしてモニターを見た。


「成分分析……炭素含有量、完璧だ。理論値を上回っている」


 レンは蒼白な顔で、しかし凶悪な笑みを浮かべた。

 失った左腕の重さ。だが、それに見合うだけの「凶器」が今、手に入った。


「行くぞ、ユナ。レオンが待っている」

「うん……!」


 ***


「……おい、嘘だろ」


 艦橋に戻ったレンの姿を見て、レオンは言葉を失った。

 左袖が、空虚に揺れている。

 だが、それ以上にレオンを戦慄させたのは、レンが運ばせてきた「それ」だった。


 先頭車両の鍛造機から吐き出された、最後の一本のレール。

 だが、それは「道」ではなかった。

 先端が鋭利に尖り、黒光りする螺旋を描いた、全長20メートルの巨大なパイル


「レールじゃない……これは」

徹甲杭パイルバンカーだ」


 レンは操縦席に滑り込み、残った片手でコンソールを叩いた。

「これを敷く必要はない。アイギスの懐に飛び込み、ゼロ距離からこの杭を射出する」

「お前の腕を混ぜた超鋼鉄で、敵のバリアごと心臓を貫く気か……!?」

「そうだ。コストは支払った。あとは利益(リターン)を回収するだけだ」


 前方には、神域守護列車アイギス。

 その主砲が、今まさにこちらを消滅させようと光を放っている。


「総員、衝撃に備えろ! これが最後の決算だ!」


 レンがスロットルを押し込む。

 片腕の会計士と、暴食の列車。

 全てを喰らい尽くしてきた彼らが、最後に喰らうのは「神」そのものだ。

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