第21話 リビングの邂逅、不壊の建築

 リビングで方谷と正蔵が対峙するその背後にも、その糸は生々しく存在を主張していた。半透明で粘着質を帯びた、光るジェル状の質感を持ち、イチロウ(正蔵)のうなじから這い出し、空中で震えながら、壁や床を透過して外へと伸びている。


 方谷が目を凝らすと、その糸はミドリが丹念にお札を飾っている玄関をも通り抜け、今まさにソウセキが歩いていく先——街の暗がりの向こうまで、ほんのりと発光しながら一本の道のように繋がっていた。


「……正蔵殿、お主の背負うたその『糸』。これはお主の魂を現世に繋ぎ止めるくさびであると同時に、お主を『獲物』として引き寄せようとする釣り糸にござる。お主が動けば、その先にある街のもまた、呼応して脈打つ……」


 正蔵は自分の肩越しに、忌々しげにそのジェル状の糸を睨んだ。触れようとしても、手は空を切る。

「……こん粘(ねば)っこい感触、反吐が出っど。ワシを操り、ワシの築いた知恵を啜ろうとする輩の執念か。だが山田殿、これがある限り、ワシは自由に動けんということか?」


「いいえ。むしろ逆でござる」  

 方谷は、タブレットを操作しながら、かつて備中松山藩の巨額の借金を逆手に取って藩を立て直した時のように、静かに、しかし力強く微笑んだ。


「糸が繋がっておるということは、お主の意志を逆に送り込むことも可能。釣り上げようとした魚が、実は巨大なクジラであったと、連中が気づいた時にはもう遅い」


「さて」

 リビングの空気は、張り詰めたつるのようだった。  

 方谷は、慣れない手つきでゆっくりタブレットを支え、画面に現代の「神戸港」の空撮映像を表示させた。


「……こいは、何じゃ。黒船……、鉄の山か?」  

 正蔵は画面に吸い寄せられるように、身を乗り出した。その指が、画面の隅にある「Kawasaki」の文字に触れる。


「か、わ、さき……待て。こん、川崎という文字。……もしや、ワシの」


 その呟きを聞き逃さず、方谷は静かに問いかけた。

「……お主、名は? ……先ほど、薩摩の松方正義殿を相棒と呼んでおられたな。松方殿が心血を注ぎ、その存続を助けた造船所があったと聞く。お主は、もしやそのあるじか」


 正蔵はゆっくりと顔を上げた。その眼には、困惑と、隠しきれない自負が混ざり合っている。

「……ワシは川崎正蔵じゃ。……薩摩のしがない商い人じゃったが、松方ん小僧と共に、この国の海を拓こうと……。なぜ山田殿、あんたは……いや、おはんはワシを知っちょる?」


「ワシは幕末の備中松山で、ただひたすらに理を説き、民を食わせる策を練った者にござる。松方殿とは時代が少し重なり、ワシの拙い財政論をあの方が学んだという縁があっての。……川崎正蔵殿。おぬしが遺した『川崎』の名は、今やこの板ひとつで、世界中の海に見出すことができ申す」


 方谷は画面をスワイプし、現代の巨大な造船ドック、そして宇宙へと繋がる技術の数々を見せた。

「おぬしが信じた『海』の道は、今や空へ、そして星へも続いておる。……どうやら、お主という巨大な魂が、イチロウ殿という若者の身体を借りて、この世に戻ってこられたようじゃ」


 正蔵は絶句し、画面の中の「自分の苗字」を凝視した。  

 しかし、その感動に水を差すように、リビングの空気が重く、冷たく沈んだ。


 方谷が、ふと天井の隅を、そしてイチロウ(正蔵)の背中から伸びる『糸』を見据えた。

「……いかん。正蔵殿、お主の感興が高まるにつれ、あの『糸』が太くなっておる」


 方谷が指差す先。肉眼では捉えにくいが、朝から方谷を悩ませていた「鉄の匂い」の正体——半透明の、鈍く光る腕くらいの太さの糸が、正蔵のシャツの襟もとから壁を抜け、外へと繋がっている。


「……こん糸か。ワシが寝ちょる間も、ずっと何者かがワシの袖を引いちょるような、卑しい感触がしよった。……まるで、鎖のようじゃ」


 正蔵は自らの肩を払い、忌々しげに顔を歪めた。

「こいは、ワシのたましいを餌にしようとしとる。山田殿、おはんは、これが……見えるのか」


左様さよう。おぬしという『宝の山』を釣り上げようとする者の私念が見え申す。……これを無理に断てば、お主を宿すイチロウ殿の身体が持たぬやもしれん」


 正蔵は、不敵な笑みを浮かべた。

「……冗談じゃなか。ワシは川崎正蔵じゃ。薩摩の男が、座して釣られるのを待つと思うちょるのか?」


「……。では、策を練らねばなりませぬな。この糸を逆に辿り、相手に『この魚は、お主らの手に負える重さではない』と思い知らせる策を」


 

          ••✼••


 一方、ソウセキは駅から少し離れた、昭和の香りが残る雑居ビルの前に立っていた。  

 看板には、「天心唯我会てんしんゆいがかい」と書かれている。


 かつてこのビルのリノベーションを手掛けた際、彼は施主である男にこう告げたことがある。

『建物には品格が必要だ。どんなに荒い商売をしていようと、この空間にいる間は、背筋を伸ばしたくなるような。そうでなければ、人はただの獣に成り下がる』


 その言葉を、相手は笑わずに受け取った。  

 ソウセキは、重い鉄の扉のインターホンを押した。


「……おはよう。建築家の山田ソウセキだ。……代表の熊代くましろ君に伝えてくれ。君たちが最近、私の『作品』を少しばかり歪ませているようだから、その調整に来たとね」


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