第4章:文学部と黒髪の少女

「ナツメ…」


その名前が、彼の唇から自然と零れた。


少女は驚いた様子で、手が反射的に自分の胸に上がった。見えない何かを抑えるかのように。


イシダが振り向き、その名前が呼ばれるのを聞いた。


「ああ…それがナツメか」彼は小声で呟き、その静かな状況を見つめた。

「よし、俺は先に教室に入るよ」


そっとイズミの肩をポンと叩いた。「長くしすぎるなよ」


そして歩き去り、二人を急に静かになった廊下に残した。


---


今、そこには彼ら二人だけがいた。イズミはまだナツメを見つめている。


ナツメは唇を噛み、イズミを見つめるのをためらいながら、小さな声で、ほとんど囁くように言った。

「…あなた…私の名前を覚えてる」


イズミは答えなかった。ただ彼女を見つめるだけ。その言葉だけで、彼がここに立っていられるかのように。


沈黙が漂った。


窓から差し込む朝の光が柔らかく床に落ち、向かい合って立つ二人の十代のシルエットを映し出した。


少女――ナツメ――はまだ胸を押さえ、指先が制服の布をぎゅっと握りしめていた。肩が上下し、息は浅かった。そして、ほとんど壊れそうな声で尋ねた。


「 …あなた…イズミ? 」


イズミははっとした。胸が痛いほど激しく鼓動した。

「うん…僕はイズミだ」


ナツメの息遣いが少し整ったように聞こえた。顔はまだ濡れていたが。ゆっくりと手を上げ、手の甲で目頭を拭った。小さな微笑みがかすかに浮かぼうとしたが、それでかえって涙がさらに流れ落ちた。


イズミは硬直して立った。ナツメの小さな動きの一つ一つ――涙を拭う仕草、肩の震え――が頭に鮮明に刻まれた。何か話したい、何でもいい、しかし舌が回らない。


ナツメは唇を噛み、すすり泣きをこらえてから、ついに声が静かに裂けた。


「 …私… 」


続けるには勇気が必要だった。


「 毎日…毎日記憶がなくなってしまう。何も覚えていない…全部が空っぽなの… 」


一瞬止まり、震える息を吸った。涙が再び流れた。

「ひっ…でも…あなたを見た時…」肩が揺れた。「…なぜだかずっと一緒にいたいと思った。怖いの…明日また忘れてしまうのが…」


深くうつむき、袖の端を握りしめてしわくちゃにした。涙はさらに聞こえるようになった。抑えようとしても。


ナツメのその言葉は、イズミの中の何かをノックするようだったが、答えは出てこない。

「僕は…」イズミの声がついに出た。静かで混乱していた。「…君の言っていることがわからない」


ナツメは顔を上げ、赤く潤んだ目で、答えを求めるかのようにイズミを見つめた。


そしてその時――


キーン!!!


ベルが鋭く鳴り響き、学校中に反響した。


ナツメははっとし、慌てて顔を拭った。


「行かなきゃ…」声は小さく、急いでいた。


一歩下がり、振り向き、小走りに階段を下りて遠ざかった。白い髪が揺れ、廊下に立ち尽くすイズミを残して。


イズミは追いかけたい。足が一歩前に出るが、見えない重みに引き止められるかのようだった。胸が詰まり、ナツメの背中が曲がり角に消えるまで見つめた。


再び静けさが忍び寄った。


イズミは深く息を吸ったが、心臓はまだ激しく鼓動していた。いったい何が起こったんだ…?


---


彼はゆっくりと振り向き、隣の教室のドアと廊下から歩いてくる男性を見つめた。イシダの言葉を思い出した本能が、彼を中へと駆り立てた。


部屋はすでに静かになり始めていた。生徒たちがそれぞれの席に座っている。


「イズミ!」


イシダの声がした。彼は手を振り、後ろの席を指さした。

「こっち、こっち!」


イズミは近づき、自分の席に座った。手が少し震えていた。


数秒後、前のドアが開いた。黒いサングラスをかけた男性――彼らの先生だ。


「よし、全員着席。授業を始める」


イシダが少し後ろを向き、小声で囁いた。「さっきどうした?ナツメに会ったのか?」


イズミは虚ろに前の机を見つめ、声はほとんど聞こえなかった。

「僕…わからない」


イシダは静かに息を吸い、驚いていないかのようだった。「そう言うと思ったよ」


後頭部をかき、先生が書き始めた黒板を見つめた。

「まあいい…そのうちまた思い出すよ。それともまた忘れるか」と小声で呟いた。


イズミはその言葉を聞いたが、答えなかった。手に鉛筆を握っていたが、何も書かなかった。


窓の外で、風がそっと吹いていた。ナツメの姿、彼女のすすり泣く声、震える言葉が頭の中で繰り返された。


---


長いベルが鳴り、休み時間になった。椅子が引きずられる音、生徒たちが教室を出て行く。食堂へ向かう者もいれば、廊下でおしゃべりする者も。


イシダが振り返り、満面の笑みを浮かべた。

「食堂行く?それとも行きたい場所ある?」


イズミは数秒間イシダを見つめ、無邪気に言った。

「…わからない」


イシダは小さく笑い、あごを手に乗せた。

「相変わらずだな」


しかしイシダが立ち上がる前に、イズミが突然静かに尋ねた。

「イシダ…『ずっと一緒にいたい』って…どういう意味?」


イシダは一瞬黙り、目が輝いた。何か面白いものを見つけたかのように。

「はあ、もう言ったのか」


イズミは首をかしげ、混乱した。

「彼女?」


「ナツメだよ」イシダはくすくす笑い、椅子から立ち上がった。「久しぶりだな…お前たち二人、小学生から中学生まで友達だったんだよ。あの頃俺はただの観客で、二人が一緒に歩いてるのを見てただけだった。でも今…ナツメがまた現れて…」いたずらっぽく笑いながらイズミの肩をポンと叩いた。「なんだか面白いな」


イズミは虚ろに見つめ、イシダの言葉を理解しようとした。

「…友達?」呟くように、まるでその言葉が耳慣れないもののように。


イシダは息を吐き、優しく微笑んだ。

「さあ、試合もないし、俺がナツメに会うの付き合ってやるよ。お前が彼女を探さなきゃ、ずっと気になってるだろ?」


イズミは少しうつむき、認めるかのように。「…うん。ナツメに会いたい」


「よし」イシダは小さな鞄を取り、イズミを連れて階段を下りた。

「彼女は一年生だし、まずそこをチェックしよう」


一年生の廊下はにぎやかで、笑い声と足音が混ざり合っていた。イズミはイシダの後について歩き、ナツメの姿を探すかのように各教室のドアを見つめた。


「一年生は三クラスある」イシダがドアの列を指さしながら言った。

「1年A組、B組、C組。彼女がどれか知ってる?」


イズミはゆっくりと首を横に振った。「…知らない」


イシダは息を吐き、からかうように笑った。

「お前ってやつは。まあいい、一つずつ聞いてみよう」


まず1年A組から始めた。イシダがドアの前に立ち、軽くノックし、ナツメという生徒がこのクラスにいるか尋ねた。


数人の生徒が振り向き、首を横に振った。

「いないよ」


次にB組へ。答えは同じだった。


イズミはますます混乱し、頭を少しうつむけた。イシダが彼の肩をポンと叩いた。

「落ち着け、まだ一つ残ってる」


彼らはC組に着いた。イシダがドアをノックすると、本を整理していた女生徒が近づいてきた。


「ナツメ?」彼女は繰り返し、思い出そうとするように。

「ああ、彼女今ここにいないよ。多分部活中だと思う」


「部活?」イシダは眉を上げた。

「何部か知ってる?」


女生徒はゆっくりと首を振った。

「知らない。休み時間はよく一人でいるから。多分上の階の部室かも?」


イシダは礼を言い、一歩下がった。

「何部だろう…?この学校にはたくさん部活があるからな」


イズミは上を見上げ、部活という言葉を聞いただけで胸が静かに鼓動し始めた。


「さあ」イシダはイズミの背中をポンと叩いた。「探そう。彼女に会いたいなら、ここで止まってられないだろ」


「部活…?」イズミはその言葉を、ナツメに会う方法だと理解しようと呟いた。


イシダは振り返り、そっとイズミの頭を撫でた。

「ああ、お前も部活に入ってただろ?確か古典文学部だったよ」


「…古典文学部?」


イシダは理解を示すように微笑んだ。

「ああ、当然だよ。お前、ずっと出てきてないからな。聞いた話だと部員少ないらしいよ、二人だけだったはず。だからお前も入って廃部にならないようにしたんだ」


「昔…?」イズミは繰り返し、声はほとんどかき消されるほど小さかった。


「そうだよ」イシダはうなずいた。「昔はよく行ってた、少なくとも…お前がこんな風に忘れ始める前は」


イズミは答えなかった。その言葉を聞き、目が少し潤んだ。


「さあ、見に行こう」イシダは歩き出した。今度はもっとゆっくり、イズミがついてくる時間を与えるかのように。

「俺もめったに上階には行かないし、人の話で聞いただけだ」


二人は部活棟へ続く階段を上った。上階は教室の階より静かだった。廊下の奥の軽音楽部から楽器の音が聞こえるだけだった。


イシダは小さく笑った。

「あれが軽音部だ。昔入ろうかと思ったけど、結局サッカーを選んだ。今度一緒にジャムセッションでもしようかな」


イズミはただゆっくりとうなずき、通り過ぎる各ドアを見つめ続けた。理由もなく心臓の鼓動が速くなっていた。


彼らは他の部室より質素な木のドアの前に到着した。前の小さなプレートには【古典文学部】と書かれていた――


「たぶんここだ」イシダはイズミを見つめ、それからドアノブをゆっくりと回した。


「わあ、鍵かかってない!」


ドアはロックされていなかった――中に誰かいるということだ。


ドアのきしむ音が、静かな部屋を明らかにした。


「失礼します…最も無口な部員のイズミが入ります」


ドアが開くと、古い本の香りが彼らを迎えた。

部室は小さく質素だった:四つの机が合わせられ、いくつかの使われていない椅子、壁一面の本棚には古典が詰まっていて、そして…二人の少女が椅子に座っていた。


銀髪の少女が先に振り向き、銀色の瞳がイズミの目と合った。

イズミの胸が高鳴った。その瞬間、部屋の外のすべての音が消えたかのようだった。


一方イシダはすぐにナツメを指さし、探し物を見つけたかのように「わあ!ついに宝を見つけたか…!」


イズミが一歩踏み出す前に、黒髪の少女が素早く立ち上がり、ドアへと近づいた。表情は少し怒っているようだった。


「イズミ!知ってる?もう一週間も来てないよ!」彼女の声ははっきりしていた。

「これはあなたの部活でしょ?部員は私たち二人だけよ!もしずっと来ないなら、この部は活動停止になるかもしれないの!」


彼女の声のトーンは単なる怒りではなく、中に少し不安が混じっていた。まるでイズミが本当に戻ってこないことを恐れているかのように。


イシダはすぐに前に出て、イズミとその少女の間に立った。

「おいおいおい!怒るなよ、イズミはわざわざ来たんだから」イシダは両手を上げ、なだめようとした。

「説明するよ。イズミはわざと来てないんじゃない。彼は…」

しかしイシダの言葉は途切れた。


イズミの注意は、早くうつむき、指先で制服のスカートを握りしめている銀髪の少女から離れない。ナツメ。


黒髪の少女はイズミの視線の先を追い、やっと気づいた。

目が少し見開かれた。

「え?あなたたち…知り合いなの?」


その質問に、イズミもナツメもはっとした。


イズミは答えなかった。ナツメもただ唇を噛み、頬がかすかに赤くなり、両手でスカートの端を握りしめていた。


緊張した空気を見て、イシダはついに言った。「説明するよ」


脇に歩み寄り、低くイズミの方に手を上げた。

「イズミは…記憶喪失なんだ。毎日。だから彼は部活に来ることも、どんな活動も覚えていない」


「…記憶喪失?」


イシダはうなずいた。

「毎日ゼロから始まるようなものだ。俺がいつも学校に着いて家に帰るのを確認してる」


黒髪の少女はゆっくりとイズミを見つめ、表情が変わった。驚き、同情、そしてもっと深い何か――隠された小さな痛みのようなもの――があった。


「それなら…」彼女の声は柔らかくなった。

「彼はナツメと同じなんだ」


イシダは眉を上げた。

「ナツメも…?」


「彼女も毎日記憶を失うの。だから今は…」

彼女の口調は理由を探すように変わった。


「!…だから今は部活に入るよう説得しやすくなったの。彼女にも帰る場所があれば、たとえ昼間だけでも…一人じゃないと思えるかも、って」


ナツメはまだうつむき、肩が微かに震えていた。


イズミは無意識に一歩前に出たが、まだ何を言えばいいかわからなかった。


部屋は一瞬静かになった。ただそれぞれの静かな息遣いだけが聞こえた。

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