第6話 提案
屋台のベンチに座って、昔を思い出しつつおでんを注文する。最初はいつも竹輪とこんにゃく、大根とたまごだ。ここは関東ではあるがこの店のおでん出汁は関西風。色の薄い琥珀色の液体から、食欲をそそるいい香りが漂ってくる。冷酒を注文すると店主がガラスコップに注いでくれる。銘柄も変わっておらず、少し辛口の酒が関西風のおでんに良く合う。
「今夜はお代はいいよ。これで店じまいだから、好きなだけ食べて、飲んでよ」
「いいんですか!?」
「最後の客として来てくれたのも何かの縁だろうし」
人当たりの良い店主の静かな声が、安らぎを与えてくれる。
「おやじさんも一杯どうですか? そちらの奢りで言うのもなんですが」
「ははは、たまには頂こうかね」
僭越ながら店主のコップに酒を注がせてもらって、再会を祝する様に乾杯をした。そこからポツポツと身の上話をしだした店主。ここで営業を始めて二十年になるらしい。
「最初は道楽のつもりで直ぐに辞めるつもりだったんだけどね。お客さんたちのいい笑顔を見ていたら辞められなくなっちゃって。でももう歳だし、地元に引っ込もうと思ってさ」
「地元は関西の方ですか?」
「よく分かったねえ。実家は京都の端の方でね。仕事でこちらに来ていたんだけど街に馴染んじゃって」
「ハハハ、住めば都、ですもんね。分かります」
「お客さんは? こっちの人かい?」
「いえ、地方出身ですが私も仕事で。まあ、先日退職したんですけど」
「おやおや、それは大変だねえ。じゃあ地元に?」
「いえ……」
聞かれるままに身の上話をする憲児。ここ数ヶ月であったことを喋ると、物静かな店主も流石に驚いた様子だった。
「それは大変だったねえ。人生何があるか分からないもんだよ」
「本当に。でも、そのお陰でここを思い出して、おやじさんの最後の客になれましたよ。これも何かの縁かもしれませんね」
「そうだねえ」
頷いたあとに酒を口に含み、しばらく何か考えていた店主。そして憲児に対して、思いがけない提案をしたのだった。
「あんた今無職なのかい? 良かったらこの屋台を引き継がないかい?」
「は!? えっ!? 俺がこの店をですか!?」
「食品関係の仕事をしていたんだろう? まあ商社と比べれば実入りも少ないかも知れないけど、案外いい商売なんだよ。まあ夏場はそれほど客もこないけど、それでも飲みに来てくれる常連さんはいるからね。営業は夜だけだし」
「しかし俺に調理などできますかねえ。いや、今は一人暮らしだから自分の分ぐらいは作りますけど、人様にお出しするようなものを……」
前職では確かにイベントなので屋台に関わることもあった。それでも自分で調理する訳ではないし、イベントでやるのと日常的に営業するのとでは勝手も違う。
「なに、簡単だよ。おでんは基本、出汁に入れて煮るだけだからね。火加減のこととか少しだけ覚えれば誰でも可能だよ。それに……」
実はこの空き地、店主の持ち物なんだそうだ。店主、実はそこそこ大きな会社の会長で、あちこちに土地や建物を持っているらしい。人は見かけによらないと思う憲児。
「私はこれでも人を見る目はあってね。君は誠実そうだし、仕事も真面目にこなしそうじゃないか。君ほどの人材ならどこの会社に行っても歓迎されるだろうから無理にとは言わないけど、意外に君には向いていると思うけどね」
ちょっと話しただけだが、どうやら店主は憲児のことを高く買ってくれてる様子。転職先はまだ決まっていないものの、どこかの企業に入ることしか考えていなかった憲児にとって、おでん屋台の店主と言うのは斬新過ぎてどう対処していいのか分からない。ただこの店主がこれだけ自分のことを買ってくれていると言うことに、少し感動しているのも事実。今まで会社での仕事一辺倒だった自身の生活に何か新しい風を運んでくれそうな、そんな予感もある。
──飛び込んでみるか……
酒が入っているせいもあるのだろうか、そんな想いが頭の中を支配していく。まだ四十代半ば。もしダメだったとしてもまたその時に次を探せば良いのでは? と考え始めていた。
「ハハハ、急にこんなこと言われても決めかねるよね、やっぱり。忘れて、忘れて」
「いや……おやじさんが良いと言うなら、是非やらせてください! 俺にとっては未知への挑戦だけど、どうせ今は何もないんだからチャレンジしてもいいと思うんです」
「そうかい!」
パッと嬉しそうな顔をして珍しく少し大きな声を出した店主。握手を求められたので彼の手を握ると、少しゴツゴツとした年齢を重ねて色々と経験してきた手だった。転職すると言ってまさかおでん屋になるとは思ってもなかったが、これも何かの導きなのだろう。ただ憲児が心配だったのは、娘がどんな反応をするかだった。
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