第4話 弱り目に祟り目
憲児が会議室を出るとチームメンバーたちが走り寄ってくる。彼らを心配させない様に無理やり平成を装いつつ、とにかく企画が通ったことを伝えた。自席に戻り、心がバラバラになって壊れてしまいそうなのを我慢しながら、なんとか今後の方策を……チームメンバーに迷惑がかからないための嘘を考える。
「私は急遽、しばらく海外に出張することになった。君たちなら私がいなくてもこの企画を成功させられると信じているよ」
「え!? そうなんですか!?」
多少の動揺はあったものの、憲児の部下は優秀な人材ばかり。普段の企画だってほとんど彼らが自主的に進めてくれているのだから、今回だって大丈夫だと自分に言い聞かせる。その日は私用を理由に早退し、マンションの部屋に帰り着き、ヤケになって普段は節制している酒をあおったのだった。だがいくら考えても何故こうなったのか分からない。頭の中を疑問だけがグルグルと巡るだけで、大して酔うこともできなかった。
翌日、早朝から出社して部長に辞表を提出し、自分は海外出張することになっているから、退職したことは例の企画が終わってからにしてくれと頼む。
「まあ、それぐらいは最後に願いを聞いてやろう」
と、まるで自分が神にでもなったかの様に言った部長の勝ち誇った顔。チームメンバーのこれからは心配ではあるが、この男とそしておそらくグルであろう望月の顔をもう見なくて済むかと思うとせいせいした。
その日の内に家族のグループチャットに帰宅する旨を書き込み、新幹線に乗り込む。家族には『大切な話がある』とだけ伝えてあったが、退職したことを告げるのは相当に気が重かった。妻と娘からは勝手をしたことをなじられるだろうか。もちろん転職活動はするつもりだが、もう単身赴任する必要もないし、自宅から通える会社を探そうか。その前に、心の傷を癒やす時間が少しばかりあってもいいか……新幹線の中ではそんなことばかり考えていた。
家族はきっと励まして協力してくれる、そう考えていたが、いざ自宅について退職したことを告げると、妻の梢(こずえ)は激怒。娘の彩未(あみ)はスマホをいじっていて関心なさそうだ。
「どうしてそういうことを勝手に決めるの!? 大体転職先を決めずに退職したら無職じゃない。その間家にいるつもり? ご近所にどう説明すればいいのよ!」
「こっちに戻って働きたいから転職するとでもなんでも言えばいいだろう?」
「彩未の学費や今後のこともあるのよ! 今の会社のお給料は結構多かったから心配ないけれど、転職先で同じレベルのお給料がもらえるの? この家のローンだってあるのに!」
「分かってるよ! ちゃんと必要な金額は稼げる様にするから心配するな!」
売り言葉に買い言葉でついつい怒鳴ってしまう。が、何を言っても妻は納得しない様子。
「だいたい彩未の学費は貯金してあっただろう?」
「大学に行くとなったら学費だけじゃなくて色々必要になるでしょう!」
「それぐらいは貯金があるからなんとでもなるさ」
「とにかく! もう勝手なあなたには付き合い切れない! 離婚して!」
どうしてそうなるんだ……と頭を抱える憲児。確かに今回の判断は勝手だったのかも知れないが、これまでは家族のことを気にかけて、単身赴任前には子育てや家事もできる範囲でちゃんと協力してきたつもりだった。単身赴任していたここ数年で、妻が変わってしまった……部長たちの陰謀のこともあって、もう頭の中はぐちゃぐちゃで上手く考えることもできない。
「お母さんさあ……」
荒んだ部屋の空気の中、今まで平然とスマホを触り続けていた娘の彩未が口を開く。
「お母さんさあ、不倫してるよね?」
「な、何言ってるの!?」
「ここ数年、部屋に男連れ込んでるじゃん。見たことはないけど、男連れ込んだ日は無駄に消臭剤を撒くから直ぐに分かるんだよ」
「彩未は黙ってなさい! 大人の会話にクビを突っ込むんじゃありません!」
「梢、お前……」
「と、とにかく! 離婚してちょうだい! 今後は弁護士を通して話をさせてもらうから!」
娘の発言がよほど想定外だったのか、しどろもどろになりながらそう言い残し、自分の部屋に戻ってなにやらゴソゴソした後、逃げるように妻は出ていってしまった。残された憲児と彩未だったが、彩未は何事もなかったようにスマホをいじっていて、その内投げさす様にテーブルの上にスマホを置く。
「お父さん、お母さんの不倫のこと知ってたんじゃないの?」
「……どうしてそう思うんだ?」
「だってお母さん、車にも消臭剤まいてたし、ゴミとか結構残ったままだったし。それに急に服装とかバッグも派手になったよね」
「まあ、可能性はあるかもとは思っていたよ。でも一時的なものなら、と思って」
「まあ、二人が離婚してもいいんだけどさ、お母さん、多分私の学費分も使い込んでるよ。高いバッグ買ったり、エステ行ったりしてたし。あ、でもお父さんのことだから、会社辞めたとしてもしばらくやっていけるぐらいの財産持ってるよね?」
両親には全く無関心なのかと思っていたが、娘は非常に良く二人を観察していた。彩未の言う通り、比較的大雑把な梢に対して憲児は慎重派で、給料の大部分は梢に渡していたものの、単身赴任の手当を貯めていた分や個人的に買っていた株など、それなりの財産がある。年金受給年齢がどんどん高齢化する昨今、老後の安心のための貯蓄である。
「これからどうするの?」
「お前はどうするんだ? 梢に付いていってもいいんだぞ」
「うーん、苗字が変わるのは結婚したときだけでいいかな。大学に入ったら一人暮らししようと思ってたし、別にここ売ってもいいよ。お母さんの浮気が原因で離婚するんだからさあ、慰謝料とか取らないの?」
まったく、自分の娘ながら逞しいかぎりだと思う憲児。と、同時に少し救われた気分になる。これで娘に泣かれて責められでもしたら立ち直れなかったかも知れない。
「お父さんは今まで私達のために仕事頑張ってくれてたんだし、これからは好きな仕事すればいいんじゃない? 遊んで過ごせるなら、私は別に転職しなくてもいいと思うよ。あ、でも結婚式にはかっこいいお父さんで出席してほしいなあ」
「ハハハ、気の早い話だな。しばらくは休むかも知れんが、まだまだ働ける年齢だからな。ゆっくり次を探すさ。場合によってはあっちで仕事を探すかも知れないけど、それでもいいのか?」
「うん。都心に泊まるところがあるなんてラッキーじゃん」
合理的な娘の考え方に、新幹線の中でウジウジ考えていた自分が馬鹿らしくなってくる。彩未のお陰で憲児の心は救われ、今は予想外に清々しい気分ですらある。
「まったく、お前の性格は誰に似たんだか」
「お母さんじゃないと思うから、きっとお父さんだよ」
「俺はお前ほど達観して冷めてないと思うぞ」
とは言ったものの、確かにどんなときも状況を冷静に判断している自分がいるのも確か。ちょっと心配性で不要と分かっていても準備することも多い。確かに、そういう所は自分に似ているのかもと思う憲児。その後、出ていった妻のことも忘れて会社であったことの愚痴を娘に聞いてもらい、お互いに笑顔が出るぐらいには和んできたところで、夕飯を外で食べるべく出かけることにしたのだった。
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