オーバーライト

@ChishinOK

00 //プロローグ

 闇が。世界から隔絶されたような、重苦しい闇がそこにはあった。

 照明など一切存在しない完全な暗室。換気扇の回る音すらなく、淀みきった冷たい空気だけが、アスファルトのように空間を埋め尽くしている。

 その静寂の中央、闇に溶け込むようにして、二人の影があった。

 ​椅子に腰掛けた男は、肺の底から絞り出すように大きく息を吐いた。

 震える手で掴んだペットボトルの水を、喉を鳴らして一気に飲み干す。空になった容器を足元に置くと、彼は覚悟を決めるように、ゆっくりと、強く瞼を閉じた。

 視界を閉ざしても、闇の濃さは変わらない。だが、心臓の早鐘だけが耳元でうるさいほどに響いていた。


「準備はできたか」


 ​男の背後から、温度を感じさせない無機質な声が問う。

 抑揚も、憐憫も、焦燥もない。その人物は、ただの装置の一部であるかのように返答を待ち、衣擦れの音ひとつ立てずに佇んでいる。


「ああ、頼む」


 ​男の声は、わずかに擦れていた。


「了解」


 短い確認。何かのスイッチが押し込まれる、乾いた音がした。

 ​刹那――暗室の闇を切り裂くように、深紅の光が一閃する。

 瞼の裏まで焼き尽くすような強烈な赤。視神経を通り越し、脳髄を直接鷲掴みにされるような衝撃が走り、一瞬にして彼の視界と意識が強制的に切り開かれた。

 ​その直後。

 糸が切れたマリオネットのように、男の全身から力が抜け落ちる。頭ががくりと下がり、椅子から腕がだらり・・・と垂れ下がった。指先だけが虚しく空を掻く。


「――グッドラック」


 ​赤い光は瞬きと共に消え失せ、再び濃密な闇がすべてを飲み込んだ。

 無機質な別れの言葉と共に、何かが床に崩れ落ちる鈍く重い音が響く。

 やがてそれも止み、死のような静寂だけが戻ってきた。

 

 

 

 

 Overwrite[00:00] ――大北千新

 プロローグ

 

 

 

 鼓膜を突くような絶え間ない雀のさえずりで、泥の中に沈んでいた意識が無理やり引きずり上げられた。

 ​重たい瞼を持ち上げる。白い光が網膜を焼き、まだ完全に覚醒していない脳髄を揺らす。

 不快な目覚めだった。男は気怠げにシーツを払い、上体を起こそうと腹筋に力を入れた。

 その瞬間、猛烈な目眩にも似た感覚が彼を襲った。


(……なんだ?)


 身体の重心が、おかしい。

 腕にかかる負荷、首を支える筋肉の張り、背骨のしなり具合。長年付き合ってきたはずの「自分」という乗り物の操作感が、わずかに、しかし決定的にずれている。まるで、他人の靴を履いて歩こうとした時のような居心地の悪さが全身を包んでいた。

 男は目を丸くし、自分の手を見た。

 違和感は感覚だけではなかった。指先がシーツに触れる感触、微細な布の凹凸を拾う皮膚の感度、肋骨の奥で打つ心臓の鼓動のリズム、血管を巡る血の熱さ……。

 すべてが「自分のもの」ではないという理不尽な事実が、情報の波となって脳を叩く。


「……へ」


 ​恐る恐る視線を巡らせる。

 西日が差し込む部屋。デスクの上には、新品同様の小綺麗なテキストや参考書が無造作に散乱している。壁には見たこともないバンドのポスター。クローゼットは開け放たれ、サイズの合わなさそうな服が覗いている。

 そして、たった今自分が寝ていたシングルベッド。

 この部屋にあるもの、いや、この部屋そのものが、見知らぬ場所だった。何一つとして、彼の記憶に残っているものが存在しない。

 ​一気に現実へと脳が叩きつけられる。

 男は弾かれたようにベッドから飛び起きた。足の長さが違うせいで、一歩目でつんのめりそうになる。

 もつれる足で寝室から飛び出し、いくつかの扉を乱暴に開け放つ。トイレ、キッチン、そして――ようやく、探していた場所を見つけた。

 洗面所に駆け込み、洗面台に手をつく。

 蛍光灯の青白い光の下、恐る恐る顔を上げた。

 鏡の向こうにいたのは、見知らぬ男だった。

 ​多少の寝癖がついた明るい茶髪。色素の薄い瞳。長いまつ毛に縁取られた、少女のように整った顔立ちの男が、青ざめた顔でこちらを凝視している。

 男は鏡に映るその唇が、自分の意思と連動して動くのを絶望的な気持ちで見つめた。


 ​「まじかよ……」


 落胆とも、困惑ともつかない声が、狭い洗面所に反響する。

 一体どうしてこうなった。ここはどこだ。誰に連絡すればいい。今の状況は夢なのか。

 様々な思考が、寝起きで混乱した頭の中を嵐のように駆け巡る。だが、どんな推論を組み立てようとも、どうしてもたった一つの大きな疑問が、喉に刺さった小骨のように纏わりついて離れない。


 ​――誰だ、俺。


 ​見知らぬアパートの洗面所で、他人の顔をした彼は、ただ茫然と立ち尽くした。

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