第20話 懐かしき我が家
「ここが肝臓になるんですが、転移が見られます」
「そうですか」
「手術で取ったところ以外にも目に見えない
がんがあってそれがリンパや血液に乗って他の臓器へ行ったと考えられます」
手術をしてまだ半年も経っていない。
それなのにもう再発してしまったようだった。
最近の腹の痛み。気持ちの悪い痛みだったので、
「今の抗がん剤が効いていないということですか?」
「そうですね。次の抗がん剤に変えてみましょう。
ただ、前にも説明しましたが胆管がんに使える薬はあまりなくて。
だから次の抗がん剤を長く続けられるように
がんばりましょう」
相変わらず主治医はポジティブなことを言ってくれる。
もちろん枝折もポジティブに考えるようにしているがひとつだけ聞きたいことがあった。
「先生。抗がん剤が効かなくなったらどのぐらいですか?」
余命というやつだ。それを聞いたのは生まれてくる子どもに会えるかどうかを知りたかったからなのと、branchをコナに任せられるようにしていかないとならない。
枝折にはやることがたくさんあった。
「
これが化学療法のみですと、10ヶ月ほどなんですが、佐藤さんは手術をしてますので、
術後再発の場合は33ヶ月というデータが出ています」
「33ヶ月…」
3年は生きられないということだ。
しかし枝折はそれでじゅうぶんだと思った。
その頃には四季とコナはもう一人前だ。
生まれてくる子もしっかりとしてくるだろう。
「佐藤さん」
主治医が今度は血液検査のデータを画面に移して、枝折の方を向いた。
「これはあくまでもデータです。胆管がんは特に個々で大きな差があると言われています。
厳しい話をしますが、進行具合によっては
数ヶ月という患者さんもいます。
逆に5年経っても普通に生活されている方もいます。
だからこの数字は忘れてください。
目標を持ちながらコツコツと治療していきましょう」
「先生ありがとうございます。大丈夫です。
私諦めたりしてませんから。最悪のことを頭に
置いていたらよけいにがんばれるんですよ」
枝折がニッコリ笑うと、主治医も微笑んで頷く。
病は気から、ではないが、主治医の笑顔を見て枝折は少しあった腹の痛みが治っていた。
「血液検査は、炎症反応が少し高いですが心配ない範囲です。骨髄抑制も今のところ大丈夫なので次回から新しい抗がん剤に変えますね。
次のお薬は点滴になるので通っていただかなくてはなりません。そして時間がかかります。
後で薬剤師から説明を受けてください。
痛み止めも少し強いのにしておきますね。
これでも痛みが止まらなければ我慢せずに教えてください」
「はい、ありがとうございます」
「佐藤さんが我慢強いのはもうわかってますけど、我慢して良いことなど一つもないので。
この痛み止めで効かなければすぐに連絡してくださいよ」
今持つ希望を保つためにも、心配させないためにもその方がいい。
主治医が言った通り先のことは誰にもわからない。
枝折はもうしばらくはいつも通りの毎日を送れることに感謝することにした。
「どうだった?」
branchに出勤した枝折に開口一番コナがそう聞いた。
枝折が今日、診察だと知っていたコナは開店準備をしながらも気が気ではなかったのだ。
「いつも通りよ。
お薬を少し変えてもらっただけ」
「それって良くなったから?」
美容院で髪をキレイにセットし、化粧もしている枝折は顔色も良く見えた。
しかし薬が変わった、ということを聞いたコナの手は冷たくなった。
「よくわかんないけどいろんなお薬を試すんじゃない?
先生が私にあったものを探してくれるみたい」
「そっか。良かった」
安心してコナが微笑む。枝折がカウンターに入ってコナの肩をぽんぽん、とするとコナはさらにうれしそうにした。
「さて。お酒のチェックしとかないと。
今日注文聞きに来るわよね」
「うん。そろそろじゃない?」
「ヤバい。急げ」
ふふ、と枝折が笑って背の高い酒棚を見上げる。
引き出しからパソコンを取り出して、酒棚と
画面に視線を往復させた。
ドアが開いたので酒の注文を聞きに来たのかと思い、コナがカウンターから出ると篤子が立っていた。
「篤子さん」
「おはよ」
その声に枝折が振り向く。スッと手を上げた篤子がカウンターの椅子に座った。
「店出ないの?」
枝折がそう聞くのも無理はない。篤子の経営する銀座のクラブも歌舞伎町のホストクラブも
もう開店している時間だったからだ。
「後で行くわよ。私戦力外だからいつ行ってもいいの。
それにお腹が目立ってきたからお客様には会えないしね」
客はホステスとの時間を楽しみにやって来る。
結婚しているホステスもそれを隠し独身で彼氏もいないと言わなければならない。
妊娠6ヶ月にもなれば腹が目立つ人は目立ってくる。
篤子は今のうちにやっておかなければならないことも多かった。
戦力外と言ったが篤子が忙しいことは枝折が
一番良くわかっている。そんな篤子がbranchの開店前にやって来たのは枝折の検査結果を早く知りたかったからだ。
「ジュースでいい?」
「ありがとう。コナも枝折も飲んで」
「まだ店は開いてないからお金はいらないわ」
コナが三つのグラスに冷たいオレンジジュースを注ぐ。
三人でそれぞれのグラスを持ち、乾杯した。
「今、コナにも言ってたんだけど変わりなしよ。お薬が少し変わったぐらいかな。
私に合って長く使える薬を先生が探してくれるみたい」
「そう。それは良かった」
コナが枝折の隣でニコニコしている。
篤子が枝折の目を見ると枝折は笑って視線を逸らした。
branchを後にして篤子は歌舞伎町へ向かった。
タクシーの中で腹に手を当てる。
ここに赤ちゃんがいることがまだ信じられない。
生まれてくるまで後四ヶ月。
枝折は…本当にこの子に会えるのだろうか。
「不吉なこと考えちゃったわ」
「どうしました?」
篤子のひとりごとを拾った運転手とミラー越しに目が合う。
なんでもない、と言って篤子は夜が流れる窓の外を見た。
ホストクラブのオーナー室に入り、店内を
モニタリングする。
四季や他のホストの働きを見ていると店長が
部屋に入ってきた。
「おはようございます。オーナーとお約束があるというお客様が…」
そう言って店長は篤子に近づき頭を下げた。
「来ているのはうちの前で腕を切った例の客です。
約束してるっていうのは本当ですか?」
「本当。悪いけど店に入っていただいて
「オーナー、それは、」
「大丈夫。話はついてるから」
心配そうな顔で店長が出て行く。
篤子はまたモニターを見つめた。
しはらくしてせりなが店内に入って来た。
派手に塗られていた化粧はどこかに置いてきたのか。
ナチュラルなメイクで服も大人しい感じのものを着ている。
席についた四季にせりなは深々と頭を下げた。
「四季。本当にごめんなさい。
嫌な思いをさせて…迷惑かけてしまって」
「せりなちゃん…」
長袖を着ているので腕の傷は見えない。
四季は篤子に聞かせてもらったボイスメモからせりなが反省していることを知っていたので胸が苦しかった。
せりなが顔を下に向けて肩を震わせている。
店内に入って来た篤子が隣に座って背中をさすると、せりながびっくりして涙に濡れた顔を上げた。
「せりなちゃんは私が招待したの」
「篤子さんが?」
「せりなちゃん、今から私の高校の同級生がやってる店に面接に行くのよ。
そこならなかなかいいお給料を出してくれるからね」
枝折と篤子と仲が良い友達が銀座で寿司屋を出している。
高級店なのだが毎日満席の繁盛店だ。
一人暮らしのせりなはバイトを掛け持ちしたとしても月に五万の返済はキツイ。
しかし篤子にこれ以上迷惑をかけられないと思っていたせりなは仕事を紹介してくれという
連絡をしなかった。
ラインをやり取りしていた篤子がそれに気づき、せりなを問い詰めると3つほど掛け持ちでバイトしようと思っている、とせりなが話した。
「掛け持ちしてたら眠る時間なくなるわ。
働くには体が資本なんだから」
「だよね。篤子さんの友達なら安心だね」
「昔から面倒見のいい男だからね。
わけのわからないところでせりなちゃんが働くより、四季もその方が安心でしょ」
うん、と頷いて笑った四季を見てせりなも少し微笑んだ。
「篤子さん、本当にありがとうございます」
せりなが頭を下げる。
賑やかな店内はシャンパンコールが始まり、さらに賑やかさを増していた。
「四季に会えたんだからこれからがんばれるでしょ?」
「うん」
「無理せずにがんばってね。また落ち着いたら顔見せて。待ってるから」
「四季もありがとう」
グラスに入ったジュースで三人は乾杯した。
その後、篤子とせりなは店を出てタクシーに乗り、銀座へ向かった。
以前コナと、そして弁護士の
山形の祖父母のところに三人で行くことになっていたが佳樹の仕事が忙しかったのだろう。
四季も毎日の生活の中でそのことが薄れてきていた。
仕事が終わった四季は、この時間まだ開いているbranchを目指してタクシーに乗った。
ホストクラブに戻る時に四季はbranchの奥にあるコナの部屋を出た。
離れがたかったのだが、branchは深夜3時まで開いているので、1時に仕事が終わる四季とは生活がズレる。
コナに迷惑をかけたくない、というのが四季の一番思うところだった。
「いらっしゃいませ…あら四季じゃない」
枝折がうれしそうにカウンターから出てきた。
ボックス席の客に酒を運んでいたコナも振り向いて微笑む。
四季をカウンター席に座らせて、枝折がその隣に座った。
「そう。来週なのね。私ひとりで大丈夫だから、コナ行ってきなさい」
日帰りだとは聞いていたが、帰って来るのは夜遅くになる。
コナは枝折をひとりにすることが気になって
山形へ行くことを躊躇していた。
「会いたいんでしょ?」
「うん…まあ、そうだけど、」
「おじいさまもおばあさまも高齢だから、
お元気なうちに二人の顔を見せてあげなさい」
明日はなにが起こるかわからない。
明日なんてものは当たり前に来るものではないのだ。
枝折の言葉にコナは頷いた。
「ありがとう枝折さん」
「あわてて帰ってこなくてもいいから。
私ものんびりやってるからね」
「枝折さん。調子良いの?」
心配そうな四季に枝折は笑顔で頷く。
新しい抗がん剤が変わってから二回、腫瘍
マーカーを測定したが上がっていなかった。
来月はCT検査をしてがんが大きくなっていないかを見る。
この調子だと生まれてくる子供には会えそうだ。
そう思うと気分がいい。明るく元気にしていると体調も良くなるのが不思議だった。
「うん。絶好調よ」
「良かった!」
「だから安心して行ってきなさい」
うれしそうに顔を見合わせる四季とコナ。
この二人にはなにがなんでも幸せになってもらいたい。
そのためにはなんでもしてあげたい。
自分のやるべきことが全て終わるまでなんとか元気でいさせて、と、枝折は誰にでもなく祈った。
山形空港に着くと雪がチラチラと降っていた。
今年は雪が降るのが早い、とここで生まれ育った佳樹が空を見上げる。
一歳の時にここへ来たコナも灰色の空から落ちて来る小さな雪を見て頷いた。
「すごい」
最寄り駅から歩いて祖父母の家に向かっていた四季が東京とは全く違う景色を見て驚く。
電車の窓からも田んぼや山しか見えなかったが、実際に自分の足で歩いてみるとそののどかさは想像以上だった。
「小学校まで歩いて40分だった」
「コナも?」
「俺は50分。中学はさらに遠くて自転車で
50分ぐらいかな」
佳樹が育った家よりも、コナが育った家のあるところの方が不便だった。
しかしどちらにしろ東京で生まれて育った四季には考えられない環境だ。
家に近づくと懐かしさにコナの胸は込み上げる。
なにも楽しい思い出がないのに、なぜか暖かい気持ちになった。
祖父母の家が見えて来た。錆びた門。
あちこち崩れた門柱。
三年ほど離れていただけなのに、コナにはそれらがずいぶんと古びて見えた。
佳樹が小さな呼び鈴を押す。玄関までの庭には
コナが使っていた自転車がまだ定位置に置いてあった。
ドアがゆっくりと開き、中からエプロンをした祖母が出てきた。
「連れてきたよ」
「…」
佳樹が、事前に連絡をしていたので祖父母は
四季とコナに会うまで緊張していたことだろう。
固い表情で祖母はうん、と頷いて門を開けた。
「おばあちゃん」
「コナ…」
祖母の目からみるみる涙があふれる。
エプロンをぎゅっと目に当てて、祖母は涙を隠すように先に家の中に入って行った。
古い畳の和室、真四角のテーブルに座布団が
三枚並べられている。
その上に佳樹と四季とコナが座ると、奥の部屋から祖父がやって来た。
「お父さん。久しぶり。
迷惑かけて本当にごめん」
以前ここへ来た時は風邪をこじらせて入院していた父に佳樹は会えなかった。
年老いた父も母同様、20年以上の歳月を感じさせた。
「元気そうで良かった」
佳樹は畳の上に手をついて頭を下げている。
茶を淹れてきた祖母がみんなの前に湯呑みを置きながら佳樹に話しかけた。
「謝らんでいい」
佳樹は考えていた。自分がコナを預けたことで父母の人生を狂わせてしまったのだ。
預けた時はまさか失踪されるとは思っていなかったが。
結果的にはなにもかも大きく変えてしまったのは自分のせいだと佳樹は悔やんでいた。
「コナ」
祖母がまだ頭を下げている佳樹を座らせる。
祖父に名前を呼ばれたコナはテーブルから視線を上げた。
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