第10話 生きたいと願う
病室のドアを開けると午後の柔らかい日差しが白く光っていた。
そっと入った
枝折が倒れてから数日、篤子は見舞いに行くのが怖かった。
枝折があのまま死んでしまうのではないかという不安。
怖くて夜も眠れぬほどだった。
何も言わずに枝折の顔を見つめる。
高校の時の、まだ男の格好をしていた幼さの残る枝折の顔が浮かび、目の奥が熱くなった。
枝折の病状をコナに聞こうと思ったが、もし悪いものだったりしたらコナも言いにくいだろう。
口に出すのも辛いかもしれない。
息子のように可愛いコナには聞けなくて、今日やっと怖がっている自分を奮い立たせて篤子はやって来たのだった。
枝折に繋がっている輸液ポンプのポタリ、ポタリと落ちる点滴。
ドアを閉めた廊下の向こうから聞こえる誰かの声。
篤子にはここが異世界のように感じた。
「篤子?」
スッと目を開けて枝折が篤子の方へ顔を向けた。
「来てたんなら起こしてよ」
「今来たとこよ。
てかまだこんなとこで寝てんの?」
「そうなのよ。退屈だわ」
ふふ、と枝折が笑う。ここへ運ばれて来た時は黄色かった目が白くなっていた。
「もう少しここにいなきゃならないみたい」
「そうなの?」
「検査の結果待ち。そっからどうするか考えないと」
うん、と頷いた篤子を枝折がじっと見つめる。
変に思った篤子が首を傾げた。
「篤子。ごめん」
「なんでよ」
「心配かけてるよね。でも死ぬ気ないから。
もう少し一緒にいよう」
「枝折?」
枝折が座ろうとして体を起こす。篤子が背中に手を当てて手伝った。
元々細い枝折の体がさらに細くなったみたいで、篤子は苦しくなった。
「がんだった」
「…」
「よくわかんないから、これ」
枝折が床頭台の上に置いていた用紙を篤子に渡した。
それは主治医が説明で書いてくれたイラストと、入院計画が書かれていた。
受け取った篤子が両手でそれを持って視線を走らせる。
胆管がんという聞いたこともない病名だった。
「明日には検査結果が出るみたい。
転移がなかったら手術ができるから、がんばるわ」
「手術したら…治るんだよね?」
「うーん。再発率が高いから5年後に生きてる可能性は低いらしい」
「嘘でしょ」
何かに殴られたみたいだった。
やたらと怖かったのは何かを感じ取っていたのか。
篤子は言葉が出てこず、今目の前にいる枝折が消えていくような気がした。
日差しはさっきよりも少し傾いたからなのだろうか。
見つめ合う二人は薄い影を纏っていた。
「信じないわ」
篤子がキリリとした表情でそう言った。
「枝折なら治せる。
私はそう信じることにする」
「当たり前よ。私もこのままくたばるつもりはないから」
枝折が布団から出した手を篤子がぎゅっと握る。
ニコッと笑った篤子は、薄化粧のせいもあるが幼く見え、そして頼りなく見えた。
普段は店を切り盛りしていてたくましく感じるのに。
コナだけではない。篤子ともまだまだ一緒に生きて、守ってやりたい。
枝折には守りたいものがある。
それが今、とてもありがたかった。
次の日、枝折はコナと一緒に病室で主治医から呼ばれるのを待っていた。
コナが来週、父親である
会え、と枝折はコナに言っていたがどうなるかわからない。
コナが傷つかないように祈るしかない。
父親に会えて良かった、と思える結果になるようにと。
「
「山城さんが真実を話してくれたら、
だけどね」
山城佳樹に知らない、と隠されるかもしれない。
それならそれでいい、とコナは思っていた。
枝折が言ってくれたこと。好きな人は好きでいい。
それだけでいいと今、心から思えるからだ。
「ホントのことを知りたくない、って言えば嘘になるよ。
でも教えてもらえないんなら仕方ない」
「コナ、なんか大人になったわね」
枝折がうれしそうに笑う。
コナも微笑み返したが、さっきから自分のことより枝折の検査結果のことで頭がいっぱいだった。
確率では手術できなかったら一年生きるのが難しい。
あくまでも確率だがどうしても考えてしまう。
検査の結果のことを考えるとコナはこの場で倒れてしまいそうだった。
コンコン、とノックが聞こえる。
枝折が返事をすると看護師が車椅子を押して入って来た。
「先生来ましたよ。行きましょうか」
「はい」
枝折が立って車椅子に乗る。そして三人で前にも行った病棟の一番奥の部屋に向かった。
前に検査結果を聞いた時と部屋も同じだが、ドアを開けるとすでに主治医と看護師がいた。
車椅子を押してきた看護師と合わせて五人で話をする。
救急外来から世話になっている主治医がパソコンを枝折とコナに見えるように動かした。
「PET検査というのは、がんが体のどこにあるかを調べる検査です。CT画像と重ねてその場所をわかりやすくこうして画像化します」
枝折の胸の辺りがぴかっと光っていた。
あとは黒く映っているところが数カ所あった。
「胆管がやはり光っていました。あとは光っていないので大丈夫です」
「転移がなかったということですか?」
コナがパソコンの画面から主治医に視線を移す。
うん、と頷いた主治医が優しい笑顔を見せた。
「まずは第一関門クリアですね。光っているのは一箇所。ちなみにこの黒いところはブドウ糖の代謝が活発な臓器なので心配いりません」
「ありがとうございます」
主治医にお礼を言った枝折がコナと目を合わせて微笑む。
コナも枝折の手を握ってやっと笑えた。
「で、手術なんですけど、この部分だけ取っちゃえばいいというわけにはいかないんですね。
細胞レベルでがんがここから広がっていたら大変なので大きめに取っちゃいます。
前にも説明した膵頭十二指腸切除術というのをします」
膵臓の頭部分の膵頭と、十二指腸を切除する。
かなり侵襲の高い手術だ。
「佐藤さんはまだお若いから回復も早いと思いますよ」
「若くないですけど、がんばります」
「先生、よろしくお願いします」
「執刀医の先生からも説明がありますので、疑問に思うこととか、なんでも聞いてください」
難易度の高い手術だ。主治医は8時間ほどかかる、と言った。
そして執刀医からの手術の説明を受けた枝折は、一旦退院して二週間後にまた枝折は手術のために入院することになった。
「コナ、ごめん」
タクシーを降りるにもコナの手を借りないとふらつく。
ほとんどベッドの上で過ごしていたので体力がかなり落ちていた。
枝折は情けなかったが、遠慮せずにコナに頼った。
遠慮してもコナには見抜かれる。
それほど二人の絆は深くなっていた。
ゆっくりと階段を降りて地下に向かう。
直接枝折のマンションに行こうとしていたが、店を見たいと枝折が言い出したのだ。
もう、見られないかもしれない、と思ったのか。
しかしコナは店を見て、また店に立ちたいと枝折が思ってくれることに期待した。
「なんか懐かしいわね」
枝折が入院していた間もコナは毎日掃除をしていた。
いつでも店が開けられるように、常連客への電話もした。
コナは枝折が元気になることを信じている。
また二人でここで働けることを。
こんな匂いだったかな、と思うほど枝折にとって店が懐かしく感じるのはなぜか。
考えれば考えるほど、コナの思いと真逆になってしまう。
カウンター席に座った枝折がコナが淹れてくれたお茶を飲むと痩せた体に温かく沁み渡っていった。
「手術が終わって、元気になったら店を開けるわ」
「はい」
「それまでコナがここを守ってちょうだい」
はい、と力強く頷いたコナに枝折が微笑む。
そしてコナのために絶対にここへまた立とうと決心した。
それもまた生きる気力となる。
生きたいと思う気持ちが溢れてきた。
負けてなどいられない。
淹れてくれたお茶を枝折が飲み干すと、コナはうれしそうに笑っていた。
二人でお茶を飲んでいるとドアから篤子が
ひょこっと顔を出した。
「え?どうしたの篤子」
まだ昼間だ。普段なら眠っているはずの篤子が
Gパンに薄手のセーターというラフな格好で現れのだ。
枝折が驚くのも無理はなかった。
「退院おめでとう。あんたマンションに一人でしょ?」
「そうだけど」
何を当たり前のことを聞いているのか。
枝折が首を傾げた。
「俺が一緒にいるよりも篤子さんの方がいいかなって」
「なにが?」
「枝折さん、今体がしんどい時だから。
でもごはんもちゃんと食べてほしいし」
コナが篤子に頼んだのだ。
手術までの間、篤子と暮らしてもらえるように。
枝折が眉を下げて笑った。
「大丈夫よ。仕事も休みなんだから自分のことぐらい自分でできるわ」
「枝折。手術までに体力つけないとなのよ。
見てみなさい自分の体。男のくせに私より
スタイル良くなっちゃって。
私は夜はいないけど、夜はあんた寝てるだけだからいいでしょ」
「でも、」
篤子も働いているのだ。迷惑はかけられない。
しかし歩くとふらつくほど痩せてしまった枝折は、篤子の言うように手術までに体力をつけないと乗り越えられるものの乗り越えられなかった。
「枝折を一人にしておく方が心配よ」
「ありがとう」
「自分の家の方が落ち着くだろうから、私が
おじゃまさせてもらうわね」
男なのに女として生きることを決めてから、
枝折は全てを捨ててきた。
そしてこの先も何も持つことはないと決めて
生きている。
そんな枝折にも家族がいたのだ。
コナと篤子が優しい笑顔で枝折を見ている。
幸せだ、と枝折は心の中で手を合わせた。
「四季にも今日、枝折のことを言うわ。
コナ。四季と一緒に見つかったお父さんに会いに行くんでしょ?」
篤子も四季から全てを聞いていた。二人の父親が同じ人物だったこと、そして異母兄弟である可能性があること。
四季とコナの心中を察すると胸が痛いのは篤子も同じだ。
二人が友達ではない好意を抱き合っていることがわかっているのだから。
「うん。枝折さんが会ってこいって」
「あなたたちなら…大丈夫よ」
篤子に強く頷いたコナ。
枝折は安心して見ていた。
四季とコナが傷つかなければそれでいい。
それだけが枝折と篤子の願いだった。
仕事が終わった四季はタクシーに乗っていた。
店がある歌舞伎町からマンションのある銀座まで、ネオンがだんだんと大人っぽくなっていくのを四季は毎日ように眺めていた。
篤子に聞いてから枝折のことが頭から離れない。
篤子と同様に可愛がってくれる枝折はもう親よりも親だ。
枝折が死ぬわけがない、と篤子は元気に言っていたが、四季は篤子の隠しきれていない不安を感じ取っていた。
本当に大丈夫なのだろうか。コナはどれほど
ショックを受けているのだろう。
そんなことも知らずに父親の話をしたのに、
コナはそれについてもちゃんと聞いてくれた。
もうすぐマンションに着く。
四季が携帯を取り出すと弁護士の
マンションについてすぐに電話をすると、夜遅い時間なのに蒼はすぐに出た。
「蒼さんごめん。遅い時間に」
「全然。四季くんおつかれさま。ライン見てくれたんだよね?」
蒼は社長が会う時間が決まりました、とひとこと送っただけだったが、四季と電話で話をしようと思っていたのだ。
四季は携帯を耳に当てながら部屋の電気とエアコンをつけ、ひんやりとしたソファに座った。
「来週の月曜日。夜の7時頃なら仕事が落ち着くので会うとおっしゃっていましたよ」
蒼は若いのに優秀な弁護士だ。山城佳樹の信頼も厚い。
その蒼が頼んだからなのだろう。
佳樹は家を出て行った息子に会うつもりになったのだ。
「コナのことは?」
「コナくんはうちの事務所のものとして来てもらうよ。
頃合いを見て、社長に紹介しようと考えてる。
いきなりだったら進む話も進まないかもしれないしね」
父はなんと言うのだろう。展開が全く読めない。
蒼もいるから心強いが、先が見えないほど不安なことはない。
真実を教えてくれるのか。しかしそれを聞くのも怖い。
コナは最初で最後になるから父に会うと言っていた。
自分も覚悟を決めなければ。
コナはもっと苦しい思いをするかもしれないのに父親に会う、と言っているのだ。
蒼との電話を終えて、四季はソファに沈む。
父である山城佳樹とは親子らしい会話などしたことがない。
しかしコナを守らなけば。
コナを守るのは自分しかいない。
【来週の月曜日19時に決まったよ】
ラインでは枝折のことを触れられなかった。
コナにそれだけを送信する。そして四季は目を閉じた。
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