第2話 枝折の落とし物




コナがカウンターの中から店内を見回す。

入り口を挟んでカウンター席が6席。向こうに4人ほど座れるボックス席が二つある。


ベージュを基調とした店内は明るくもなく暗くもない。

まだできて間がないのか、コナには新しく感じた。


「もしもし。枝折です。おはようございます」


枝折がカウンターの椅子に座って電話をしている。

携帯を持っている細い手にはキレイなネイル。

コナはそれに見とれていた。そして枝折が夕方なのにおはよう、と言ったことに首を傾げた。


「今から予約してない人もいける?ううん。

男の子。

やあねえ。従業員よ。うん。じゃあよろしく」


携帯を小さなバッグに入れて枝折が立ち上がった。


「さ、行くわよ」

「どこにですか?」

「美容室。

いつも出勤前にセットしてもらうの」


なぜそれに自分もついていくのか。

コナがまた首を傾げていると枝折はもう入り口のドアを開けていた。


「コナ。早く」

「はい、えっと、」

「手ぶらでいいのよ」


枝折に言われるがままにコナはダウンだけ着て店から出た。





「あら。あらあらあら」


美容師がコナの周りを360°回ってニコニコしている。

枝折は大きな鏡から離れたところにあるソファに座ってコーヒーを飲んでいた。


「髪の毛ふわふわ。イケメンになるわよ。

枝折ちゃん」

「眉毛もしてね。ボーボーだから」


ふふふ、と美容師が笑う。その前でコナは

ケープを掛けられて大きな鏡に向かっていた。


「枝折さん、」

「お金のこと?いいわよ」

「良くないです」

「まあ、そういうの、大事にしてる方がいいけどね」


枝折の言った意味がわからず、コナは後ろを振り向く。

美容師が笑いながらコナの頭を掴んで前を向かせた。


「長めの方が似合うと思うわ」

「おまかせで」

「それにしても整った顔してるのね。

色も白いし。

コナくんのお父さんとお母さん、さぞかし美人なんでしょうね」


コナが愛想笑いをする。枝折は何も言わずに

コーヒーカップを口に運んでいた。






別人だ。洗面所の鏡がキレイに磨かれているからではなく

鏡に映ったコナはほんの数時間前とは別人のように垢抜けていた。


「コナ」


もうここはコナの部屋だと言っているみたいに枝折は声をかけてノックする。

コナがドアを開けると大きなビニール袋を

持った枝折が立っていた。


「いつまで見てるの。鏡に穴が開くわよ」

「なんだか俺じゃないような気がして」

「コナは本当にキレイな顔ね。

顔だけじゃないけど」


おじゃまします、と言って枝折が部屋に入る。

コナも続いて入ると枝折が持っていたビニール袋から黒のシャツとズボンを取り出した。


「これ制服。

前に勤めていた子のお下がりだけど

クリーニングに出してるし、買い替えてまもないからいいわよね?」

「全然。ありがとうございます」


コナが早速着替えてみる。少し袖が短いが大丈夫そうだ。

部屋の壁にも掛けてある鏡を見ながらコナが襟を整えているのを、枝折は床に正座して見上げていた。


「コナ」

「はい」

「今日からコナのママは私よ」

「枝折さん…」

「あ。パパか」


コナが後ろを振り向くと、優しい顔で枝折が微笑んでいる。

ヘアセットしてメイクした枝折は本当に美しく、そして穏やかな笑顔だった。


「だから、困ったことや悩んでること、

なんでも私に言いなさい。

もちろんうれしかったことや楽しかったことも

聞かせて」

「…ありがとうございます」

「私はこんなだし、もう子供は持てないと

思ってたからうれしい。コナみたいないい子が息子で誇らしいわ」


コナの頬に涙がひとすじつたう。


祖父母の家から出たのは昨夜だ。

24時間も経っていないのに、コナは今まで感じたことのない幸せを感じていた。


枝折のために一生懸命働こう。

いつか恩返しできるように。


コナは涙を拭って、鏡の中の自分を見つめた。





着いたところで疲れているから、今日は店に

出なくてもいい、と枝折は言ったが、コナは

とりあえずカウンターの中に居させて

ください、と頼んだ。


branchの営業時間は21:00〜3:00までだった。

21:00に開店するとすぐに客が入ってきて、満席になる。

これでは枝折だけでは大変だ。

何もわからないまま、コナは枝折を手伝った。


「コナ。悪いけどボックス片付けてきて」

「はい」


トレーとアルコールの染みたペーパータオルを持って、コナがボックス席を片付けに行く。

本日何回目かのこの作業。しかしコナは高そうなグラスを割らないように丁寧に仕事をした。


1:00を回った。ボックス席に一組客がいるだけになった。

コナが無意識にふう、と口から大きな息を

吐く。

それを見た枝折が洗い物をしているコナの肩に後ろからぽん、と手を置いた。


「助かったわ。でも疲れたでしょ」

「いえ。慣れなくて」

「接客業は初めてなのね。見てたらわかるわ」

「すみません」

「なんで謝るの?ホントにめちゃめちゃ助かったし、全然できてる。

ひとつ言わせてもらうなら元気がないかな。

まあ昨日の今日で疲れてるんだろうけどね」


ボックス席の客は3人で楽しそうに飲んでいる。

枝折がカウンターの奥から小さな丸椅子を出してきてコナを座らせた。


「疲れてないんですけど、今まであまり人と

関わってこなかったので」


家でも祖父母とはひとことも話さない。

学校でも友達と呼べる人はいなかった。

バイトも工場の流れ作業。おつかれさまです、と言う以外は誰とも話さずに働いていたのだ。


「いらっしゃいませ、だけでも大きな声で

言ってみな?

これからのコナが変わるわよ」

「これからの…」

「そう。ニコッと笑ってね。

いらっしゃいませって。

来てくれてありがとうって気持ちを込めたら

自然と笑顔になるのよ」


笑顔が増えたら幸せもどんどん増えていく。

枝折はコナはこれからそうなるから、と言った。


入り口のドアが開く。枝折が輝くように美しい笑顔でいらっしゃいませ、と言った。


「い、いらっしゃいませ」

「いいわよコナ。その調子。すごくいい」


コナが恥ずかしそうに目を細めて笑った。


「おはよう。あら。新しい子入ったの?」


枝折に負けないぐらいキレイな女性がひとりで入ってきた。

カウンターに座ってボブの髪を耳に掛けながらコナを見上げた。


「こちら、このすぐ近くのクラブのママ。

篤子あつこママよ」

「初めまして。山城コナと申します」

「可愛い。篤子です。よろしくね。水商売は

初めてなのね」


せっかく枝折にキレイにしてもらったのに、やっぱり田舎くさいからわかってしまうのだろうか。

コナが少し下を向く。

枝折がコナの肩を抱いて顔を上げさせた。


「この子山形から出てきたのよ。しかも今日」

「え?この辺の子だと思ってたわ」


コナが目を丸くして枝折を見る。

まさか銀座のクラブのママに東京の人だと思われていたなんて。

じゃあなぜ篤子は水商売が初めてだとわかったのだろう。


「悩んでるー。可愛いわね」

「コナはなに悩んでるの?」

「あの、」


枝折が篤子の前にオレンジ色の酒が入った

グラスを置く。

篤子は楽しそうに頬杖をついてコナを見ていた。


「なんで水商売が初めてだ、って篤子はわかったんだろ?

田舎から出てきたことはバレてないのに、

でしょ?」

「そうなの?」

「は、はい」


なるほど、と枝折が顎に人差し指を当てる。

篤子は大好きなマリオネットを飲んでくすくす、と笑い、ボブの髪をさらりと揺らした。


「名字を名乗ったからかな」

「篤子さんは名字…」


そういえば、篤子と枝折の苗字を知らない。

というか本名かどうかもコナは知らなかった。


「染まることはないんだけど、これから自分の名前を名乗る時やお客さんに聞かれた時は下の名前だけ言った方がいいわね。

本名でしょ?悪用されても困るし」


篤子が優しく頷きながらそう言った。


「でも、コナっていい名前でしょ?源氏名も

考えたんだけどこのままでいいわよね?

篤子はどう思う?」

「素敵な名前ね。そのままでいいわ。

コナに合ってる」


いい名前。素敵な名前。

そんなこと今まで一度も言われたことがなかった。

からかわれたり、変な名前だとバカにされたことは山ほどあったが。


コナが持っている、篤子にもらったジュースの入ったグラスが震えた。


「ありがとうございます。初めてです。

名前を褒めてもらったの」


目の奥が熱くなった。優しく微笑んでいる枝折と篤子がグラスを差し出して3人で乾杯をした。




あと30分で閉店だ。自分の店が終わってからやってきた篤子もそろそろ帰る支度を始めた。


「コナ。これどうぞ」


篤子がバッグからポチ袋のような小さな袋を

取り出してコナに渡した。


「なんですか?」

「んー。チップかな?

今日はコナと話せてすごく楽しかったから。

お礼よ」

「いただけません。俺なんか、」


篤子が手を伸ばして、コナが返そうとしている袋をグイッと押し返した。


「ありがとうございます、ってもらうのよ。

客はそれがうれしいの」

「はい。ありがとうございます篤子さん」

「いいえ。またお話しましょうね」


枝折とともにコナも篤子を見送りに階段を

上がる。

ここへ来た時に眠っていた街はすっかり目を

覚ましたかのように煌めいていた。


コナがいた地では考えられないことばかりだ。

篤子がタクシーに乗り込んでからも、コナは色とりどりの街を見つめていた。


「もう閉めようかな」


そう言いながら枝折が階段を降りていく。

ヒールの音で我に返ったコナはあわてて階段を降りた。



「店の鍵はこれね。コナの部屋には明日にでも鍵をつけてもらうように手配するから」

「俺は別に、」

「いろんな人が出入りするからね。

これは私からのお願い」


枝折がパチパチ、と壁のスイッチを押す。

カウンターの上にぶら下がっているペンダントライトの明かりだけを残して後は真っ暗に

なった。


「明日は昼過ぎに来るわ」

「はい」

「おつかれさま。また明日ね」

「おつかれさまです」


見送ろうとしたコナを枝折が止めた。


「一分でも早く寝なさい。体が資本よ」

「はい」

「おやすみ」

「枝折さん」


コナは枝折に向かって深々と頭を下げた。


「本当に…俺を、拾ってくれてありがとうございました」

「元々、私の落とし物だったのかしらね」

「…」

「じゃあ、コナは戻ってきたのね。本当にいるべき所に」


涙の滲んだ目をぎゅっと閉じて、コナは

もう一度枝折に頭を下げた。


「…はい」

「良かった。私もコナも」


階段を上がる枝折のヒールの音が遠く聞こえる。

誰もいなくなった店を見渡してから、コナは

自分の部屋に入った。


風呂に入ってふかふかのベッドに横たわる。

いい香りのシーツ。祖父母の家では体が痛くなる薄い布団だったので、逆に眠れるか心配に

なった。


「あ、そうだ」


篤子からもらった小袋をハンガーに掛けていた制服のポケットから取り出す。中身を見てみると3万円入っていた。


「3万?」


工場の流れ作業のバイトで、一週間働いても

もらえない金額だ。

千円ぐらい入っているのかと思っていたコナは驚いた。


こんなにもらえないと明日返そうかと考えたが、これは篤子の気持ちなのだ。

話をしていて楽しかったからそのお礼だと言っていた。

しかし自分なんかと話してなにが楽しいのだろう。

コナには全くわからなかった。


「ダメだダメだ」


誰もいない部屋でコナは首をぶんぶん、と横に振る。


俺なんか、と思ってはいけない。

それは雇ってくれた枝折や、楽しいと言ってくれた篤子に失礼になるのだ。


かといって自信満々でいるのとは違う。

感謝しろ、ということなのだ。


「ありがとう。篤子さん」


そう呟き、目を閉じるとうれしそうに笑う篤子と枝折が瞼の裏に浮かぶ。


枝折と篤子の笑顔に包まれていたくてそのまま目を閉じていると、いつのまにかコナは深い眠りに落ちていた。





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