第3話 抽出される希望

 領地の空気は重く、喉の奥に鉄錆のような不快な味を残した。

 乾ききった大地が巻き上げる砂埃のせいだろうか。僕は咳き込みそうになるのを堪えながら、集落の外れを歩いていた。

 視界に入るのは、ひび割れた農地と、背の曲がった老人たち。

 活気がない、という言葉では生ぬるい。諦観という名の重力が、人々の肩を押し潰しているようだった。


 ――そんな灰色の世界で、そこだけが異質だった。

 森の境界線に近い、日当たりの悪い斜面。猫の額ほどの狭い土地に、頼りなく、しかし意地のような緑がしがみついていた。

 だが、その緑も限界を迎えつつある。葉先は黄色く変色し、茎は水分不足でぐったりと垂れ下がっていた。

 植えられているのは、一般的には家畜も食わないと吐き捨てられる雑草だ。青い葉脈が浮き出た不気味な草と、石のように硬い根を持つ植物。


「……『青脈草あおみゃくそう』に、『石噛いしがみ根』か」


 自然と口から名が出る。これらは扱いが極めて難しい植物だ。強力な薬効を持つ反面、毒素を含んでいたり、細胞壁が硬すぎて成分が溶け出さなかったりする。

 今のこの領地同様、ただそこにあるだけでは価値を持たない代物だ。


「――あれ? アレン様?」


 鈴を転がしたような声に、思考が中断される。

 斜面の上、薬草畑の中でしゃがみ込んで作業していた少女が、驚いたように顔を上げた。

 リーゼだ。栗色の髪を無造作に束ね、頬には泥がついている。

 記憶の中よりも大人びて、十五歳になった今は素朴だが目を引く可憐さを湛えていた。その手にはじょうろ代わりの重い水瓶が握られており、肩で息をしている。


「リーゼ、久しぶりだね。……精が出るな」

「お帰りなさいませ! アレン様、王都から戻られたって噂で聞いて……本当に戻っていらしたんですね!」


 彼女はパッと花が咲くように笑った。その笑顔は、この乾いた領地で唯一の水源のように眩しい。


「……苦労しているようだね。この『青脈草』、育てるのは難しいだろう」

「えへへ、そうなんです。毎日お水をあげてるんですけど、すぐに元気がなくなっちゃって……」


 リーゼは足元に重い水瓶を置くと、荒れた手をエプロンの後ろに隠しながら明るく答える。

 だが、僕の目には見えてしまった。

 隠そうとした指先の深いあかぎれ。爪の間に食い込んだ泥。そして何より、カサカサに乾燥した肌。


 それに、笑顔もどこか不自然だった。

 笑った瞬間、目尻がほんの一瞬だけ引きつる。無理に口角を上げようとする力が、唇をわずかに震わせている。

 それは、長期間の極限状態に晒された人間特有のSOSのサインだ。


「弟のリック君はどうしてる? 昔はよく一緒に遊んだっけ」


 何気なく尋ねた瞬間。リーゼの笑顔が、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。

 視線が泳ぎ、唇が震える。背中の後ろで、隠した両手が強く握りしめられるのが分かった。


「……リックは、その。ちょっと、風邪をこじらせちゃって」

「風邪?」

「はい。熱が下がらなくて……もう、ひと月くらい。お医者様も薬をくれたんですけど、どんどん痩せちゃって……」


 ひと月も続く熱。消耗。僕の脳内で、前世の医学知識が高速回転し始める。この地方特有の風土病、「肺腐(はいぐさ)れ病」――重度の細菌性肺炎に近い症状だ。

 確認しなければ。


「咳は? 痰に色はついている?」

「え……? は、はい。黄色い痰が出て、夜になると火がついたみたいに熱くなるんです。最近は、お水も飲めなくて……」


 リーゼの声が次第に小さくなり、最後は消え入りそうになった。彼女は足元の、枯れかけた『青脈草』を見つめる。


「村の古い言い伝えで……この草が熱冷ましになるって聞いて。お医者様の薬も効かないから、私、これに賭けるしかなくて……」


 リーゼは震える手で、枯れかけた葉を撫でる。


「でも、飲ませるとリック、苦しそうにするんです。お腹を押さえて、うなって……。熱は下がらないのに、どんどん衰弱していって」


 彼女の瞳に、暗い恐怖の色が浮かぶ。


「私、間違ってるんでしょうか? 助けようとして、逆にリックを苦しめてるだけなんじゃ……」


 当然だ。青脈草の有効成分は、毒素と結合している。ただ煮出すだけでは毒を飲ませているようなものだ。

 彼女は弟を助けたい一心で、結果的に弟を苦しめている。もしリックが死ねば、彼女は一生自分を責め続けるだろう。


 ポツリ、と。

 乾いた土に、雫が落ちて染みを作った。


「アレン様、私、どうしたら……」


 彼女の肩が小刻みに震え始める。限界だったのだ。笑顔の仮面の下で、十五歳の少女はたった一人、弟の死という恐怖に耐えていた。


 胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。『青脈草』には強力な抗生物質が含まれている。『石噛み根』のアスピリン類似成分は熱を下げる。

 素材はここにある。足りないのは、それを正しく使う知識だけだ。


 必要なのは抽出。毒素の分離。そして濃縮。


 僕にはできる。

 攻撃魔法の才能はなくても、錬金術の知識なら誰よりも熟知している。


「リーゼ」


 僕は彼女の震える肩に手を置いた。驚いたように、涙に濡れた瞳が僕を見上げる。


「その草、少し分けてくれないか」

「え……? はい、構いませんけど……でも、アレン様……これ、本当に薬なんでしょうか? 私が飲ませるたびに、あの子が……」

「煎じるからダメなんだ。僕が『錬金術』で、本当の薬に変えてみせる」


 きょとん、と彼女が瞬きをした。無理もない。この辺りでは錬金術なんてほとんど知られていない。


「リック君は助けられる」


 確信を込めて告げる。その言葉を聞いた瞬間、リーゼの瞳孔が開いた。


「……本当、ですか? こんな雑草で、本当に、リックが……?」

「約束する。今夜中に仕上げるから、明日の朝一番で届けに行くよ」


 リーゼは言葉を発しなかった。ただ、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って声を殺して泣いた。

 僕は枯れかけた青脈草を数本、丁寧に引き抜いた。

 絶対に治す。この涙を、明日には本物の笑顔に変えてみせる。



 屋敷の地下にある倉庫を片付け、僕は即席の研究室ラボを作り上げていた。

 ランプの薄明かりの中、持ち帰った草根が机の上に並ぶ。試験管代わりの細長いガラス瓶。蒸留に使う銅製の管。

 学院でガラクタ集めと馬鹿にされていた道具たちが、今は頼もしい相棒だ。


「よし、始めよう」


 深く息を吸い込み、集中を高める。

 まずは『石噛み根』を粉砕。硬い繊維質を物理的に破壊し、酸性の溶液に浸して細胞壁を溶かす。

 次に『青脈草』。こちらは慎重に。

 エタノール――これは度数の高い蒸留酒で代用――を溶媒として、有効成分と毒素を同時に溶かし出す。


 ボコボコと液体が沸騰する音。立ち上る独特の、鼻を突く青臭さ。普通ならここで終わる。だが、僕の錬金術はここからが本番だ。


「毒と薬を、切り離す……」


 目を閉じ、液体の中のミクロの世界をイメージする。

 有効成分に絡みついた、毒素という泥。その結びつきを、魔力というメスで切り離していく。

 僕の魔力は微弱で、破壊には向かない。

 だが、物質の隙間に入り込むことに関しては、誰よりも繊細にコントロールできる。


 分離。濾過。再結晶。


 ドロドロと濁っていた深緑色の液体が、工程を経るごとに透き通っていく。底には黒い澱が沈殿し、上澄みには純粋な薬効成分だけが青白く輝き始めた。

 まるで、月の光をそのまま液体にしたような美しさだ。


 額から汗が滴り落ちる。魔力の消費による軽い目眩がしてきた。

 だが、手は止めない。温度管理、撹拌かくはんの速度、すべてが計算通りに進んでいく。


 ――できる。

 見向きもされなかった植物の中に眠る「力」を、僕の知識が解き放っている。


 最後の工程。濃縮された抽出液を、小瓶に移す。コルクで栓をした瞬間、瓶の中で淡い光が脈打った。

 まるで命そのものを封じ込めたかのような、柔らかな輝き。


「完成だ……」


 特製抽出ポーション。

 ただの煎じ薬の数百倍の薬効を持ち、副作用を極限まで取り除いた命の水。小瓶を握りしめる。ほんのりとした熱が、掌に伝わってくる。

 それは、明日リーゼと、その家族に届ける希望の温度だった。


 窓の外は既に白み始めている。徹夜明けの疲労感はあるはずなのに、胸の高鳴りは止まらなかった。

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