第2話 枯れた大地と、しょっぱいスープ

 お尻の皮が剥けるんじゃないかと思うほど、安物の貸し馬車は揺れた。ガタガタと車輪が悲鳴を上げるたび、僕の胃袋も呼応するようにきりきりと痛む。


 王都を出てから三日。風景から色彩が失われていくのが分かった。青々とした並木道も、整備された石畳も、とうの昔に姿を消している。窓の外を流れるのは、赤茶けた荒野と、墓標のように立ち枯れた木々だけだ。


 ヴェルナー男爵領。王国の辺境に位置する、僕の故郷。


「……ひどいな」


 窓枠に肘をつき、思わず独り言が漏れる。記憶の中の故郷も決して豊かではなかったが、これほどではなかったはずだ。畑らしき場所には、ひょろひょろとした小麦が、まるで命乞いをするように弱々しく風に揺れている。葉の色が悪い。黄色く変色し、茎が細すぎる。


 ――窒素欠乏、あるいは土壌の酸性化か。


 無意識に前世の知識が脳裏をよぎる。

 ……皮肉なものだ。王都のエリートたちが『土地の呪い』だの『魔力不足』だので片付ける現象が、僕には手に取るように分かる。彼らが嘲笑った『錬金術』こそが、この死にかけた大地を救う唯一の鍵だというのに。


(――でも、今の僕はただの『落ちこぼれ』だ)


 知識はある。解決策もある。けれど、魔法を使えない落ちこぼれの言葉に、父上や領民たちが耳を貸してくれるだろうか。それが怖くて、僕は握りしめた拳に力を込めるしかなかった。



 やがて、丘の上に古ぼけた屋敷が見えてきた。石壁の一部には蔦が絡まり、修繕の手が回っていないことが遠目にも分かる。あそこが僕の家だ。


 心臓の鼓動が早まる。指先が冷たい。学院を追放された長男。家の期待を背負って王都へ行ったはずが、何の成果も上げられずに尻尾を巻いて逃げ帰ってきた恥さらし。


 父上は怒るだろうか。母上は泣くだろうか。「勘当」だと怒鳴られる光景を想像し、僕は呼吸を止めた。


 馬車が軋んだ音を立てて停止する。御者が「着きやしたぜ」と不愛想に告げた。重い扉を押し開け、足を踏み出す。土の匂い。乾いた風。


 そして――


「アレン!!」


 馬車のステップに足をかけた瞬間、大質量の何かが突進してきた。視界がふさがれ、次の瞬間には呼吸困難なほど強く抱きしめられていた。革の鎧の匂いと、汗と、土の匂い。


「ち、父上……? ぐるじい、です……」

「おお、すまんすまん! いやあ、お前が帰ってくるという手紙を見てから、もう居ても立ってもいられなくてな!」


 豪快に笑いながら僕を解放したのは、父バルト・ヴェルナーだ。日に焼けた赤銅色の肌、岩のようにゴツゴツとした手。熊のような巨躯だが、その瞳は少年のように屈託がない。


「おかえりなさい、アレン」


 父の背後から、母エリーゼが歩み寄ってくる。かつては王都の社交界でも評判だったという美貌は健在だが、目尻の小じわと、少し痩せた頬が生活の苦労を物語っていた。母は僕の頬にそっと手を添える。その手は温かく、少し震えていた。


「顔色が悪いわ。痩せたんじゃない? 学院のご飯は口に合わなかった?」

「母上……」


 その優しさが、鋭利な刃物のように胸に刺さった。罵倒されたほうが楽だった。  怒鳴り散らしてくれたほうが、よほど救われた。


「あの、父上、母上。僕は……」


 喉の奥が詰まる。言わなければならない。自分がどれほど無様な理由で戻ってきたのかを。


「僕は、学院を退学になりました。魔法の才能がないと……期待に応えられなくて、申し訳ありま――」


 言葉の途中で、父の大きな手が僕の頭の上に置かれた。ガシガシと、髪が乱れるほど乱暴に撫で回される。


「バカ野郎」


 父の声は、呆れるほど明るかった。


「生きて帰ってきた。それだけで十分だ。魔導師になれなくたって、お前は俺の自慢の息子だ」


「そうよ、アレン。あなたが傷ついて帰ってくることのほうが、私たちは怖かったの」


 母が僕の手を握りしめる。視界がぐにゃりと歪んだ。堪えていたものが決壊しそうになるのを、僕は必死に奥歯を噛み締めて耐えた。


 泣くな。泣く資格なんてない。十七歳にもなって、親に心配をかけて、そのうえ泣くなんて。


「……ただいま、戻りました」


 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。



 夕食のテーブルには、湯気を立てるスープと、硬そうな黒パンが並んでいた。具材はわずかな野菜屑だけ。肉などひとかけらも見当たらない。広すぎる食堂に、カチャカチャと食器の触れ合う音だけが響く。


「領地の状況は……あまり良くないようですね」


 努めて冷静な声を出し、僕は聞いた。父がスープを啜りながら、苦笑いを浮かべる。


「まあな。見ての通り、ここ数年は不作続きだ。塩などの輸入品も高騰していてな……すまん、味気ない食事で」


 そう。スープを一口飲むと、ほとんどお湯のようだった。野菜の薄い風味だけ。塩気がない。内陸の辺境領にとって、塩は金と同等の価値がある。今のヴェルナー家には、スープに塩を入れる余裕さえないのだ。


 ――なのに。僕の留学費用のために、両親はずっとこんな食事を続けていたのか。  僕が王都で、成果の出ない実験に明け暮れていた間も。


 胸が詰まる。鼻の奥がツンと痛くなった。


 ポタリ。


 スプーンを持つ手が震え、雫がスープ皿に落ちた。一滴、二滴。堪えていたものが決壊し、ボロボロと涙が溢れ出した。


 慌ててスープを口に運ぶ。


「……しょっぱい、です」


 味がした。 さっきまでは無味乾燥だったスープから、塩の味がする。自分の不甲斐なさと、両親の愛が溶け込んだ、とびきりしょっぱい味が。


「……おいしいです。母さん」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、僕は笑顔を作った。母さんが優しく微笑み、父さんが何も言わずにパンをかじる。


 僕は知っている。学院の研究室で、ビーカー越しに見てきた「物質の理」を。このスープの塩分濃度も、パンの発酵プロセスも、そして窓の外に広がる死にかけた大地の原因も。


 魔法は使えなかった。敵を焼き尽くす炎も、吹き飛ばす風も起こせない。


 でも、土の中の窒素を補うことなら?  作物の病気を治す薬を作ることなら?


 ――できるかもしれない。いや、僕にしかできない。


 僕がこの世界で、この家で生きていく意味。落ちこぼれの錬金術師が、この優しい家族のためにできること。


「父上」


 顔を上げる。父と母が、不思議そうに僕を見た。


「僕に、領地のことを手伝わせてください。……剣も魔法も使えませんが、僕なりに学んできたことがあります」


「錬金術か?」

「はい。……笑われるかもしれませんが」

「笑うもんか」


 父は真剣な眼差しで僕を見据えた。


「お前がやりたいなら、やれ。ここはヴェルナー領だ。お前の家だ。好きなように暴れてみろ」


 胸のつかえが、すっと取れた気がした。握りしめた拳に力が入る。まだ、何も成し遂げていない。でも、スタートラインに立つ許可はもらえた。



 夜、自室のベッドに潜り込んでも、なかなか寝付けなかった。天井の染みを見上げながら、これからの計画を練る。まずは現状把握だ。土壌のサンプル採取、水源の調査、そして……。


 ふと、廊下から話し声が聞こえた。古い屋敷だ。ドアの隙間から声が漏れてくる。


「……あの子、無理をしていないかしら」


 母の声だ。


「大丈夫さ。昔から真面目な子だ。きっと王都で辛いことがあったんだろうが……今はそっとしておいてやろう」

「ええ、そうね」


 気配が遠ざかっていく。僕は布団を頭まで被り、暗闇の中で小さく息を吐いた。母さんは鋭い。でも、心配はいらないよ、母さん。


 僕はもう、ただの落ちこぼれじゃない。この領地を、あなたたちを守るために、僕は僕のやり方で戦う。


「……やってやるさ」


 暗闇の中で握りしめた手には、確かな熱が宿っていた。

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