第4話 夜明けの呼吸音
朝霧が立ち込める中、僕はリーゼの家へと急いだ。手の中には、昨晩完成したばかりの小瓶。体温で温まったガラスの感触だけが、凍てつくような不安を和らげてくれる唯一の拠り所だった。
リーゼの家は、集落の中でも特に古びた木造の平屋だった。戸口には魔除けの枯れた花が吊るされている。医学が未発達なこの世界で、人々ができる精一杯の抵抗なのだろう。それがひどく頼りなく見えて、胸が締め付けられる。
扉を叩くと、すぐにリーゼが出てきた。赤く腫れた瞼の下には濃い隈がある。一睡もしていないのは明らかだった。
「アレン様……。お待ちしていました」
声が枯れている。僕を招き入れる手つきが、微かに震えていた。
家の中は薄暗く、独特の匂いが充満していた。閉め切った部屋のこもった空気、古びた布団の匂い、そして――生き物が朽ちていくような、甘く腐ったような死の匂い。
部屋の奥、粗末なベッドに少年が横たわっていた。リックだ。記憶の中の彼は、野原を駆け回る元気な男の子だった。だが今、そこにいるのは骨と皮ばかりに痩せ細り、苦しげに喘ぐ小さな命の灯火だった。
「ヒュー……ヒュー……ッ」
呼吸音が異常に浅く、速い。胸が上下するたびに、肋骨が浮き出るのが痛々しいほどはっきりと見える。額に触れると、火傷しそうなほどの高熱だった。
「昨日の夜から、一度も目を覚さなくて……」
リーゼが絞り出すように言う。隣で両親も不安そうに手を握りしめ、祈るように僕を見つめている。その視線の重さに、僕は押し潰されそうになった。
もし、効かなかったら? もし、副作用が出たら?
――いや、迷うな。迷っている時間こそが、彼を殺す。
僕は大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たした。脳内の雑音をシャットアウトする。
「リーゼ、枕を外して顎を上げてくれ。気道を確保する」
僕は小瓶のコルクを抜いた。ふわりと、清涼感のある香りが漂う。死の匂いが支配する部屋に、異質なほど澄んだ香りが広がった。
意識のない人間に液体を飲ませるのは危険だ。間違って肺に入れば、それだけで命取りになる。僕は慎重にリックの口を開かせると、スポイト代わりの綺麗な布に薬液を染み込ませた。
「間違って気管に入らないよう、少しずつ粘膜から吸収させる……」
独り言のように呟きながら、舌の裏側や頬の内側に、慎重に薬液を垂らしていく。喉の反射を確認しながら、数分かけて全量を投与し終えた。
僕は彼を寝かせ、その場に膝をついた。あとは待つしかない。血流に乗って成分が全身を巡り、病原菌を攻撃し始めるまでの時間を。
一分、二分……。永遠にも思える沈黙が流れる。聞こえるのは、リックの苦しげな呼吸音だけ。リーゼが祈るように両手を組んでいる。その指先が白くなるほど力がこもっている。僕も自分の脈拍が早まるのを感じていた。
頼む。頼む。僕の信じる
時計のない部屋で、時間だけが重く流れていく。投薬を終えてから、おそらく十分近くが経過しただろうか。
「……あ」
リーゼが小さな声を上げた。リックの呼吸が変わった。
「ヒュー、ヒュー」という笛のような狭窄音が消え、深く、ゆっくりとしたリズムへと移行していく。
そして、明らかな変化が訪れた。酸素不足で青白くなっていた唇や爪に、さっと赤みが戻り始めたのだ。同時に、全身からじわりと汗が滲み出した。熱が下がろうとする時の、解熱反応だ。
「汗が……熱が、下がってきてる……?」
リーゼの母親がおそるおそるリックの額に手を触れ、目を見開いた。
「あんなに熱かったのに……! あなた、熱の引き始めだわ!」
リックは目を覚ましはしなかった。けれど、苦悶に歪んでいた眉間の皺が消え、穏やかな寝息を立て始めている。それは死に向かう昏睡ではなく、回復のための安らかな眠りだった。
「峠は、越えたみたいだ」
僕が静かに告げると、
「リック! ああ、リック……っ!」
リーゼがベッドの縁に崩れ落ちた。わあっと泣き崩れる声が、狭い部屋に響き渡る。両親も抱き合って涙を流している。
僕は、力が抜けてその場にへたり込んでしまった。よかった。本当に、よかった。手のひらを見ると、びっしょりと手汗をかいていた。
魔法で瞬時に治したわけじゃない。でも、僕はこの手で、確実に一つの命を死の淵から引き戻したのだ。
家を出ると、まぶしい朝陽が目に刺さった。いつの間にか、家の周りには人だかりができていた。近所の領民たちが、心配して様子を見に来ていたのだ。僕が出てくると、一斉に視線が集まる。
その中から、リーゼが飛び出してきた。
「アレン様!」
彼女は僕の目の前まで駆け寄ると、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました……! 呼吸が……あんなに楽そうに……っ」
嗚咽混じりの声で、彼女は何度も礼を言った。地面に涙の粒がこぼれ落ちる。顔を上げた彼女の表情を見て、僕は息を呑んだ。涙でぐしゃぐしゃなのに、それは満面の笑みで――今まで見たどんな宝石よりも輝いていた。
「リックは、助かったのか?」
集まっていた村人の一人がおずおずと尋ねた。
「ああ。もう呼吸も落ち着いて、ぐっすり眠ってるよ」
僕が答えると、どよめきが広がった。
「あの『肺腐れ』の発作が治まっただと?」
「医者も見放してたのに……」
「アレン様って、魔法はからっきしだって聞いてたが……すげえ錬金術師様だったのか!」
称賛の声がさざ波のように広がっていく。「すごい」「ありがとう」「アレン様」。今まで「役立たず」「落ちこぼれ」という言葉しか浴びてこなかった僕にとって、それはあまりにも不慣れで、こそばゆくて、そして何より温かい響きだった。
「アレン」
人垣が割れ、父バルトが歩み寄ってきた。いつの間に来ていたのだろう。腕組みをして、僕を見下ろしている。父の大きな手が僕の肩を叩いた。
「……まさか、本当に治すとはな」
短くそれだけ言った。だが、その声は微かに震えていた。
父の目を見ると、そこには驚きと――そして、息子を誇らしく思う父親の眼差しがあった。
「お前の錬金術……いや、お前は、我が家の誇りだ」
言い慣れない言葉なのか、父は少し照れくさそうに視線を逸らした。
――誇り。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中でずっと燻っていた暗い塊が、スッと溶けて消えていくのを感じた。僕は魔導師にはなれなかった。でも、僕はここで、誰かのために役に立てる。錬金術師アレン・ヴェルナーとして、胸を張って生きていける。
「……はい。ありがとうございます、父上」
こみ上げるものを堪えて答える。周囲からは温かい拍手が起こっていた。村人たちの笑顔が、朝日に照らされて輝いている。
僕は空を見上げた。ヴェルナー領の空は、昨日までのくすんだ色とは違い、どこまでも高く、澄み渡るような青色をしていた。
「さて、次は領地だ」
僕は小さく呟いた。一つの命を救えたなら、この死にかけた大地だって救えるはずだ。僕の中の科学者の魂が、静かに、しかし力強く燃え上がっていた。
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