第2話 酒とタバコと

 閉店作業は終わり、店内は静けさに包まれていたが、夜はまだ終わらない。


 広い蒼井屋の裏庭では、古い洋館の影が暗がりに横たわり、小道のライトが足元だけを照らしている。


「やはり広いな……」


 桜子がこぼすと、隣で幸が笑った。


「無駄に広いから、合宿所になっちゃうんだよね」


 終電を逃した夜に泊まり込む事を、「合宿」と呼ぶようになっていた。


(今夜は合宿ではない、はずだ)


 そう自分に言い聞かせながら、桜子は嘉穂の背中を追う。


 庭の端にある、店より一回り小さな洋館が嘉穂の住まいだ。


「いらっしゃい、さくらさん、姫」


 嘉穂が玄関の灯りをつけ、振り向く。


「失礼します」

「ただいまー」


 幸は靴を玄関に投げ廊下を進む。

桜子は幸の靴も揃え、コートの裾を直してから一礼し、後に続いた。


 扉を開けると、整ったリビングダイニングが広がっている。


 テーブルの上には、三人で食べるには少し多いくらいの料理と、飲み物が並んでいる。


「わぁ、ごちそうだ」


 幸がソファに倒れ込むように座り、テーブルを覗き込んだ。


「ちょっとだけ頑張ってみたから」


 少し肩の力が抜けた嘉穂が、キッチンから顔を出す。


「さくらさんはそこ座ってて。飲み物、俺が持ってくるから」

「いえ、何か運びます。皿くらいなら──」

「そういうのは店だけで十分でしょ。今日はゲストなんだから、座っててくれた方がうれしいな」


 あっさり遮られる。

 桜子は反論を探しかけて、飲み込んだ。


(店主の家で何もせずに座っているのは、どうにも落ち着かない)


 それでも、言われた通りに椅子に腰を下ろす。

 ソファにはすでに幸が横向きに寝転び、クッションを抱えたままこちらを見ていた。


「さくら、顔が固い。もっとくつろいでいいんだよ?」

「これ以上どうくつろげばいい」

「とりあえず心のネクタイ外して?」

「今日は付けてない」

「じゃあ、心のネクタイ」


 幸のいい加減な物言いに、苦笑だけが返った。


 嘉穂がグラスを三つ置く。

 桜子と嘉穂の前にはビール、幸の前には炭酸のペットボトル。


「姫、最初だけちょっと飲む?」

「いらない。その分食べるから」

「うん、そのパターンは把握してる」


 嘉穂が椅子に座り、グラスを手に取る。桜子も同じようにグラスを持ち上げた。幸はペットボトルをつまむ。


「じゃあ、改めて」


 嘉穂が二人を見渡した。


「お疲れさま。二人とも本当に助かったよ」

「おつかれさまでした」

「おつかれー」


 ニつのグラスとペットボトルが軽く触れ合う。


 一口含むと、ビールの苦味が喉を滑り落ちていく。普段より、少しだけペースが速い気がした。


「……やっぱり乾杯だけビールにすれば良かった」


 幸が顔をしかめ、ペットボトルをテーブルに戻す。


「珍しいな。どうした」

「最初の一口だけは雰囲気大事なの」

「酒よりタバコ派のくせに」

「空気は読むの」


 幸は無意識にタバコに手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「ここ、室内はダメだからね」


 嘉穂が、指先でテーブルをとん、と叩く。


「知ってるって。ちゃんと外で吸うよ。さくらほど真面目じゃないけど、常識くらいはある……はず」

「断言出来ない辺りが姫らしいな」


 嘉穂の苦笑に、幸も肩をすくめる。

 桜子のグラスは、嘉穂のペースに合わせて自然と半分ほどまで減っていた。


「この半年、どうだった?」


 唐揚げの皿を中央に寄せながら、嘉穂がふと尋ねた。


「どう、とは?」

「さくらさんの感想。数字じゃなくてさ。俺としては聞いておきたいところなんだけど」

「……忙しかったです」

「それは見てれば分かるね」


 嘉穂が目を細めて笑う。

 幸が料理をつつきながら口を挟んだ。


「毎度なんか事件起こるよね。楽しいけど」

「お前が起こしたものも多いがな」

「記憶にないなぁ。さくらがなんとかしてくれるから」

「褒めているのか、それは」

「もちろん。尊敬してるよ、さくら」


 尊敬、という言葉に、桜子は少しだけ視線を落とした。


(尊敬されるようなことを、しただろうか)


 思い返せば、数字を積み上げて、抜けを探して、帳尻を合わせていただけだ。

 それが大事なことだと分かってはいても、胸のどこかに「まだ足りない」という感覚が居座っている。


「さくらは?」


 幸の声に、桜子は顔を上げた。


「何んだ」

「この半年。楽しかった?」

「……楽しいか。そんな尺度で仕事をした事がないからわからん」


「さくらさん」

「さくらはさ」


 ぴたりと声が重なり、三人とも一瞬黙る。先に笑ったのは幸だった。


「譲るよ、嘉穂ちゃん」

「じゃあ、俺から」


 嘉穂がグラスを置いた。その目には、仕事中より少し困ったような色が浮かんでいる。


「さくらさんさ。店のこと一番に考えてくれるのは、本当にありがたいんだよ」

「仕事ですから」

「そうなんだけどね」


 料理をつまみ、嘉穂は続けた。


「さくらさん、たまには俺を頼りなよ。頼りないかな?」

「そんなつもりはありません」

「“つもりはない”って言い方が出る時って、だいたいそうなんだよなあ」


 からかう口調に、心配の色が混じる。図星を刺されたような感覚に、喉の奥がきゅっと固くなった。


 ビールをもう一口飲んで、誤魔化すように喉を動かす。


「姫にも聞きたいんだ」


 嘉穂が話題を振る。


「姫は休みの日、何してる?」

「寝てる」

 迷いなく即答が返る。

「たまにトイレ起きるけど、基本寝てる。起きたらタバコ」

「うん、だいたい想像どおりだね」

「さくらは?」

「掃除はします。あとは本を読んだり」

「それ、仕事の本じゃない?」

「……おおかたは」


 幸がじとっとした目でこちらを見る。


「さくら、休むの下手」

「下手という自覚はある」

「自覚あるなら、練習しなよ。ダラける練習」

「そんな練習あるか、バカ」

「なんでよ。私、サボるのめちゃくちゃ上手いよ?」

「代わりに働くものがいるからな」


 嘉穂がくすっと笑った。


「姫はさ、自分のやりたい事やってるよね」

「寝てタバコ吸って、時々仕事」

「店の心配はしないのか」

「さくらが何とかするから大丈夫」

「うーん、それはそれで信頼ってことにしておこうか」


 笑い声が少しずつ増え、グラスの残りも底に近づいていく。


「店のこれから、さくらさんはどうしたい?」


 嘉穂が、ふいに真面目な声を出した。


「どう、とは」

「売上とかじゃなくてさ。さくらさん自身がどうしたいかって話」


 一瞬、言葉が出てこなかった。


(自分の、話)


 店のために何をするかならいくらでも語れる。

 けれど「自分がどうしたいか」と問われると、頭の中に白い空白が広がる。


「……このまま成長していけば、それで」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


「店が続いてくれれば、それでいいです。私は、そのために出来ることをやるだけです」


「うん。さくらさんらしい答えだね」


 嘉穂はしばらく黙って桜子の顔を見ていた。


「ねぇ、さくらさん」


 柔らかい声で呼ぶ。


「店のこと、そんなふうに考えてくれてるの、本当にありがたいよ。俺も支えられてるなって思う」

「だから、それが私の──」

「でもね」


 嘉穂が、言葉をかぶせた。


「全部抱え込まなくていいから。そこだけは、ちゃんと覚えといてほしいな」


 その一言が、思った以上に深く刺さる。


(抱え込んでいる……のか、私は)


「抱え込んでいるつもりは、ありません」

「ほら、また“つもりはない”って出た」


 嘉穂は少し笑ってから、真面目な目に戻る。


「今日は特にね。半期決算、無事に終わった記念日だし」

「……はい」

「店のこと忘れていい夜、って決めても、誰も怒らないよ。俺も、ちょっと忘れたいしね」


 店のことを、忘れていい夜。


(どうやって、忘れればいいんだ)


 最初に浮かんだのは、その疑問だった。


 それでも、ビールのせいだけではない熱が頬に灯っている気がした。肩の力が、ほんの少しだけ抜けていく。


「……努力はしてみます」

「努力するところそこ?」


 幸が笑いながらグラスを持ち上げる。


「さくらがちゃんと休めるようになったら、私のサボりがバレにくくなるしね」

「動機が不純だ」

「いいじゃん。結果オーライ」

「断る」

「即答」


 嘉穂が、くすりと笑う。


 そんな他愛もないやり取りのうちに、グラスの中身はさらに減っていった。


(店のことを考えない夜)


 掴めないその感覚を、ビールと一緒に喉の奥へ流し込みながら、桜子はゆっくり息を吐いた。

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