第3話 煙と夜と
皿の上に残ったポテトサラダをつつきながら、幸はあくびを一つ噛み殺した。
テーブルの上には飲みかけのグラスと空き皿。話はひと区切りついて、部屋の空気が少しゆるむ。
「タバコ吸ってくる」
そう言って、幸はソファから腰を上げた。
「いってらっしゃい」
嘉穂が、いつもの調子でゆるく声をかける。
「外は冷えるから上着忘れるな」
桜子が母親の様に言う。
「実家より実家みたい」
手近なカーディガンをひっかけて、幸はリビングを出た。
◇
庭の向こうに、蒼井屋の影がぼんやりと浮かんでいる。
幸は一歩外に出て、ドアに手をかけたまま少しだけ振り返った。
(……あ、そういえば)
脳裏に、作業室のドアの裏側が浮かぶ。
──関係者以外立入禁止(※嘉穂ちゃんはいつでも可)
雑な字、ガムテープ。さっき、ドアが開いたときに、嘉穂が一瞬だけ眉を上げた。
(見られたんだよな、あれ)
思い出した途端、頬がじんわり熱くなる。
(誰にも見せないつもりだったのに)
ギリギリ本音を混ぜた悪ふざけ。
幸はポケットからタバコを取り出し、ライターを鳴らす。火をつける指先が、少しだけ震えた。
(本気の告白なんて出来ないクセに)
煙を吐き出しながら、心の中で自分を笑う。
(あれくらいが限界なんだよね。逃げ道を確保しとかないと……)
冗談っぽくしておけば、いつでも引き返せる。
そうでもないと、怖くて何もできない。
火のついた先端を見つめながら、幸はさっきの会話を思い返す。
──店のこと忘れていい夜、って決めても、誰も怒らないよ。
(……それが出来たら楽だって)
息を吸い込んで、ふっと笑う。
自分のことを考える。
幸は、好きだとかハグしてとか、割と平気で口にする。嘉穂に抱きついて「嘉穂ちゃん、好きー」と言ったことなんて何度もある。
嘉穂は、無表情で流す。
(あの感じ、便利なんだよな)
便利で、安全で、ずるい。
(今の距離感を進めたい?)
本気で関係が変わる賭けはしない。
今ある居心地の良さを壊すくらいなら、冗談の中でうろうろしていた方が楽だ。
一方で、桜子の顔が浮かぶ。
(さくらは、逆だ)
好きだなんて絶対に口にしない。
答えを聞くのが怖いから、そもそも言えない。
(怖がり過ぎだって)
幸は、タバコの先を見つめたまま目を細める。
(まぁ、私も似たようなもんか)
自信がないから言わない。
自信がないから、適当にごまかす。
(結局は逃げてるだけなんだよね、わたしたち)
自嘲気味に笑いながら煙を吐く。
(……面倒くさいな)
苦笑して、もう一度煙を吐いた。
さっきの桜子の顔がよみがえる。「楽しかったか」と聞かれて、答えられなかった表情。
店のためならいくらでも言葉が出てくるのに、「自分がどうしたいか」と問われた瞬間に固まる横顔。
(あの質問、私も同じ答えになりそう)
冗談の中なら、いくらでも踏み込める。
でも、今の関係を本気で揺らす一歩は、結局踏んでいない。
(さくらが出来ないところを、私が出来てるつもりでいたけどさ)
タバコの火が、少し短くなっている。
(結局は同じなんだよね)
だったら、と幸は思う。
(今夜くらい、半歩だけ前に出てもいいか)
さすがに「好きです、付き合ってください」と真正面から言う度胸はない。それは、まだ先のどこかに丸めて隠しておく。
(でも)
今夜は三人きり。
(せめて“店のこと忘れて飲みません?”くらいは、私から言ってあげようか)
桜子のため、という名目があれば、少しだけ怖さは薄まる。
(さくらが出来ないことを、私が半歩やる。それくらいの役得、もらってもバチは当たらないでしょ)
そう決めたところで、背後のドアがきい、と軋んだ。
「幸」
覗いた顔に、幸は振り向く。
桜子が、ドアの隙間から外を見ていた。室内の灯りが背中に当たり、輪郭だけがくっきり浮かんでいる。
「寒くないのか」
「平気。酔い冷まし」
そう返すと、桜子はわずかに眉を寄せた。
「飲んでないだろう」
「お酒以外で酔った」
「まぁいい」
幸はタバコをくるりと指先で回した。
「ねぇ、さっきのさ」
「何の話だ」
「さくらってさ、“好き”って言えないタイプだよね」
わざと軽い調子で投げてみる。
桜子の肩が、ほんの僅かに揺れた。
「……自分ではわからない」
否定ではなく、話題そのものをそらす。
(ほらね)
幸は心の中で肩をすくめた。
「やっぱりね」
タバコを灰皿で揉み消してから、壁にもたれる。
「そろそろ戻るぞ。店主がお待ちっ」
桜子が、話を切るように言う。
「はーい」
幸は桜子の横に並び、ドアに手をかける前に思い出したように口を開いた。
「ねぇ、さくら」
「何だ」
「さっき言ってたじゃん。半期決算、無事に終わった記念日だって」
「……ああ」
「だったらさ。今夜くらい、ちゃんと“二次会”しようよ」
横目で桜子の表情をうかがう。
「珍しいなお前が誘うの」
「たまにはね。さくらと二人で話したい夜もあるよ」
言葉の最後だけ、少しだけ真面目な色を混ぜる。
「明日も仕事だぞ」
「私は飲まないし、さくらはいくら飲んでも大丈夫でしょ」
「……否定はしない」
桜子の返事に、幸は小さく笑った。
「じゃあ決まり。さくらの“店のこと考えない夜”の練習、付き合ってあげる」
「誰の練習だ、それは」
呆れた声を背中に受けながら、幸はドアノブを回した。
(ついでに、私の“逃げない夜”の練習)
そんな言い訳を胸の中でつぶやきながら、部屋の明かりの中へ戻っていった。
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