女二人、二十八歳。まだ恋は始まらない
ネコ屋ネコ太郎
第1話 真面目と怠惰と
電卓の音とキーボードの打鍵音だけが、狭い部屋の空気を揺らしていた。
蒼井屋の奥。従業員でも滅多に入らない「作業室」は、ほとんど幸の縄張りだ。
棚には箱や瓶や紙がぎゅうぎゅうに詰まり、床には段ボールと資料の山。隅には小さな冷蔵庫と、簡易ベッドまで置かれている。
ドアの裏には、雑な字の紙が一枚ガムテープで貼られている。
──関係者以外立入禁止(※嘉穂ちゃんはいつでも可)
桜子は、それを一瞥だけして、手元の試算表に視線を落とした。
「……ここ、桁がひとつ右にずれてるぞ」
列を指でなぞりながら、静かに告げる。
「え、マジ? あーほんとだ。そこ千の位か」
「こちらで直しておく。幸は入力を続けろ」
「はいはい、ありがとねさくら」
幸は椅子をくるりと回し、画面に向き直る。
足元はだらしなく伸びているのに、指先だけは軽快にキーを叩いていた。
雑然とした部屋の中で、桜子の机の上だけが整っている。
レジ締め、領収書、通帳のコピー。必要なものだけが薄いファイルに収まっていた。
「半期決算、売上はこれで全部だな?」
「たぶん。昨日までの分と、今日のレジ締め入れたし」
「“たぶん”は決算には不要だ」
「ですよねー。じゃあ確認済みに格上げしときます」
軽口を交わしながらも、数字の列は埋まっていく。
桜子は電卓を叩き、画面に出た合計を試算表に写した。
(……今期も黒字)
胸の奥が、ようやく静かに落ち着く。
「どう? 店、生き残る?」
「当たり前だ」
「よし、生存確認。じゃあ来期は攻めたいねー」
「攻める前に、まず今期を締める」
言いながら、桜子はもう一枚の紙に手を伸ばす。
この半年で増えた仕入先。新しく取った委託品。どれも、かなり攻めている。
「さくら、さ」
幸がキーボードを叩きながら、ふいに言った。
「最近さ、清音ちゃんがよく嘉穂ちゃんと私のとこに相談来るんだけどさ」
「それで」
「さくらのところには、あんまり来てないよね」
「……仕事の相談なら、店主に行くのは正解だ。幸は、先輩だと思われてないだけだ」
「それって、雑に扱っていい人?」
「良く言えば話しやすいだけだな」
自分で言って、少しだけ胸がちくりとした。
(頼られてない、ってことではないはず)
ミスをした時、泣きそうな顔でやって来るのは、だいたい店主か幸のところだ。
私のところに来るのは、「これお願いします」と積まれた仕事と、捺すべき印鑑だけ。
電卓のキーをもう一度叩いて、桜子は思考を打ち切った。
「……よし。売上の集計はこれで終わり。あとは仕訳と、書類の確認」
「まだあるの?」
「ここからが本番だ」
「本番は嘉穂ちゃんじゃないの?」
「店主は最後の決裁と印鑑が仕事だ」
幸は大きくため息をついてから、棚の上のファイルを引きずり下ろした。
「じゃあ、前座の本番、さっさと終わらせますか」
「手は抜くな」
「はいはい、“やることはちゃんとやる”女だから、私は」
確かに、やると決めた時の幸は速い。
入力の速度が一段階上がり、画面の数字がみるみる埋まっていく。桁の揃った列を見る目だけは、誰よりも真剣だ。
壁時計の針が閉店時間を少し過ぎたところで、最後の紙がファイルに綴じられた。
「……以上。お疲れ」
桜子がバインダーを閉じると、幸が椅子の上で万歳した。
「終わったー。さくら偉い。私も偉い」
「そうだな。良くやったな」
素直に口にすると、少しだけ照れくさい。
でも、今夜くらいは許されてもいいだろう。
事務所の方から、足音が近づいてくる。
「二人とも、どう?」
軽くノックして、ドアが開いた。
がちゃり、と金属の音。ドアの裏の紙が、手前に揺れる。
──関係者以外立入禁止(※嘉穂ちゃんはいつでも可)
それを視界に入れて、嘉穂は一瞬だけ眉を上げた。
(ああ、まだ貼ってたんだ)
口元にほんのり笑みを浮かべ、それ以上は何も触れない。
「半期決算、終わった?」
「はい。集計は完了です。あとは明日、データを税理士に送るだけです」
「そっか。ほんと助かったよ。二人とも、お疲れさま」
机のファイルをざっと眺めてから、嘉穂は少し誇らしげに頷いた。
「今期も黒字。いいね」
「相変わらず冗談みたいな金額です」
「みんなのがんばりのおかげだね」
「頑張りだけでは説明出来ない額ですよ」
「だって姫」
「知ってる。まぁ私は適当にやってるけどね」
幸の軽口に、嘉穂が笑って頭をぽんと叩く。
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「この後さ」
ファイルを戻しながら、嘉穂が何気ない口調で言った。
「よかったら、うち来ない? 簡単なのしか作れないけど、打ち上げしよ」
「行く」
幸が即答する。
「行く行く。ね、さくらも」
「……私も行っていいんですか?」
「むしろ、さくらさんを誘ってるんだよ。半期決算の功労者だし」
冗談めかして目を細める声には、遠慮の入り込む隙がなかった。
「どうせこのあと、レジのミスの傾向とか、棚卸しの段取りとか考えるんでしょ?」
「……はい」
「今日はそれ、全部禁止。晩ごはんとお酒のことだけ考えて」
禁止、と言われて、桜子は少しだけ言葉に詰まる。
(仕事のことを考えちゃいけない夜なんて、一体何をすれば良いのか)
肩の力が、ゆっくり抜けていくのを感じた。
「じゃ、決まりね」
幸が椅子から飛び降りる。
「さくら片づけて。私、タバコ吸ってくる」
「順番が逆。片づけてから吸う」
「うーん……じゃあ、片づけながら吸う」
「……ダメに決まってるだろう」
いつものやり取り。
その延長線上に、この夜の続きがある。
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