第33話 闘いの火蓋(3)

《盟約の教会・下層 告解の間》


 助走を付けたウテナの蹴りを、八千重は身をかがめて回避し、続く掌底を交差した腕でガードした。


 反動を利用して距離を置いたウテナは、八千重に一呼吸も与えず、教会の座席を足場にして跳躍。

 脚力に重力を掛け合わせたウテナの踏み付けを、八千重は咄嗟に飛びのいて回避した。


 ウテナの足が教会の床に接地した途端、体格と不釣り合いな重低音が響き、八千重は戦慄した。

 まともに受ければ一撃で大ダメージ、下手すれば戦闘不能だ。


 気圧された八千重が見せた隙に、ウテナは裏拳をお見舞いする。

 体を逸らしてかわした八千重は、伸び切った腕を掴もうと腕を伸ばしたが、そこにウテナはもういない。


 八千重の斜め後ろに移動したウテナは、彼女の腕を逆に掴み返し、一本背負いの要領で八千重を投げ飛ばした。

 八千重は豪快に一回転して背中を打ち、息が一瞬止まる。


 即座に体を反転させて立ち上がったものの、口元を拭う八千重の呼吸は荒く、身のこなしも精彩を欠いている。

 八千重の口から、苦しげな独り言が漏れる。


「……ホープの触れ込みは、伊達ではないようですわね……」


 一撃与えるや、即離脱してカウンターを往なし、間を置かずまた一撃を与える。

 ウテナの戦闘術は基本が芸術的なまでに洗練されている。


 攻撃も小粒なものではなく一つ一つが必殺級で、狐面の襲撃によるダメージが残っている八千重にはガードすら困難。

 必然、ウテナのペースに八千重が呑まれる形になる。


「もう終わりですか、八千重」


 対照的なまでに呼吸一つ乱れていないウテナは、顔を歪める八千重に挑発的に言い放つ。


「他愛のない。大言壮語の悪癖は治りませんのね」

「お黙りなさい。その吠え面をかけなくなるのも時間の問題ですわ」


 八千重はピシャリと吐き捨て、半身で拳を構えた。

 新たな攻防の予兆に、ウテナは唐突な疑問を差し込んだ。


「今度はこちらから問いましょう。八千重、あなたが私と戦う理由は何なのです?」

「戦う理由? そんなもの……」


 八千重が言葉を切ったのは、ウテナが戦闘の構えを解き、無防備な立ち姿を晒したからだった。

 両手を体の前で揃え、淑女然とした立ち姿でウテナは尋ねる。


「所詮私はメビウスの末端。仮に八千重が私に勝ったとしても、紅華を待ち受ける運命が変わることはない。そして、片割れの高遠さんは既に盟約の教会を脱している。なのになぜあなたは、この期に及んで私に拳を向けるのです?」

「あなたがそれを問うのですか、ウテナ!」


 清流のごとく穏やかなウテナの問い掛けに、八千重は荒れ狂う怒号を重ねた。

 平然と佇むウテナを、八千重はハッタと睨んで言い募る。


「よくも白々と! 二年前に終息したお嬢様事変、わたくしにとってはあの日から始まったのですよ! あなたが桜仙花学園を抜け、闇堕ちダークサイドお嬢様の元締めたる聖イリア校とメビウス総代の旗下に入った、あの日から! これはその過去を清算し未来に進むための、矜持を懸けた戦い……ウテナにとってもそのはずでしょう!」


 名指しで非難されても、ウテナは顔色一つ変えない。

 彼女の静粛な佇まいに、埋められない溝を感じながらも、八千重は一層声を振り絞った。


「今さら納得できる理由が提示されるとも、勝てばウテナが心変わりをするとも思っておりません。ですが少なくとも、あなた相手に引き下がることだけはできない! 闇堕ちダークサイドお嬢様の思想とあの愚行を、追認するような真似だけは! ゆえにこれはわたくしにとって必要な戦いなのです!」


 八千重の言葉の後、短くない静寂が満ちた。

 臨戦態勢の八千重に対し、尚も両手を下げたままのウテナは、ややあって心底呆れたような溜息を吐いた。


「そうですか。要するにあなたにとっての力とは、同胞を守るものでも他者に歩み寄るものでもなく、ただ自分の正しさを証明するための手段でしかないというわけですね」

「それは、どういう……?」


 そこで初めて八千重は戦闘の構えを緩めた。

 瞬きを繰り返し、不可解そうにウテナを見つめる。

 しばしの沈黙を経て、ウテナはほんのわずかに口を動かす。


「……普段は最大多数の幸福などと高飛車に嘯いておきながら、肝心なところでは自分のことばかり。あなたのそういう傲慢なところ、私は昔から大嫌いでしたわ」


 愚痴めいたウテナの呟きは、半分も八千重の耳に届かなかった。

 ウテナはもう一度大きな溜息を吐き、八千重を追い払うように右手を振った。


「興が削がれました。そんなに高遠さんのことが気になるのなら、お行きなさい」

「……え?」


 今度こそ八千重は素っ頓狂な声を上げた。

 油断を誘い奇襲を仕掛けるつもりかと疑うも、相変わらずウテナの立ち姿は隙だらけ。

 戸惑いを隠せない八千重に、ウテナは冷めた口調で続ける。


「口ではご大層なことを仰っておりますがね、ずっと心ここに在らずという顔をしていますよ。それに大方、例の狐面に負わされた傷も疼くのでしょう。今の八千重に打ち勝ったところで、何の自慢にもなりはしません」

「……なぜです? 全権代理の副総代の命令に背くのは、メビウスを裏切る行為になるのでは?」


 疑心暗鬼な八千重の指摘を、ウテナは肩を竦めて往なす。


「具体的に『紅華を足止めしろ』と命令されたわけではありませんわ。八千重の前に立ちはだかったのは、あくまで私の自己判断。ゆえにここであなたを見逃したところで命令違反にはなり得ません。足止めの話をするなら、そもそも高遠さんを逃した時点で破綻したも同然です」


 詭弁めいた理由を列挙してから、ウテナは三校の最高幹部が残る円卓の間を見上げた。


「それに今回に関しては、副総代も本気で紅華を潰そうとしているわけではないでしょう。何をなさりたいのか粗方の察しはつきますが、いずれにせよ私とあなたがこれ以上戦う意義はありません。あくまで八千重が継戦をご所望なさるなら話は別ですがね」


 戦闘が止み、熱く滾っていた八千重の血が冷えていく。

 ウテナの横顔にかつての面影を見出した八千重は、意を決し、一歩踏み出した。


「ウテナ、わたくしと一緒に来る気はありませんの?」


 流し目をよこすウテナに、八千重は切実な表情で訴えかける。


「あなたの中には、まだ人を慈しみ、希望を信じる心が残されている。桜仙花学園に再入学し、全てをやり直しましょう。わたくしも陽香さんも最大限あなたの力になります。もし聖イリアを抜けられない事情があるとしても、わたくしは――」


弥勒寺みろくじ八千重ヤチエ。あなたは一体、何様のおつもりですか?」


 それは八千重をして初めて聞く、殺気に満ちたウテナの声だった。

 数秒前までの冷静さをかなぐり捨てたウテナは、その目にありありと怒りと軽蔑を宿し、八千重に詰め寄る。


「正義と善性がご自身の特権だとでもお思いですか? 副総代が仰ったことが全てですよ。私は人を慈しむことを忘れたわけでも、希望を信じなくなったわけでも、ましてや闇に堕ちたわけでもない。至極冷静に、自分の意志で、我らが総代に付いていくことを選んでいるのです。理解されずとも構いません。ただ、あなたが自らの尺度で我々を見下し、聖母気取りで筋違いの救済を説くおつもりならば……」


 ウテナは手刀の切っ先を八千重に突き付け、宣言した。


「それは我々に対するこの上ない侮辱であり、宣戦布告です。この先は容赦しませんよ。破滅が二人を別つまで」


 八千重は威圧され、生唾を呑み込んだ。

 ウテナの台詞は脅しではない。先ほどまでとは比較にならない気迫が、ウテナの全身を覆い満たしている。

 八千重と戦っている時のウテナは、まるで本気で臨んではいなかったのだ。


 このまま戦いを続けても、八千重はウテナに勝てない。力のみならず、心においても。

 八千重はとうとう戦闘態勢を完全に解き、俯いて自省した。


「……そう、かもしれません。失礼、軽率なことを口走りました」


 唇を噛む八千重を、鼻を鳴らして見遣り、ウテナは冷たく言った。


「いずれ再び拳を交える時が来るでしょう。その時は完膚なきまでに叩きのめして差し上げます。それが嫌なら、せいぜい尻尾を巻いて離宮を出て行くか、その不格好なお嬢様武芸アーツを少しでも磨いておくことですわ」


 警告とも挑発とも取れる言い回しを、八千重は複雑な表情で受け止める。

 言うべき言葉を模索する八千重に、ウテナは鬱陶しそうに顎でドアをしゃくってみせた。


「とっととお行きなさい。大事なご友人なのでしょう? 私に要らぬお節介を焼く暇があるなら、まず彼女から目を離さないことですわね」


 強い語調で促され、八千重は反射的に駆け出した。

 教会のドアに手を掛けた所で、八千重はウテナを振り返り、何事かを早口で呟いてから外に出る。


 教会のドアが閉じ、告解の間に一人残されたウテナは、座席の背もたれに尻を預けて独り言ちた。


「……ふん、どこまでも白々と」


 ――わたくしにとっては、あなたも大事な……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る