第34話 闘いの火蓋(4)

《桜仙花学園学生寮・黒蘭》


 幾度の攻防で埃っぽくなった寮の廊下で、天井の蛍光灯が光の梯子を作っている。

 その光を浴びるライムちゃんは、滝のように汗を流し、目に見えて消耗している。


 かく言うわたしも疲れているのは同じ。

 戦闘の間隙、わたしはガードした腕を摩り、ライムちゃんを賞賛した。


「……やっぱり強いね、ライムちゃん」

「クソッ、何で、何で……!」


 対するライムちゃんは、思うように戦いが進まないせいか、苛立ちを隠せずにいる。

 数日前のわたしは、ライムちゃんに手も足も出なかったけれど、今日は彼女に負ける気があまりしなかった。


 理由の一つは仮面だ。

 前回と違い、今日のライムちゃんは素顔を晒している。

 視線や表情は次の一手を雄弁に語り、わたしは余裕を持ってガードや回避を行うことができている。


 もちろん楽な相手ではない。

 ライムちゃんは小柄な体格の割に瞬発力が半端なく、下手なガードをしようものなら吹っ飛ばされかねない。肝を冷やした場面も一度や二度ではない。


 それでも、そのライムちゃんとの戦い方、有利状況の作り方も、少しずつ掴めてきた。


 ライムちゃんは短く息を吐き出すと、気力を振り絞るように拳を握る。

 そして軽やかなサイドステップで懐に潜り込み、鋭いパンチを繰り出した。


 その動きを目でトレースしていたわたしは、ライムちゃんの拳を組んだ両手で受け止めた。

 破壊力抜群の拳も、柔軟な部位でなら難なく防げる。

 そのまま彼女の手首を拘束しようとしたが、ライムちゃんは即座に腕を引き、わたしとの距離を置いた。


 やっぱりだ。仮面の有無だけじゃない。

 ライムちゃんの攻撃自体が、路上で襲撃を受けた時よりもかなり精彩を欠いている。攻めることより退くことに念頭を置いている。


 閉所の戦闘や持久戦が苦手なのかもしれないが、恐らく大きな原因はもっと別だ。

 わたしは戦闘の構えを解き、ライムちゃんに尋ねた。


「……そろそろ教えてくれないかな。ライムちゃんがわたしたちを襲った、本当の理由を」

「え?」


 ライムちゃんは目を見開き、硬直した。

 呆けたようなライムちゃんに、わたしは真摯に問い掛ける。


「前はお面をしていて分からなかったけど、今のライムちゃんは、すごく悲しそうな顔をしてる。ライムちゃんの戦いには、何かのっぴきならない事情があるんだよね。それって何なの?」


 ライムちゃんは唇を噛み、何も言わない。

 話したってどうせ分からないし、変わらない……そんな諦観を抱いているのかもしれない。

 そんなライムちゃんに少しでも寄り添いたい一心で、わたしは交渉を試みた。


「ライムちゃん。わたしは本当に、あなたがヤクザの娘だったなんて知らなかったの。わたし、そのことを一生の秘密にするよ。八千重ちゃんにもイスカちゃんにも輝知会長にも、誰にも絶対話さないって約束する」


「な、何で……?」


「だって、誰にでも知られたくない秘密の一つや二つあるでしょ? わたし、ライムちゃんとはいい友達になれると思ってるし、できれば離宮に残ってほしいとも思うから」


 動揺を隠せないライムちゃんに、わたしは心に浮かんだままの言葉で答えた。

 どうしようもない出自のせいでライムちゃんの人生が閉ざされてしまうなんて、そんなの悲しすぎる。

 何より今するべきは、ライムちゃんとの対立ではなく協力だ。


「その代わり……っていうとズルい気もするけど……わたしたちを襲った本当の理由、わたしだけに話してくれないかな。ほら、理由が分からないと口裏を合わせることもできないじゃん。もちろん、それもライムちゃんが望む限りは絶対秘密にするから」


 経緯がどうあれ、わたしと八千重ちゃんを襲った事実は覆せないし、わたしの弁護でどこまで罪を軽くできるかも分からない。

 それでも、ライムちゃんが勇気を出して真実を語ってくれるなら、わたしは最大限応えたい。

 無言の応酬が、たっぷり十秒ほど続いた後。


「……手紙が来たの」


 わたしの覚悟が伝わってくれたのか、ライムちゃんは俯き、消え入りそうな声で語り出した。

 先ほどまでの暴れぶりが嘘のようにしおらしく項垂れ、訥々と言葉を紡ぐ。


「『お前がヤクザの娘だということは知っている。バラされたくなければ、同封の仮面を使い、指定の時間と場所で高遠陽香のスマホを強奪・破壊しろ』って。正直、最初は無視しようと思ったの。僕は別に離宮にこだわりはないし、素性がバレて地元に帰ることになっても構わなかったから。でも……」


 ライムちゃんは床に力無く膝を付き、洟を啜った。


「できなかった。父さんは自分の代で家業を畳むって決めてて、娘の僕に最高の人生を送らせたいって一心で、全財産をはたく覚悟で僕を離宮に送ってくれたの。僕の妹も、『来年はお姉ちゃんと同じ学校に通いたい』って電話で声を弾ませて……妹の人生まで台無しになっちゃうかもって思ったら、やっぱり帰るって言い出せなくて……」


 そこから先は言葉にならなかったが、わたしが経験したことが全てだろう。

 妹さんに悪影響が及ぶ可能性があったから、ライムちゃんは事情を話すことすらままならなかったのだ。

 ライムちゃんの良心を踏みにじる犯人に強い怒りを覚えつつ、わたしは念のために質問した。


「ライムちゃん、その手紙の送り主に心当たりはないの?」

「それは僕が聞きたいくらいだよ。知っていたらそっちを半殺しにしてた。多分、陽香ちゃんが僕の入れ墨のことを話した友達の誰かだと思うけど。ウチの組の入れ墨は珍しい模様だから……」

「ううん、それはないよ。わたし、そもそもライムちゃんに入れ墨があることすら知らなかったんだもん」

「え……?」


 キョトンとするライムちゃんに、わたしは苦笑交じりに頭を掻いて言った。


「いやー、恥ずかしながらわたし、マジで注意力がめちゃくちゃ散漫でさ。女の子の裸をいきなり見た驚きで記憶が全部すっ飛んじゃって。……っと、そんなことより、その入れ墨以外にライムちゃんがヤクザの娘だってことを知る手段はないの?」


 わたしの質問を受け、ライムちゃんは顎に指を当てて考え込む。


「どうだろう……鶴巻は母さんの姓だし、入学ルートにも気を遣ったって言ってたから、普通の生徒に偶然気付かれるってことはないと思う。僕の顔はネットに出回ってないはずだし、あの日からは着替えとか入れ墨隠しコンシーラーの貼り換えにも細心の注意を払ったから。理事長とか校長クラスならその気になれば調べられるだろうけど、入学できたってことは今のところ怪しまれてないんじゃないかな……他には、警察の公安辺りなら僕の情報も押さえてるかも……」

「警察……?」


 わたしは我知らず復唱していた。


 警察。離宮においては影が薄い組織だが、妙に引っ掛かる。

 それだけじゃない。わたし、もっと前から肝心なことを見落としているような……?


 わたしが無言で思考を巡らせていると、ライムちゃんは思い出したように言った。


「そうだ。陽香ちゃんのスマホ、返すよ」

「え? わたしのスマホ、壊せって言われてたんじゃ?」

「うん。手紙の送り主には、画像付きのメールで陽香ちゃんのスマホを壊したって報告したんだけど、それは僕が用意したダミーだったんだ。本当に壊しちゃったら困るだろうと思ったから、頃合いを見て本物は返すつもりだったの。今更だけど、本当にごめん」


 自室に戻ったライムちゃんは、机の引き出しを開け、取り出したスマホをわたしに差し出した。

 確かに使い慣れたわたしのスマホだ。顔認証のロック解除も問題ない。


「ううん、むしろびっくりした! 脅されてる状況でそこまで機転を利かせられるなんて、やっぱりライムちゃんはすごく優しい子なんだね……」


 驚嘆の声を上げながら、わたしは夢中でスマホをあちこちタップする。


 ライムちゃんを脅迫した犯人は、これを壊すことによほど執心していた。奪うつもりがなかったなら、目的は恐らくデータの隠滅だ。

 しかし何のために? わたしのスマホの何を犯人はそんなに気に掛けて……?


 タップとスクロールを繰り返すわたしの目に、ある画像が留まった。

 瞬間、わたしの中で蟠る点が、一つの線に繋がった。

 画像を拡大し、つぶさに観察する。


「……そっか、そういうことだったんだね」


 予感は的中した。映っている。真犯人にとって不都合なワンシーンが。


「ありがとう、ライムちゃん! おかげで全部分かったよ!」


 ライムちゃんに心からの感謝を伝えた後、わたしは部屋を飛び出し、ある人物に発信した。

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