8章 闘いの火蓋
第31話 闘いの火蓋(1)
居ても立ってもいられず、わたしは長椅子から立ち上がって言った。
「すみません、わたし、すぐに戻ってライムちゃんを捜してきます!」
「お待ちなさい、あなた一人ではまた返り討ちに遭ってしまうでしょう。わたくしも同行しますわ。輝知会長、会談の途中ですが、緊急事態につきよろしいですね?」
続いて立ち上がった八千重ちゃんは、逸るわたしを諫めつつ輝知会長に許可を求めた。
輝知会長は頷き、口早に答える。
「ええ、この場は私一人で充分です。しかし念のため学園に待機させている茜か翠子を――」
「そうはいきませんよ、紅華の皆様」
輝知会長の台詞を遮ったのは、メビウスの副総代、
出鼻を挫かれて硬直するわたしたちに、富良さんは淡々と話を進める。
「敢えて情報は伏せておりましたが、実は我々メビウスも一週間ほど前に襲撃を受けていたのですよ。今しがたの議題に上がったような狐面の不審者にね。生憎、交戦が本格化する前に逃げられてしまいましたが」
「んだよ、偉そうなこと言っときながらテメェらも逃げられてんじゃねぇか」
「ライムちゃんがメビウスも襲ったってこと……?」
わたしの呟きを、富良さんは言下に否定した。
「いえ、その者とは別でしょう。交戦した者の報告によると、その狐面の身長は百五十センチ強から百六十センチ弱……明らかに高遠さんと同等かそれ以上です。靴もごく一般的なスニーカーだったとのこと。つまり情報を整理するとこうなります。狐面の襲撃者は複数存在しており、少なくともそのうちの一人が桜仙花学園の生徒である、と」
「……何を仰りたいのですか?」
良からぬ空気を察したのか、輝知会長は硬い声音で尋ねた。
対する富良さんは、対照的なまでに余裕綽々の表情だ。勝ち誇っている風でさえある。
「おや、先ほど佐羽足様が仰ったことをお忘れですかな? お嬢様協定第四条、領分の侵犯に関する取り決めは、他でもない輝知様がよくご存知でしょうに」
「狐面の一団が桜仙花学園、すなわち紅華の指揮下にあると? 生憎ですが、あなたのご意見は矛盾だらけですわ。紅華が擁する集団がなぜ紅華の会員を襲うのです。我々がその件で今回の臨時会談を開く合理的な理由は?」
「事ここに至って真偽や理は関係ないのですよ。重要なのは、そのような危険な集団と桜仙花学園に強い関与が疑われること、そして現状紅華が彼女たちを制御できていないということなのです」
輝知会長の語気強い反論にも、富良さんは一歩も譲らない。
完璧超人の輝知会長に劣勢の兆しが見え、わたしの中にも不吉な予感がよぎる。
その予感を裏付けるように、富良さんは円卓に手を付いて立ち上がり、声高に宣言した。
「ゆえにワタシは、メビウス全権代理として提案させていただきたいのです。一連の事態の全貌を究明するべく、メビウス・八咫烏が共同で桜仙花学園の調査に当たるべきだと」
富良さんの言葉が、残響となって室内に漂った。
彼女の提案が如何ほどの重みを持つのかは、痛いほど張り詰めたこの空気で十二分に理解できる。
ずっと眠そうにしていた八咫烏の湯逸さんすら、今は固唾を呑んで成り行きを見守っているほどだ。
輝知会長は一呼吸置き、あくまで冷静な対応に徹する。
「その要求は到底受け入れられませんわ。明確な学園自治権の侵害です。襲撃者の件については、我々が責任を持って徹底的な調査を――」
「お言葉ですが、輝知様。あなたはもし、今日の会談で我々と狐面の繋がりが疑われる事態になっていたら、逆に紅華と八咫烏で聖イリアの調査を提案していたのではないですかな?」
皆まで言わせることなく、富良さんは舌鋒鋭く指弾した。
口を噤む輝知会長に、富良さんは好機とばかりに畳みかける。
「ダブルスタンダードではないですかな? 我々を
儀式の時の粛然とした態度が嘘のように、富良さんの言動は攻撃性を増すばかり。
険しい表情で押し黙る輝知会長は、この状況の厳しさを何より雄弁に物語っている。
富良さんは長い人差し指を立て、嗜虐的な笑みを浮かべて言った。
「残念ですが、紅華のお三方をここから出すわけにはいきません。調査と称して証拠隠滅や我々への冤罪工作を図られては堪ったものではありませんからな。佐羽足様、協定に基づき、八咫烏にもご協力を求めますよ」
「……今回はしてやられたな、瑞月。悪く思うなよ、潔白なら大事には……ならねぇとは言い切れねーが善処はしてやるぜ」
佐羽足さんは手を付いて立ち上がり、哀れむような目を輝知会長に向けている。
激動する事態についていけず、わたしは呆けたように呟くことしかできない。
「な、何が起こってるの……?」
「お二人とも、私が合図したら出口に走りなさい」
輝知会長の早口の言葉を聞き取れたのは、ほとんど奇跡的だった。
口の動きを捉えたのか、富良さんの全身に剣呑な気配が漲る。
「作戦会議ですか? 随分と悠長な――」
「今!」
輝知会長の声が耳朶を打つと同時に、わたしの体は電流に打たれたように動いた。
八千重ちゃんと一緒に、わたしは一目散に部屋の出口を目指す。
横目で背後を振り返ると、長椅子から紅華の席に跳躍した富良さんが、佐羽足さんと一緒になって輝知会長に襲い掛かっている姿が見えた。
加勢したい気持ちをぐっと堪え――わたしと八千重ちゃんは、ドアを蹴破る勢いで飛び出した。
部屋の敷居を跨ぐ瞬間、わたしは背後で妙なやり取りを聞いた気がした。
「わりーな瑞月、まぁ適当に付き合ってやれ」
「感謝しますよ、譜吟」
* * *
数秒の間に様々なことが起きた。
富良コシュカが円卓上を駆け、紅華の三人に飛び掛かった瞬間、
瑞月に拳を叩き込んだのは譜吟が先だった。
軌道に割り込まれたコシュカは硬直を余儀なくされ、その隙に紅華の新人二人は部屋からの脱出を果たしてしまった。
譜吟の拳を受け止めた瑞月は、とっくに腕の力で彼女を押し戻し、牽制の間合いを取っている。
無論、コシュカへの警戒心も怠っていない。
「……ウテナ!」
叫ぶと同時に、コシュカは瑞月に回し蹴りを繰り出した。
瑞月がそれをガードする一瞬の間に、蓮野ウテナは二人の脇をすり抜け、陽香たちの後を追って外に出た。
ウテナの退室を見届けると、コシュカは円卓から下りて瑞月との距離を取り、まず譜吟に非難の目を向けた。
「どういうおつもりですか、佐羽足様。紅華のお二人を逃がす手助けをするとは」
「はぁー? 何のお話をされているのか全く分からないですねぇー、オレは親愛なるメビウス副総代・富良コシュカ様のご提案通り、瑞月を制圧しようとしただけですけどぉー? オレの攻撃にあーとーかーらー被せたのはそちらですよねぇー?」
譜吟は大袈裟に耳に手を添え、白々しく訊き返した。
意図的にコシュカを妨害したことは火を見るより明らかだが、後から攻撃を被せた事実がある以上、コシュカに反論の術はない。
コシュカは苛立たしげに舌打ちし、瑞月に向き直った。
「ふん、今回はそういうことにしておきましょう。しかしここから先はお願いいたしますよ。輝知様を逃がさぬよう、そしてワタシの邪魔をしませぬよう」
「はいはい、これで文句ねーだろ」
譜吟は
瑞月と一対一で対峙したコシュカは、自らの優位を誇示するかの如く、妖艶に唇を舐めて言い放つ。
「輝知様、そうまで必死にあの二人を逃がすとは、よほどご都合が悪いようですな。まぁ、ウテナは送れましたし、ワタシの方で会長を押さえられれば上々でしょう。桜仙花学園の処遇については、総代と情報共有の上、存分に検討させていただきますよ」
逃げ場を失い、学園の危機を示唆され、しかし紅華の会長に焦りはない。
聞こえよがしの溜息を吐き、瑞月は呆れ交じりにぼやく。
「迷子の迷子の子猫ちゃんが、随分と回りくどい真似をするようになりましたのね」
「……何ですって?」
コシュカの声と表情に、明確な嫌悪の色が滲む。
瑞月は目を閉じ、口角を不敵に吊り上げて問い返す。
「それはこちらの台詞ですよ。メビウスのナンバーツーの椅子はよほど座り心地がよろしいと見える。あなた先ほど、誰が誰を押さえると仰いました?」
艶やかな黒髪を背に流してから、瑞月は目を開き、返した右手をコシュカに差し伸べた。
「では――お望み通り、踊りましょうか」
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