第二楽章 ⑤ 忘却の旋律

 意識が朦朧もうろうとしている。視界が暗い。

 突然に母がおおかぶさり、何事かをエーカに耳打ちした。


「…………!」


 なに?

 聞こえないよ、お母さん。


 そう思った時、母の体が左方向に激しくれ、その衝撃でエーカは床に打ち付けられてしまう。


 上半身に温かい飛沫しぶきが吹きかけられた。

 でも、痛くはない。


 無数の絶叫が耳に届く。

 恨みと憎しみの怨嗟えんさと呪う声。心が崩壊した叫び。ゆるしをう声。

 

 皮膚が破れ、血が吹き出し、骨がへし折られ、肉がり潰されるいびつな音。

 血反吐ちへどを吐きつつも、生きようと転げ回る断末魔。


 視界の周囲は暗くて何も見えない。

 誰もいない。


 視界の真ん中には、黒い髪と真っ赤な水溜ちだまりがあった。

 お母さんがいた。


「お母さん…………いやだ! いやいやいやだああぁ!! いやああぁあああッ!!!」


 誰の声だろう。

 自分の声だ、と気が付くのに少し時間がかかった。


 すると、絶叫を押し退けて天井から声が降ってきた。

 ひどくなつかしかった。


『エーカ、起きなさい。もう起きられるでしょう?』

 そう言われた気がする。


 視界が、真っ白になっていった。



 目を開いて意識を戻すと、悪臭が鼻をいた。呼吸するごとに臭いはひどくなっていく。

 そのおかげで、先ほどまで自分が見ていたのは夢であるとエーカは悟った。


 次に、か細い笛の音が鳴っていることに気付く。

 横に視線を移すと、緑色の布を背景に木箱に座ってフルートを吹いている一人の少女と目が合った。


「Meno male(よかった)……」

 フルートから唇を離したルチアは、安堵あんど溜息ためいきとともにそう呟いた。


「ルチア……ちゃん」

 生きていた。何となく分かっていたけれど、良かった。


「エーカ、気分はどう?」


「大丈夫みたい。なんで?」

 あんな惨劇さんげきが起きた後なのに、エーカの心はひどく冷静だった。


 異様いようなほどに何も感じない。むしろ感じられない。

 嬉しいはずの思い出、悲しいはずの思い出、いくら頭に浮かべても何の感想もなかった。


「クラリネットとフルートで催眠譜さいみんふを吹いておいた。あんたの心がこわれないように」


「どうりで、落ち着いてるわけだ」

 エーカは静かにう。

「……お母さんは?」


「亡くなられました」

 視線を落としながらルチアは報告した。


「そう」

 でも、やっぱり悲しくなかった。

「……ルチアちゃん、なんで泣いてるの?」


 彼女はそれに答えず、涙を制服の袖でぬぐって言った。


「今は占領が完了して、街も落ち着いているから」

 そうですか。


「……私のこと、かないの?」

 もう分かってます。


「実はね、私は諜報任務のために王国へ派遣された帝国のスパイなの」

 知ってます。


「信じられないかもしれないけど、ずっとだましていた……」

 信じます。


「本当なら全員助けたかった。でも無血占領は無理だった。ごめんね、エーカ」


 もういいから泣かないで、と口に出すのも億劫おっくうだった。心と体がとにかくだるい。


「でも、後のことは心配しないで」


 何も心配はしていなかった。

 ただ何もしたくなかった。できれば早く死にたかった。


「具合はどうかね? 特務少尉」

 ふいに男性の声がした。テントの外からだ。


 その言葉を聞いた途端とたん、ルチアのゆるんだ泣き顔は一気に引きまった。話す言語を帝国語に切り替える準備をしていることが、エーカには分かる。

 直後、ルチアは背筋を伸ばして立ち上がり「閣下かっかッ」と叫ぶと、天幕の入り口に敬礼して動かなくなった。


 それを合図あいずに中へ入って来たのは、軍服に身を包んだ中年の男性。朱色の線が引かれた帽子をかぶり、腰には長いサーベルをっていた。


 やわらかく微笑ほほえんではいるが、高い階級のしょうこうであることがさっせられる。

 彼は一緒に天幕へ入ろうとした副官に外で待つよう指示すると、軍帽を脱いで口を開いた。


「私は派遣軍司令官の長谷川はせがわです。日本名は、宮輝みやき英歌えいかちゃんだね?」


「はい、その通りであります!」

 返事をしないエーカの代わりに、ルチアが答えた。


「ハハハッ、そうかしこまるな。民間人に化けるのが貴官の仕事だろう。民間人は敬礼などせんぞ。女学生の洋服もよく似合っとる」


「大変お見苦しく……。それで、あの、この娘を連れ帰っても?」


「問題なかろう。本当は誘拐罪だがな。本籍が日本国民なら後でどうにでもなる」


「ありがとうございます」

 こんなに溌剌はつらつと喋るルチアを初めて見た気がする。


「しかし、本人の意志は固まっているのかな?」


 二人の帝国軍人はエーカを見た。どうやら、自分に対して何かをうたらしい。


 彼はもう一度、たずねる。

「君はいきたいか?」


「死にたい……」

 エーカは口だけを動かした。


 指揮官とルチアが不思議なものを見るような顔になる。


 少しって、「生きたいか」ではなく「行きたいか」とかれたのだと気付いたが、どちらにしてもエーカは肯定できる心境ではなかった。


 直前の返答をなかったことにして続けられる会話を、エーカは無表情に聞いていた。

 そうして上官との話が終わると、ルチアは王国語で語りかける。


「行こう、エーカ」


「……どこに?」



「あんたの祖国──、日本だよ」







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