第二楽章 ⑥ 占領地

 大日本帝国。

 お母さんの祖国という言葉の他は、何の感想も思い浮かばなかった。


 何せ、エーカは生まれ故郷についての記憶がまったくない。

 時々、母から話を聞かされただけなのだ。


「今は返事をしなくていいわ。断る理由もないでしょうけど」


 指揮官が天幕から退出した後、ルチアはそう言って再びフルートに唇を重ねた。二分ほどの曲が終わると、不思議なことに体が演奏前より軽くなった気がしてくる。


 演奏中、半透明の虫のようなものが円を描きながらエーカの周囲に飛んでいたので、これが音楽魔法なのだろう。

 ルチアは長い呪文をとなえる代わりに、武楽器を用いて短い曲を吹くことで奇跡を起こしたのだ。


「何の魔法?」


 エーカが尋ねる。彼女は苦笑して言った。


「秘密よ。外に出ましょう。動けるのなら、ベッドを他の負傷者にゆずらないとね」


 ルチアに連れられて天幕から出ると、そこは見慣れた修道院前の通りだった。今は、道のずっと先まで天幕や物資が並んでいる。


 戦闘があったとは思えないほど、日の光はあざやかに透明だ。

 しかし、いまだ空には城壁内外から黒煙が立ち昇っており、鼻をく臭いは誤魔化しようもない。


「お湯で体を拭いておいたけれど、水浴びてきなさい」

 そう言われ改めて自身を見ると、随分ずいぶんと汚れていた。制服は新品になっているものの、手足の皮膚に黒い線が無数に走っている。

 血が皮膚の表面に染み込んだあとのようだ。


 しばらく凝視していたが、それ以上見ていると思い出したくない何かを思い出しそうになり、あわてて顔を上げる。

 気持ちを落ち着けるために目を閉じた。


 すると、静かになった世界にかすかな音が聞こえてきた。


 自然に体が動き出す。無意識に命じられるまま、夢遊病むゆうびょうのような足取りで進んでいく。


「……エーカ?」


 道の角を曲がり、別の通りへ。

 一歩ずつ確かになる音が楽器の音色だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。


 音の主は、重爆発音器【ヴィオラ】だった。

 ヴァイオリンよりもわずかに大きい器体が、大通りのすみで悲しげに鳴いている。


 もちろんいているのは帝国兵で、彼の周囲には同僚の兵士が数人座っていた。

 ふと、別の方向からも音が聞こえた。


 ヴィオラに合わせて演奏を始めたのは、【ヴァイオリン】を持つ兵士。彼が演奏に加わり、独奏が二重奏になった。


 音がなぐさめられ、明るくなる。


 次に【クラリネット】が現れ、二重奏が三重奏に。民家の屋根に下り立った【ホルン】が四重奏へ。【ファゴット】が登場し、五重奏になる。


 突然、エーカの背後から【フルート】の調しらべがひびいた。ルチアが合わさり六重奏。


 大気に力が宿った。


【オーボエ】、七重奏。【サクソフォン】、八重奏。【ユーフォニアム】、九重奏。【フリューゲルホルン】。【ハーモニカ】。【トロンボーン】。【シンバル】。【ハンドベル】。【ピッコロ】。【ファンファーレ・トランペット】。【太鼓】。

 奏者とともに、聴衆も大勢集まって来る。


 各楽器がますます増え、重奏が合奏に変化。自信に満ちた音響がつむがれた。

 民間人も自前の楽器で参加する。


 いつの間にか、最低限の武装を許可された王国奏兵たちまで一緒に演奏しているが、止めようとする者は皆無かいむだった。

 降伏せずに今まで街中に潜伏せんぷくしていたのであろう重武装の王国将兵もじっているけれど、それでも演奏を止める者はいなかった。


 初めて耳にする音楽。感極かんきわまる者たちの中で、エーカは目の前の光景をぼうぜんと見ていた。


 突然、息がまった。


 演奏が激しさを増す。頭痛が起こり、視界がかすむ。

 頭の奥で閉じ込めていた何かが、ふたをずらして手を出した気がした。


 楽器の音色が響くたびに、血の色がよみがえる。大勢の最期の声がうずを巻き、全てをつぶさんとなげき叫ぶ。


 それでも演奏は止まらない。


 吐き気をこらえつつ、聴衆をき分けた。

 これ以上ここに居たくない。もう聞きたくない。一秒でも早く立ち去りたい。


「お嬢ちゃん、大丈夫?」と、横から手が伸ばされる。


「うぁああぁああああ!!!」


 エーカには、それが真っ赤に染まって見えた。


 大通りをがむしゃらに駆ける。途中で帝国語の叫びが聞こえた気がしたが、構っている余裕よゆうはない。

 人や物を押し退け、奏音そうおんから逃げた。


 見慣れた街のいたる所には、白地に紅の円が刻印された旗がひるがえっている。されど、瞳をせたエーカはそれに気付かない。

 呼び止める者の声も、ふさいだ耳が拒絶する。


【おーい、あぶないわよー】


 しかし、その声は明瞭えいりょうな響きをもってエーカの頭に浸透しんとうした。

 立ち止まって目を開けると、そこには大きな蜘蛛クモがいた。エーカは驚愕きょうがくのあまり全てを忘れ、しばらく唖然あぜんとそれを見上げる。


 動いてはいるものの、生きてはいない。

 無機物で作られた機械仕掛けの蜘蛛だ。くっせつした八脚に支えられた胴体には目も口もなく、前方には顔の代わりに砲身が突き出ている。


 蜘蛛の背中には、二つの巨大なベル管が前向きに取り付けられていた。何かを発音するような見た目をしているが、そこから今の声が出たわけではないだろう。

 先ほどの呼びかけは空気の振動ではなく、頭に直接響いてくるような声だった。


「お嬢ちゃん、大丈夫?」

 蜘蛛の周囲にいる帝国兵が言った。ぎこちない王国語に顔を向けると、エーカは再び目を見開く。


 その兵士は女性だった。

 母と同じ長い黒髪をみ上げ、自分と同じ黒い瞳でこちらを見ていた。


「いつまた戦闘が起きるか分からないから、家に帰りなさい。こんな路地を走っていたら、子供でも撃たれるわよ」


 実際、彼女の背後にいる数名の女性軍人は騎兵カービン銃をエーカに向けていた。


「エーカッ!!」

 背後からルチアの声と足音がした。


 ただちに彼女たちは銃を構える。【フルート】をたずさえた者が接近したからだ。


 エーカの前に立ったルチアは、灰色のブロンドをらしながら帝国語で語りかける。

「ご心配なく、友軍です」


「……官姓名かんせいめいいても?」


「陸軍《田沼機関たぬまきかん諜報ちょうほう、ルチアーナ特務少尉。このは民間人です」


 流暢りゅうちょうな帝国語と音響兵器が身分証明となったのか、銃が下ろされた。


「了解しました、特務士官殿。こちらは陸軍《女子じょし奏兵そうへい連隊れんたい》第三大隊です。要塞南東側の掃討そうとうを行っておりました。敵の総数と捕虜ほりょ・死体の数が一致いっちしておりませんので、ご留意りゅういを」


「どうも……」

 無愛想な口調で礼を言ったルチアは、部隊を見回しながら続けた。


「ついに声楽科だけでなく、器楽科きがくかにも女子部隊が編制へんせいされたのね」


「ええ。試験的な従軍ですので予備よび扱いですが、良い遠足です」


 二人は笑い合った。


 ルチアは蜘蛛型の多脚たきゃく砲台ほうだいを指差してたずねる。

「まさか、それも女の子が動かしているの?」


「そうであります。この新型の実地試験も我々の任務です」


「へぇ……。よく女が戦闘砲兵になれたものね」


 すると、先ほどの「声」が再びエーカの頭に響いた。

【なれるわけがないでしょ? 女は奏兵科そうへいかしか募集されないわよ】


「な……」という声を上げたルチアの様子からして、どうやら周囲の人間全員に聞こえているらしい。

 車両の中の者が語りかけたようだ。


 されど今の言葉が事実なら、この車両に乗っているはずの彼女はいったい何者なのだろう。


「……なら、あんたは?」

 ルチアが問う。


【あたし、人間じゃないもん】

 さも当然という口調で戦闘車両は答えた。

 エーカは意味が分からない。人以外がどうやって人間の言葉をしゃべるのか。


 対してルチアはあきれるのではなく、むしろ驚愕きょうがくしたように口を開けた。


「人じゃないってことは、まさか……」



【精霊よ!!】







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