第6話 マッドサイエンティスト

# 第六章 マッドサイエンティスト


 白金グループ本社ビル、地下三階。


 エレベーターの扉が開くと、消毒液の刺激臭が鼻を突いた。廊下は薄暗く、天井に埋め込まれた蛍光灯が不規則に明滅している。壁は白く塗られているが、所々に茶色い染みがあった。それが何なのか、考えたくはなかった。


 科学情報部研究開発課。


 扉には金属製のプレートが取り付けられており、その下に小さく「関係者以外立入禁止」の文字が刻まれていた。電子ロックのパネルが赤く光っている。この先は、限られた者しか入ることができない。


 パネルにカードをかざす音。


 ピッ。


 緑のランプが点灯し、重い扉がゆっくりと開いた。


 


 篠宮零は、顕微鏡を覗き込んだまま微動だにしなかった。


 実験台の上には、培養皿が並んでいる。その中で、何かが蠢いていた。緑色の、粘液質の塊。それは生きており、ゆっくりと形を変えながら、培養液を吸収している。


「ああ……美しい」


 篠宮の声は、恍惚としていた。


 二十八歳。若く美しい男だった。整った顔立ち、白い肌、長い睫毛。だが、その美貌は今、無精髭と寝癖で台無しになっていた。長い黒髪は一本に結ばれているが、後れ毛がぼさぼさと飛び出している。白衣は汚れており、袖口には何かの液体が染み込んでいた。


 だが、彼はそんなことに気を払わなかった。


 目の前の生物だけが、彼の関心の全てだった。


「成長速度、予測の1.3倍。細胞分裂のサイクルも順調だ」


 篠宮は顕微鏡から目を離し、ノートに数値を書き込んだ。その字は乱雑で、他人には読めないだろう。だが、彼にとってはそれで十分だった。


 実験台の隅に、マウスの入ったケージがあった。


 白いマウスが、十匹ほど。それぞれが小さな体を丸め、怯えたように隅に固まっている。篠宮の視線が、そちらに向いた。


「さて、実験だ」


 彼はゴム手袋をはめた。パチン、という音が実験室に響く。


 マウスを一匹掴み出す。小さな体が、必死に暴れた。キィキィという鳴き声。だが、篠宮の手は容赦なくマウスを培養皿の上に持っていく。


「実験番号GB-047、第三段階毒性試験。開始」


 ピンセットで、緑色の塊を少量取り出した。それをマウスの背中に塗りつける。


 瞬間、マウスの動きが止まった。


 そして、痙攣が始まった。


 激しく、激しく。小さな体が跳ね、四肢がばたつき、口から泡を吹く。その様子を、篠宮は冷静に観察していた。表情は変わらない。ただ、瞳だけが異様に輝いていた。


「接触後三秒で神経系に作用。素晴らしい」


 マウスは、やがて動かなくなった。


 死んだ。


 篠宮はマウスを持ち上げ、目を細めた。


「接触から死亡まで、十二秒。前回より二秒短縮。改良は成功だ」


 死んだマウスを、無造作にゴミ箱に放り込む。ガサリという音。それは、生き物の死としては、あまりに軽い音だった。


 篠宮は再びノートに書き込んだ。


 そして、笑った。


「ハハ、ハハハハハ!」


 高い笑い声が、実験室に響いた。それは喜びの声だった。純粋な、子供のような喜び。だが、その笑顔の下で死んでいるマウスのことを思えば、その笑いはあまりに不気味だった。


 


 実験室の奥には、巨大な水槽が並んでいた。


 それぞれの水槽には、異形の生物が泳いでいる。いや、泳いでいるというよりも、蠢いているという表現が正しいかもしれない。


 ある水槽には、犬に似た生物がいた。だが、その顔は歪んでおり、顎は異常に発達している。鋭い牙が口から覗き、よだれが絶え間なく滴り落ちていた。そのよだれは、水槽の底のガラスを溶かしていた。


 別の水槽には、スライム状の生物がいた。半透明の体が、ゆっくりと膨張と収縮を繰り返している。その体内には、溶けかけた魚の骨が浮いていた。


 さらに別の水槽には、虫のような生物が蠢いていた。ダンゴムシに似ているが、サイズは十倍以上。その背中には、針のような突起が無数に生えている。


 これらは全て、篠宮零の作品だった。


 遺伝子組み換えによって生み出された、生物兵器。


 それらは違法であり、倫理的に許されないものだった。だが、篠宮にとって、倫理など何の意味も持たなかった。


 重要なのは、結果だ。


 そして、その過程を楽しむこと。


 


 扉が開いた。


 篠宮は振り向かなかった。顕微鏡を覗き込んだまま、声だけで応じる。


「何だ。忙しいんだが」


「失礼します、篠宮さん」


 入ってきたのは、スーツ姿の男だった。三十代半ば、神経質そうな顔つき。白金グループの社員だが、この部署には滅多に来ない。科学情報部は、社内でも特殊な扱いを受けていた。知らない方が良いこともある、と皆が暗黙の了解で理解していた。


「社長からの伝言です」


「社長?」


 篠宮がようやく顔を上げた。その目は、生き生きとしていた。


「何だ、また仕事か?」


「はい。例の地上げ案件ですが、一軒だけ難航しているとのことで」


「ふーん」


 篠宮は興味なさそうに鼻を鳴らした。


「それで、僕に何をしろと?」


「生物兵器の投入を検討しているそうです」


 瞬間、篠宮の表情が変わった。


 無関心から、好奇心へ。


 目が、キラキラと輝き始めた。まるで、誕生日プレゼントをもらった子供のような顔だ。


「生物兵器? どれを使うんだ?」


「GB-047を希望されています。犬型の」


「ああ、あれか」


 篠宮が水槽の方を見た。犬型の生物兵器が、ガラスに顔を押し付けている。その目は濁っており、知性の欠片も感じられない。ただ、本能だけが動かしている。


「いいね。実戦データが取れる」


「ただし」男が続けた。「人死にが出る可能性があるそうですが」


「それが?」


 篠宮は平然と言った。


「死者が出た方が、データは正確になる。むしろ好都合だろう」


 男の顔が引きつった。だが、何も言わなかった。この男の倫理観は、理解できない。理解したくもない。ただ、仕事として伝えるだけだ。


「わかりました。では、準備を進めてください」


「ああ。いつ実行する?」


「明後日を予定しているそうです」


「了解」


 篠宮は再び顕微鏡に向かった。もう、男に興味はない。


 男は黙って部屋を出ていった。扉が閉まる音。篠宮は、もうそれを聞いていなかった。


 


「実戦データか……」


 篠宮は、一人呟いた。


「楽しみだな」


 彼の手が、ノートの上を走る。実験計画を書き込んでいく。どのような条件で、どのような結果が得られるか。変数は何か。予測される死亡率は。


 全てを、冷静に、科学的に、計算していく。


 そこには、人間の命に対する畏れも、罪悪感も、何もなかった。


 ただ、実験への興奮だけがあった。


 


 水槽の中で、犬型生物兵器が唸り声を上げた。


 グルルル……。


 それは、どこか悲しげな声だった。かつて犬だった何かの名残が、まだその体の奥底に残っているのかもしれない。だが、今のそれは、もう犬ではない。殺戮のために作られた、兵器でしかない。


 篠宮は、その声を聞いて笑った。


「いい声だ。明後日が楽しみだよ」


 


 実験室には、様々な機械が並んでいた。


 遠心分離機、培養器、DNAシーケンサー。それらは全て、最新鋭のものだ。白金グループは、この部署に莫大な予算を投じていた。なぜなら、篠宮の研究は、信じられないほどの利益を生み出すからだ。


 彼が開発した溶解スライムは、建物の解体に使用された。従来の方法よりも早く、安く、静かに建物を溶かすことができる。もちろん、それは極めて危険な代物だったが、適切に管理すれば問題ない。実際、いくつかの商店街で使用され、その効果は実証されていた。


 彼が開発した人造魚は、海外の海に放たれた。繁殖力が異常に高く、在来種を駆逐していく。環境汚染が問題になり、その国の政府は対策に追われた。そして、白金グループが駆除薬を売り込んだ。マッチポンプ。問題を作り出し、解決策を売る。完璧なビジネスモデルだった。


 さらに、戦地で使用される疫病ダンゴムシ。これは刺されると高熱を発し、幻覚を見る。致死率は低いが、兵士を戦闘不能にするには十分だった。それもまた、売れた。


 篠宮零は、天才だった。


 だが、その才能は、人類のためではなく、破壊のために使われていた。


 


 彼は、子供の頃から生物が好きだった。


 虫を捕まえ、観察し、解剖する。それが楽しかった。生き物の内部構造を知ることが、彼にとって最高の娯楽だった。


 やがて、観察だけでは物足りなくなった。


 作りたい。


 自分の手で、新しい生物を作りたい。


 大学で遺伝子工学を学び、大学院で研究を続けた。その才能は、すぐに認められた。論文は高く評価され、学会で注目を集めた。


 だが、彼の研究には、倫理的な問題があった。


 動物実験の規制を無視し、危険な遺伝子操作を繰り返す。それが発覚し、彼は大学を追われた。


 だが、白金グループが彼を拾った。


 社長、白金冴は言った。


「君の才能を、存分に発揮してくれ。制限は一切ない」


 篠宮にとって、それは天国だった。


 


 今、彼の手元には無限の可能性があった。


 予算も、設備も、材料も。全てが揃っている。


 そして、何よりも。


 誰も、彼を止めない。


 


「さて」


 篠宮は新しいマウスをケージから取り出した。


「次の実験だ」


 マウスがキィキィと鳴く。だが、その声は篠宮の耳には届かなかった。


 ピンセットが、培養皿に向かう。


 緑色の塊が、再びマウスの体に塗りつけられる。


 痙攣。


 泡。


 そして、死。


 篠宮はそれを記録し、また笑った。


「完璧だ」


 


 時刻は、深夜を過ぎていた。


 白金グループのビルは、ほとんどの階で照明が消えている。社員たちは帰宅し、警備員だけが巡回している。


 だが、地下三階だけは、明かりが灯っていた。


 篠宮零は、まだ実験を続けている。


 彼にとって、時間の概念は希薄だった。朝も夜も関係ない。ただ、実験があるだけだ。


 食事も忘れる。睡眠も削る。


 それでも、彼は幸せだった。


 なぜなら、ここには彼の愛する生物たちがいるから。


 彼が作り出した、世界にたった一つの命たち。


 それらは醜く、危険で、倫理に反する存在だった。


 だが、篠宮にとっては、何よりも美しかった。


 


 水槽の中で、犬型生物兵器が再び唸った。


 グルルル……。


 篠宮は振り向き、その生物を見つめた。


「もうすぐだよ」


 彼は、まるで恋人に語りかけるように言った。


「もうすぐ、君の出番だ。存分に暴れてくれ。そして、僕に素晴らしいデータをくれ」


 生物兵器は、何も答えなかった。


 ただ、よだれを垂らし、ガラスに顔を押し付けているだけだった。


 


 篠宮は、再び顕微鏡に向かった。


 彼の横顔は、薄暗い実験室の照明に照らされて、影を落としていた。


 その影は、どこか人間離れして見えた。


 まるで、彼自身が、もう人間ではなくなっているかのように。


 


 実験室の隅で、ゴミ箱の中のマウスが、冷たくなっていった。


 その小さな体は、もう動くことはない。


 ただ、篠宮零という狂気の科学者が生み出した、数多の犠牲の一つとして、そこに横たわっているだけだった。


 


 明後日。


 まんぷく亭に、この生物兵器が襲いかかる。


 そして、篠宮零は、その結果を心待ちにしている。


 彼の目は、狂気に輝いていた。


 美しく、恐ろしい狂気に。


 


 夜は更けていく。


 地下三階の実験室だけが、明々と照らされていた。


 その光は、どこか不吉な色をしていた。


 


 篠宮零の高笑いが、再び響いた。


「ハハハハハ! これは傑作だ! 傑作だよ!」


 その声は、誰にも聞かれることなく、実験室の壁に吸い込まれていった。


 


 そして、水槽の中の生物兵器たちが、一斉に蠢いた。


 まるで、何かを予感しているかのように。


 


 静かな夜だった。


 だが、その静けさの裏側で、恐ろしい計画が進行していた。


 まんぷく亭の宇宙人たちは、まだそれを知らない。


 彼らが知るのは、襲撃の瞬間だ。


 それまで、時間はゆっくりと、だが確実に、刻まれていく。


 


 篠宮零の手が、ノートに何かを書き込んだ。


 「実験番号GB-047、実戦投入予定。対象:まんぷく亭」


 その文字は、死刑宣告のように冷たかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る